ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

月に届きますように

 ナーシャと共にカタルシニアに渡って一年。
 以前より、軍人として多くの功績を残していたギュンターには、カタルシニア国王からアースプリスマティック城が与えられていた。
 渓谷にあるこの城は、歴代の陸軍の指導者に、就任中限りの条件で明け渡されていたが、ギュンターには特例として、カタルシニアに帰化するならばその限りではないと言われていた。
 ギュンターは迷っていた。
 元々この城は前々代のカタルシニア国王が狩猟時の滞在のためだけに建築したものだった。二百頭以上の馬の厩舎があり連隊を滞在させられるこの城を、ギュンターはとても気に入っていた。
 しかしつい最近、ギュンターの弟でありルトギニア国王のランベルから、【ルトギニア国軍には貴方が必要だ】と、帰国を歎願する手紙も届いていた。軍事改革を行っても、やはりルトギニアは他国からの侵略の危機に常に晒されているのだ。
 ――ナーシャはどう思うだろうか?
 恐らく、愛国心の強い彼女は帰化など考えてもいないだろう。それでもギュンターが帰化を選択肢に入れているのは単に城を気に入っているからではない。彼女はこちらへ渡る前に伯爵との離婚が成立していたが、再婚に関してはまだ解決できていない問題があった。ルトギニアの法律では、前夫が存命中の間、妻側の再婚は認められないのだ。
 ――クソみたいな法律だ。
 その点、カタルシニアは違う。離婚し、妻側の実家の承諾が得られさえすれば、再婚までにそれほど時間を必要としない。
 ギュンターは、帰化の話をナーシャにするべきか悩みながらアースプリスマティック城へ向かっていた。宮廷での軍事会議が長期間にわたったため、城へ帰るのは実に一週間ぶりだった。

 入口で出迎える執事に、「何か変わりはなかったか」と尋ねる。
「舞踏歌劇の作曲家ラモール様が演奏依頼のためにナーシャ様を訪ねて来られました」
「そうか」
『異国の地に馴染めるだろうか』というギュンターの心配をよそに、ナーシャは既に社交界と芸術界の華になりつつあった。
 城の中の螺旋階段を上っていくと、ヴィオラの音色が聞こえてくる。
 ――ナーシャ……。
 彼女の演奏を聴くだけで心が弾む。
 どうやらバルコニーで演奏しているようだ。弾き終わるまで声をかけずにおこうとも思ったが、月夜に浮かび上がる彼女の美しい後ろ姿を見れば我慢できなかった。
「ナーシャ」
 手を止めたナーシャがこちらを振り向く。自分を見た途端に笑みをこぼし、「お帰りなさい」と駆け寄ってきた彼女をすかさず抱きしめた。相変わらず、ナーシャの匂いは甘い。
「邪魔をして済まなかった。今の曲は初めて聴いたが、最近作ったものか?」
 やけに明るい曲だった。腕の中でナーシャが少し驚いた表情を見せた。
「ご存知ありませんでしたか? お誕生日の曲です」
「誕生日……?」
 言いながら、自分の誕生日が今日だと思い出した。
「ギュンター様、二十二歳のお誕生日おめでとうございます」
 そんなものはすっかり忘れていた。
 戸惑うギュンターをよそに、ナーシャが室内を指さして微笑んだ。見ればテーブルの上がほんのり明るい。
「なので、ハニーケーキを焼いてみました」
「貴女が焼いたのか?」
「ええ。もちろん料理人の手もお借りしましたよ」
 そう言うナーシャの手首にはうっすらと火傷の痕があった。
「火傷をしたのか⁉ 演奏をできなくなったらどうするつもりだ?」
 きめ細かな白い肌に、赤い一筋の蚯蚓(みみず)腫れがやけに痛々しく見える。つい、きつめに言葉を発したギュンターだったが、ナーシャは気にした様子もなく彼を部屋へ引き入れた。
「ちゃんと蝋燭も二十二本立ててありますよ」
 薄暗くなった室内に優しく灯る小さな蝋燭の火。
「……」
 それを見たギュンターは、仄かに胸が熱くなるのを覚えた。
「ギュンター様……?」
 すぐに言葉が出ない。
「何か気に障られましたか? それとも、貴方の祖国のゲルマニアでは誕生日ケーキの習慣などありませんでしたか?」
 ナーシャが、やや困惑した顔でギュンターを見上げる。ギュンターは微かに首を横に振った。
「……初めて見たから感激しているんだよ。……ありがとう」
 祖国であるゲルマニアにも、ちゃんと誕生日を祝う風習はあった。むしろゲルマニアの方が発祥かもしれない。
 誕生日を迎えた本人か母親が、友人や近所にお菓子などを配り、もしくは家に招いてパーティーを開き、多くの「おめでとう」の言葉を掛けて貰う。それほど、誕生日は特別な日なのだ、本来は――。
 だが、ギュンターの母親は音楽家として多忙で、そんな母親らしいことをしなかったし、家にケーキすらなかった。もちろん、自分を虐待していた義父が祝ってくれることなどあるはずもなく――。
「書類に記入する以外で、誕生日など俺には必要なかった」
 初めて、ギュンターの幼い頃の話を聞いたナーシャは、悲しげに言葉を詰まらせた。
 橙色の優しい灯りが、円形のケーキを輝く満月のように映し出す。
 少しの沈黙の後、ナーシャは不意に口を開いた。
「私は、子供の頃、誕生日が怖かったです……」
「怖い?」
 ギュンターが眉をひそめる。
「はい。誕生日に子供をさらう悪霊から守るために一日中、ケーキに蝋燭を灯すと聞いていましたので、火が消えたらどうしようって……」
 悪霊を信じて怖がる子供の頃のナーシャを想像したら、それだけで胸が温まる思いがした。
「では、この火はいつ消す? 誕生日が終わってからか? しかし、俺は今すぐ食べたいのだが」
「晩餐を済ませてから食べましょうか? 料理をこちらに運ばせましょう」
 ギュンターはナーシャが作ったこれこそメインで食べたかった。
「他はいらないから」
 ベルを鳴らして使用人を呼ぼうとしたナーシャを、ギュンターが制す。
「早く食べて、そして貴女を抱きたい」
 きっと満腹になれば、眠くなってしまうだろうから。
「……では、火を消して切りましょうね」
 ナーシャは、率直に欲望を口にしたギュンターを咎めるでもなく愛しそうに見つめて椅子に腰を下ろす。
「ギュンター様、蝋燭の火を吹き消す時に願い事をするのを忘れてはダメですよ」
「願い事……?」
「ええ。蝋燭の煙が、月の女神に願いを届けてくれるのだそうです。けれど、あまりに多くを願うと、逆に生命を吸い取られてしまうとか……」
 ――また神話か。だが、さきほどの悪霊の話よりずっといい。
「では、半分は俺が消すから、あとは頼む」
 こんなことで願いが叶うわけがないと思いながらも、顔を近付け、息を吹きかけるナーシャが可愛くて、ギュンターは半分も消さない内に残りはナーシャに任せた。
 最後の一本から火が消えると部屋が暗くなった。窓から差し込む月光だけが頼りだ。
「……ギュンター様は何をお願いされたのですか?」
 ――聞かれると思った。だが、丁度いい機会かもしれない。
 ギュンターは、このとき初めて、国王から帰化を提案されていること、そしてそれが結婚への一番の早道だとナーシャに告げた。
「今のように内縁のような関係ではなく、貴女の正当な夫になりたい。そう願った」
 月の女神でも悪魔でもいい。
 自分の願いを叶えてくれるなら、いくらでも俺の生命力を吸い取ればいい。
 ――たとえ魂を抜き取られても、ナーシャと一緒にいられれば俺はまた蘇る。
「……ギュンター様は私と結婚さえできれば、場所はどこでもよろしいのですか?」
「あ、あぁ」
「わかりました」
「ん?」
 感情の起伏もなく答えたナーシャに拍子抜けする。
 ――それは帰化を承諾したということなのか? それとも適当に相槌を打っただけなのか?
 真意を確かめられないまま、今度はギュンターが尋ねる。
「……ところで貴女は、何を願った?」
 出会った時から欲を口にしないナーシャが、本当は何を必要としているのか、ギュンターは未だにわかっていない。
「……私は」
 ナーシャの美声が静かな部屋に響く。
「“ギュンター様の願いが叶いますように”と願いました」
「……――」
 他の人間の言葉なら、『嘘をつくな』と言いたくなっただろう。しかし、ナーシャなら信じられた。
 彼女は良くも悪くも常に自分より誰かを大事に想っている。
 今はそれがギュンターであることがとても嬉しかった。
「では、改めて言う。……俺の妻になってくれ」
 二度目のプロポーズを、まさか自分の誕生日にするなど思ってもいなかった。暗闇の中、その華奢な身体を背後から抱きしめる。
「はい。でも、一度、ルトギニアに戻りましょう。帰化を決断するにはルトギニアに残してきたものが多すぎます」
 腕の中のナーシャが振り返ってギュンターを見た。
「待ってくれ、ルトギニアで結婚をするという意味か? それだといつになるか分からない」
 ――一刻も早く貴女を俺だけのものにしたい。
 本当は、女好きで評判の作曲家ラモールが訪ねてきたと聞いただけで嫉妬心がこみ上げて、冷静さを保つのが大変だった。他の男がつけ入る隙など与えたくないし、伯爵が亡くなるまで待てるわけもない。しかし、ナーシャは落ち着いた様子で答えた。
「貴方の不在中にランベル様から手紙が届いたのです」
「……え」
 ――あいつ、俺だけでなくナーシャにも書いていたのか。
「【すぐにとは言わない、君とギュンターが国のために戻ってきてくれるならば、再婚できるようにルトギニアの法を変えることも厭わない。それほど、ルトギニアはギュンターを必要としているのだ】と書いてありました……」
 元妾に、交換条件をたきつけてくるとは……。思わず、したたかに成長した弟に感心する。
「さきほど、ギュンター様は結婚できるならどこでも構わないと仰ってくださいました。それは私もです。けれど、可能ならば祖国にも実家にも、ギュンター様との結婚を認めて貰いたいのです。せっかく離婚という自由を勝ち取ったのですから」 
 弟だけではない。改めてナーシャの芯の強さを感じたギュンターは、その凛とした彼女の気迫に押されて、一度、ルトギニアに戻ることを決めた。
「……わかった。近いうちに長期休暇を申請しよう」
「ありがとうございます。ケーキ、切りますね。お飲み物は珈琲がよろしいですか?」
「あぁ……」
 にっこりと笑ったナーシャが切り分けてくれたケーキはとても甘かった。
 その夜、月の女神はギュンターの願いを聞き届けてくれたようだ。
 半年後、二人はルトギニアで式を挙げた。

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