ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

つがいの二人

「──どうしよう、大丈夫かしら……」
 その日のリーナは、朝からずっとそわそわして落ち着かなかった。
 窓の外は晴れ渡っているが、まだ春には遠い。
 昨夜降った雪が王宮の庭の木々にうっすらと積もって、リーナは寒々とした景色を眺めては身を縮ませ、若干の不安と大きな期待を胸に暖かな部屋の中を一人、行ったり来たりしていた。
 ──ガチャ…。
 そのとき、唐突に部屋の扉が開く音が響いた。
 リーナがぱっと振り向くと、鋭く静かな碧眼と目が合う。執務を終えたフェネクスが戻ってきたのだ。
「あ…、おかえりなさい。フェネクス」
「あぁ」
 リーナの言葉にフェネクスは頷き、こちらに近づいてくる。
 相変わらず笑顔一つ見せないその表情からは感情が読めないが、彼がこういう人だということはリーナもわかっている。別段気にすることなくフェネクスの動きを目で追っていると、形のいい彼の眉が僅かにひそめられた。
「……何かあったのか?」
「え?」
「どうも落ち着きがないように見える。思えば…、朝から様子がおかしかったか」
「それはだって」
「なんだ」
「だ、だからそれは……」
 やましいことなど何もないのに、リーナは思わず口ごもってしまう。
 抑揚のない低い声で問われると、なんだか責められているようで、無意識にすぐ傍のカーテンをぎゅっと握りしめる。フェネクスはリーナの前で立ち止まり、カーテンを握る小さな手に自分の手を重ねて軽く首をかしげた。
「その顔はなんだ。怯えているのか?」
「……え」
「なぜだ? 私が何かしたか?」
「な…、何も……」
「そのわりに、身体に力が入っているようだが」
「これは……。本当になんでもないわ。ただ、ちょっと気になることがあるだけで」
「気になること?」
「えぇ、今日は王宮内も妙に落ち着かないし……」
 本当のことを言えば、以前のフェネクスとの関係が一瞬だけ頭に過っていた。
 リーナが窓辺でぼんやりしているとき、強引に抱かれたことが何度もあったからかもしれない。
 彼が部屋に戻れば、すぐさま淫らな行為がはじまる。まともな会話もなく、混乱の中で過ごした日々──。
 けれど、それはもう過去のことだ。
 あの頃からすれば、今の彼は別人のように優しい。
 フェネクスはリーナを傷つけるためにあんなことをしていたわけではなかった。彼には悪意どころか、悪気すらなかったのだから……。
 気を取り直して話の軌道修正を試みると、フェネクスは急に黙り込んでリーナの手に重ねた己の手をじっと見つめている。そのまましばし沈黙が流れたが、ややあって彼は何かを思い出した様子で顔を上げた。
「あぁ、シュトリたちのことを言っているのか」
「そうよ。それ以外ないでしょう?」
 彼の反応にリーナは苦笑を浮かべて小さく頷く。
 もしかして、彼は昨夜自分に話したことを忘れていたのだろうか。
 シュトリは国の宝とも言える鷹で、フェネクスはその鷹を唯一従えることのできる人だ。しかし、雛のときから育て、すでに五年が経つ。フェネクス同様、次代へと繋ぐ命に目を向けるのは当然の流れであり、シュトリが相性のいい雌の鷹とつがいになってからはじめての冬となった。
 ──シュトリのお嫁さんが卵を生んで、そろそろ一か月半……。
 夫婦で交代しながら卵を温める姿は感動すら覚えたものだ。
 そして、いつ孵化してもおかしくないという皆の話を聞き、そわそわしていた昨夜、フェネクスがリーナにこう言ったのだ。
『おそらく、明日の朝までに雛が出てくるだろう。先程、シュトリに会いに行ったら、卵の殻にヒビが入っているのを見せてくれた』
 さすが親代わりに雛から育てただけはある。卵を温めているときの警戒心の強い親鳥に近づけるだけでもすごいが、その卵を見せてもらったと言うのだからシュトリとの信頼関係がどれだけのものかわかる一言だった。
「そのことなら、昨日話したとおりだ。朝には雛の鳴き声がしていたようだ」
「ほっ、本当!? シュトリの赤ちゃんは無事なのね?」
「従者からはそう報告を受けている」
「……え…、報告? 会いに行ってないの?」
「雛を守ろうとしているのだろう。今、シュトリたちは夫婦そろって気が立っているようで、人が近づける状況ではないそうだ」
「あ……、そう…、なの……。なら仕方ないわよ…ね……」
 フェネクスの話に、リーナの声は段々としぼんでいく。
 そういうことなら仕方ないと思いつつも、少しだけ残念な気持ちになってしまう。
 リーナ自身は卵が孵るのを待ち遠しく思っていたけれど、シュトリの警戒心が強くなって、最近は遠目から鳥小屋を眺めることしかできずにいた。だから今日も部屋で一人そわそわしながら雛がちゃんと生まれたか、ずっと気を揉んでいたのだ。
 ──じゃあ、まだ誰もシュトリの赤ちゃんの無事を確かめられていないのね……。
 リーナが肩を落とすと、フェネクスはその様子を見てまた黙り込む。
 少しして、彼は窓の外に目を向けてからリーナに視線を戻した。
「……今から行ってみるか?」
「え?」
「どうする、リーナ」
「い、いいの? 私が行っても」
「直接雛を見られるとは限らないがな。腹が満たされている状態なら、鳴き声を聞くことすらできないかもしれない。それでもいいならだが……」
「そんなの全然…っ! 私、無事かどうか、わかればそれで……ッ」
「そうか。なら行こう」
 リーナが顔を真っ赤にしてコクコク頷くと、フェネクスの唇が僅かに緩む。
 今のが微笑だったのかさえわからないほどの些細な変化だが、彼の周りの空気が若干和らいでいた。
 フェネクスは「どのみち、私も明日には確かめにいくつもりでいたのだ」と言い訳をするようにつぶやき、リーナの手を軽く握りしめると、王宮の庭先にあるシュトリたちの鳥小屋へと向かったのだった。


+  +  +


 それから程なくして、リーナとフェネクスは鳥小屋へと到着した。
 鳥小屋とは言っても、そこは二階建ての建物と同じくらいの高さがあり、中は広々とした吹き抜けになっていて外観もゴシック様式でかなりの豪華さだ。
 シュトリは国の宝とも言うべき王家の鷹だから、当然といえば当然なのかもしれないが、リーナはまだその辺りのことをしっかり認識できておらず、はじめてここに訪れたときは呆気に取られたものだった。
「あ…、フェネクス、まさか中に入るつもりなの?」
「あぁ、先に様子を確かめてくる」
「で、でも、危ないんじゃ……」
「鷹は気配に人一倍敏感だ。人が近づいていることは気づいているはずだから、中に入ってみて警戒されればそこで諦めればいい」
「そんな行き当たりばったりなこと」
「いきなり襲ってきたりはしないだろう。多少何かあったとしても、そのときはそのときだ。おまえはここで待っていろ」
「フェネクス……っ!」
 フェネクスは鳥小屋に到着するなり、すぐさま扉を開けようとしていた。
 リーナが慌てて引き止めるも、彼は平然とした様子で建物の中に入ってしまう。
 シュトリに対する信頼があるからこその行動とはいえ、『そのときはそのときだ』なんて国王の発言とは思えない。何かあって困るのは、どちらかといえば本人よりも彼を信望する国民や臣下たちだ。
 ──私がシュトリの赤ちゃんの無事を聞いたりしたからだわ……っ。
 リーナははらはらしながら、鳥小屋を見上げた。
 中にいるのがシュトリだけならまだしも、ここにはつがいの鷹もいる。
 その雌の鷹はフェネクスとずっと過ごしてきたわけではないから、強く警戒されてもおかしくない。もしも彼が怪我をしたらと思うと身も凍るようだった。
 ──コツ、コツ……。
 ところが、それから間もなくのことだ。
 ガラスのようなものを叩いた無機質な音が、突然近くで響く。
「なに…? どこから……」
 リーナは目を瞬かせて辺りを見回す。
 すると、『コツ、コツ…』と再び音が聞こえる。何気なく鳥小屋の窓に目を向けると、建物の中からフェネクスがこちらを見つめていた。
「フェネ…クス……?」
 どうやら今の音は、彼が窓を叩いた音だったらしい。
 リーナが首をかしげると、フェネクスは扉のほうを指差したあと、手招きをしてみせる。
 中に入れと言っているのだろうか。
 リーナが目を丸くすると、彼は軽く頷いてもう一度手招きをした。
 ──本当にいいの……?
 半信半疑のまま、リーナはおそるおそる扉に手をかける。
 フェネクスが大丈夫と言うのだから信じるしかないが、やはり少し怖い。それでも、建物に入れるとは思っていなかったから嬉しい気持ちもあり、促されるまま中へと足を踏み入れた。
「リーナ、こっちだ」
「フェネクス」
「できるだけ静かにな」
「え、えぇ……」
 建物に入るなり、フェネクスに声をかけられる。
 リーナは息をひそめて彼のほうへ近づいていく。すぐ傍まで来たところで、手を取られてそのまま一緒に奥へと向かった。
 吹き抜けの天井のガラスから陽の光が注ぎ、なんとも開放的だ。
 温室に似た構造といえばわかりやすいかもしれない。建物の中央には大きな木が立っており、その木の中程にくぼみがある。そこから枝分かれしたところに二羽の鷹が寄り添う姿があり、リーナは思わず足を止めた。
「シュトリと…、ララ……」
 二羽の鷹は、自分たちの巣からこちらを真っすぐ見つめていた。
 大きな体躯でキリッとした顔をしているのがシュトリ、やや小さめで優しい顔立ちをしているのがララだ。
 姿こそ見えないが、二羽が寄り添う真ん中には雛がいるのだろう。
 時折、ララのほうが巣の中を気にする素振りを見せている。もしかすると、雛は満腹で眠っているのかもしれなかった。
「シュトリ、ずいぶん誇らしげだな。ついに父親になったか」
 ややあって、フェネクスは少し離れた場所から二羽に向かって話しかける。
 途端にシュトリがその場で軽く羽ばたき、返事をするように「ピィ」と鳴く。
 そんな姿からは警戒心など微塵も感じない。それどころか、フェネクスに対しては相変わらず子供のような反応だ。シュトリが気を許しているからか、ララのほうも警戒する様子を見せることはなかった。
 リーナはくすりと笑ってフェネクスに目を移す。
 美しい碧眼が細められ、彼は驚くほど穏やかな表情をしていた。
 ──フェネクスも嬉しいんだわ……。
 普段、彼はほとんど表情を変えないから、余計に気持ちが伝わってくる。
 なんだか少し羨ましい。一体、フェネクスとシュトリはどれだけの時を一緒に過ごしてきたのだろう。
 リーナがじっとその横顔を見つめていると、不意に彼がこちらを向く。
 フェネクスは微かに首を傾け、ゆっくりと瞬きをする。
 艷やかな黒髪が頬にかかり、その色香にドキリとしてしまう。リーナは顔が熱くなるのを感じ、大きく息をついてシュトリたちのほうに目を戻した。
「あ、あの…、フェネクス、ありがとう」
「……なんだ?」
「だからその…、ここに連れてきてくれて、ありがとう……。フェネクスが一緒だから、こうしてシュトリたちに会えたんだもの。彼らの様子を見れば、赤ちゃんが無事に生まれたこともわかるわ」
「そうだな」
「えぇ、本当によかった。今は黙って見守らないとね。時が経てば、かわいらしい姿を見せてくれるだろうから」
 リーナが笑うと、フェネクスはかすれた声で「そうだな」ともう一度頷く。
 握った手にやや力が籠もり、それが彼も同じ想いでいるのだと伝えているようでなんだかくすぐったかった。
 それからしばらくの間、自分たちはシュトリたちの様子を見守っていた。
 しかし、建物の外からびゅうっと吹き荒ぶ風の音が響いてハッと外を見る。先程まであんなに晴れていたのに、空がどんよりとした雲に覆われていた。
「そろそろ戻るか」
「そうね」
 今にも降り出しそうな天気に、どちらからともなく外に向かう。
 シュトリたちに挨拶をし、すぐに鳥小屋を出ると、不意に冷たいものが頬に当たった。
「……あ」
 一瞬、雨かと思ったが、フェネクスの濃紺の上着に真っ白な雪が次々舞い落ちている。
 そういえば、気温もずいぶん低い。これでは雪が降っても不思議ではなかった。
「まだまだ春は遠いようだ」
「本当ね」
「だが、もうすぐそこまで来ているのだろう。シュトリの雛が孵ったように……」
「……えぇ」
 彼がこんなふうに情緒的なことを言うなんて珍しい。
 シュトリたちの雛が孵ったことがそんなに嬉しかったのだろうか。
 リーナは空を見上げるフェネクスを微笑ましい気持ちで見つめた。
 彼の黒髪に落ちる雪が白い花のようで、見惚れてしまうほどだ。ぼんやりしていると、フェネクスが振り向き、リーナの長い髪にそっと手を伸ばしてきた。
「おまえの髪に落ちた雪が結晶になっている」
「あ、本当だわ。きれいね」
「まるでおまえのようだ」
「……私?」
「この銀の髪も、白い肌も……。おまえは雪のようだ」
「そ…っ、そんなこと……」
「それなのに、おまえはこんなにも温かい。解けてなくなったりはしないのだな」
「あ、当たり前よ、私は人間だもの。あなただってそうでしょう?」
「……あぁ、そうだったな。おまえと私は同じものだ。共に生きていく道を選んだつがいだ。まだ見ぬ私達の子が、いずれはあの雛を従えるようになっても、私はおまえを決して手放しはしない」
 そう言って、フェネクスはリーナの銀髪に口づける。
 次々に舞い落ちる雪の華。
 形のいい唇から広がる白い息が幻想的な光景を生み出していた。
 たぶん、彼は自分がどんなに人を魅了するのか気づいていない。
 たった今、どれほど人を喜ばせることを言ったのか、理解してもいない。
 リーナは心臓を鷲掴みされたようになり、じわりと目に涙が浮かぶのを感じた。
 不意に顔が近づき、至極自然に唇が重なり合う。柔らかな感触が愛しくて、めまいがしそうだった。
 ──私、絶対にこの手を離さないわ。
 彼の手をきゅっと握りしめ、リーナは自分の頬に押し付ける。
 近い未来を思い描き、それが少しでも幸せなものであることを願った。
 きっと、大丈夫。何一つ心配はいらない。フェネクスとなら、誰よりも高いところまで飛んでいけるだろうから──。


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