ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

手紙

「できれば俺のいないところで読んでくれ」
 そう言って差し出された白い紙をアイリーンはきょとりと見下ろした。


 夜の寝室でのことだ。
 寝る準備を終えて先にベッドに入りながら、アイリーンは仕事をするハロルドの横顔を見つめていた。
 通った鼻筋に薄く形の良い唇、何より意志の強さを窺わせる赤い瞳。いつも見惚れてしまう、洗練された所作。
 好きだなぁともう何度繰り返したかわからない言葉を胸の内で呟く。
 こんなにも素敵な人と想いを通わせられたなど夢のようだと思っていると、書類を読んでいたハロルドがふっと口元をゆるめた。
「そんなに見つめられていると穴が空いてしまいそうだな」
「……っ。す、すみませんお仕事の邪魔をしてしまって」
 さりげなく見つめていたつもりだったのに、視線に気づかれるほどじっくりと見てしまっていたらしい。からかい交じりに笑われて、慌てて頭まで布団を被る。どきどきと跳ねる鼓動を落ち着かせようとしていると、近づいてきた足音にそろりと顔を出した。
 同時にハロルドが腰を下ろし、ベッドが軋む。
「ちょうど一区切りついたところだったから問題ない」
 さらりと前髪をかきあげられ、丸い額に唇が寄せられた。ちゅ、と軽い音がする。
 一度わずかに触れただけで離れてしまう気配に目を開き、身体を起こす。
「ハロルドさま」
 仕事が終わったと聞いたとたんに、見ているだけでは物足りなくなってしまう。
 名を呼んだ声は自分でもわかるくらいに甘えの響きを持っており、ハロルドが目を細めた。
 アイリーンの頬を大きな手が包み、心得たように口付けてくれる。
 こんなふうにねだるなんて欲深いと呆れられてしまうだろうか。頭をよぎった微かな不安は、口内に入ってきたハロルドの舌に簡単に溶かされた。
 腰を引き寄せられて、ハロルドの膝に乗せられる。
 その間もほんの少しも離れたくないという気持ちは二人とも同じだったようで、広い寝室に水音が間断なく響く。
「……はぁ」
 息をつくと二人の間を銀糸が繋ぎ、ぷつりと切れた。
 もっと欲しい。
 昨夜はハロルドの仕事が夜遅くまで終わらず、アイリーンは先に眠りに落ちてしまったほどだった。
 触れたい触れてほしいという欲望が沸いてくるが、今夜は身体を休めてもらいたいという思いもある。身勝手な欲望をアイリーンがぐっと飲み込んだのと同時に、ハロルドが「忘れるところだった」と呟いた。アイリーンを膝から下ろし、今日もテーブルに積まれていた書類の一番下から何かを取り出して戻ってくる。
 どうしたのだろうと見つめていていると、目の前に白い紙が差し出された。
「できれば俺のいないところで読んでくれ」
「もしかして、手紙……ですか?」
 渡された紙がなんなのかわからず首を傾げてしまったが、先週に自分が送ったものと同じ形をしていると気がつき、アイリーンは震える手で受け取った。
 白い封筒にオールドフィールド家の封蝋、そしてハロルドの直筆のサイン。
 まじまじと見つめる。
「俺が君に手紙を書くことが、そんなにも意外か?」
「だ、だって」
「受け取ったら返事をするのが礼儀だろう」
 アイリーンからハロルドへ送った手紙は、塔にいるときに交わした約束によるものだ。字の練習のため、アイリーンのやる気を出すようにと決めた目標だった。
 もちろんアイリーンは約束を交わしたからだとか、字の練習の成果を見せるためなどという義務で書いたわけではない。
 ハロルドに伝えたい想いを込めて、言葉を必死に選んだ。
 伝えたいという気持ちが強く手紙を送ることができただけで満足して、ハロルドから返事をもらえるなど思ってもいなかった。
 胸から何かが溢れそうになりながらハロルドを見上げると、ふっと視線を逸らされた。
「すまない。礼儀などという、そんな建前で書いたわけではない」
 大きな手で口元を覆い、ハロルドが深くため息をつく。
「そんなに見るな。……まさか仕事以外で手紙を書くというのが、こんなにも……いや、なんでもない。とにかく俺の前で読むのだけはやめてくれ」
「いま読んではいけないんですか?」
「……駄目だ」
 ハロルドの耳がほんの少し赤くなっているように見えて、今すぐに読みたい思いを我慢する。どうやら照れているらしいハロルドが可愛らしく思えて、ふわふわと浮き上がってしまいそうなくらいに嬉しかった。

 アイリーンはハロルドの婚約者となった今もメイド服を身にまとい使用人の仕事をしているが、毎日決まった時間に必ず働けるわけではない。
 彼にふさわしくあるよう様々な勉強に時間を割いているので、使用人の仕事をこなす余裕がない日も多い。アイリーンの仕事はその時々でメイド長が采配してくれている。
 今日の仕事は銀食器磨きだ。
 スプーンをきゅっとクロスで磨き上げ、ぴかぴかにしていく。
 鏡のように曇り一つなくなったスプーンに自分の顔が映り、そしてへにょっと崩れた。
 磨き終えたスプーンをテーブルに置き、エプロンのポケットからそっと手紙を取り出した。もちろん昨夜にハロルドからもらった手紙だ。
 封筒からきっちりと折りたたまれた便箋を丁寧に取り出して開く。
 手紙にはアイリーンの日々の頑張りに対する労いと、著しい成長に対する驚き。無理をしないようにという心配や、自分と一緒にいるためにアイリーンが努力してくれていることへの喜び。そして最後はアイリーンへの愛の言葉で締められていた。
 今まで何度も何度も眺め、そしてお手本にしてきたハロルドのきれいな字で綴られた言葉。ハロルドらしいまっすぐな言葉で書かれた文面は、朝から何度読み返したか数え切れない。
「ふふ……っ」
 嬉しくてたまらない。気がすむまで手紙を眺めてから、慎重に折りたたんで汚してしまわないようにポケットにしまった。磨き上げた食器をまとめて持ち立ち上がる。
 歌を小さく口ずさみながら、くるりと踊るようにスカートを翻して――食堂の入口にある人影に気がついた。
 口元を手で押さえ肩を震わせて、くつくつと笑っている。
 アイリーンの歌がぴたりと止まり、動けなくなる。
「は……ハロルド、さま。いつからそこに」
「君がエプロンのポケットから手紙を取り出したあたりだな」
 それはつまり、ずっと見られていたということだ。
 かあっとアイリーンの顔が耳まで熱くなる。
「柄にもないことを書いてしまったかと思っていたんだが、まさかそこまで手紙を喜んでもらえるとは。渡したかいがある」
 一人だと思っていたからこそ、淑女としての嗜みを忘れて子供のように浮かれていたというのに。
 一部始終を見られていた羞恥で硬直したアイリーンに、ハロルドが楽しそうに近づいてくる。
「本当に君はどこまでも可愛いな」
「きゃあ!」
 ハロルドはアイリーンが抱えていた銀食器を奪ってテーブルに置くと、膝をすくいあげた。驚いて、思わずいつものように彼の首に手を回してしまう。
「ハロルド様、私はまだ仕事の途中で……っ!」
「食器磨きはもう終わったのだろう? ならば片付けくらい誰か他の者に頼めばいい」
「……っ、ハ、ハロルド様は何か用事があったのでは」
「君の淹れた香茶を飲みたくなったのだが、香茶よりも欲しいものができた」
「それって……」
 言葉を飲み込んだアイリーンにハロルドがにやりと口角を上げる。
 そんな表情にもどきりと胸が跳ねた。
 ハロルドはアイリーンを抱きかかえて廊下を移動しながら、近くにいたメイドに声をかけた。
「すまないが、食堂に銀食器が置きっぱなしになっている。磨き終わってはいるようだから、片付けを頼めるか?」
「え……あっ! はいっ」
 勢いよく頭を下げるメイドに、ハロルドへの緊張はあっても恐れはなくなっている。しかし今のアイリーンにそのことを喜ぶ余裕はない。まだ日も高い時間から、ハロルドが何をしようとしているのかわかっているから。
 すれ違う使用人たちにも伝わってしまっているような気がして、恥ずかしくて顔を上げることができなかった。
「下ろしてくださいっ」
「もう着いたぞ」
「え、……」
 ふわりと柔らかく下ろされたのは、ハロルドの寝室のベッドだ。
 肩を掴まれてベッドへ押し倒され、当然のように重ねられようとする唇を慌てて両手で遮った。
「……アイリーン?」
 ハロルドが不満そうに赤い瞳を向けてくる。
「だ、だめです!」
「なぜだ?」
「だって、まだこんなに早い時間に」
「夜にしかしてはいけないという法はない」
「ハロルド様はお仕事の途中ですよね?」
「君を堪能したらまた戻るから、休憩を取るくらい何も問題はない」
「わ、私もまだ仕事の途中で」
「そういえば、メイド服姿の君を抱くのは初めてだな」
「……っ!」
 ハロルドの言葉に記憶が甦る。
 初めて肌に触れられたときはメイド服だった。口付けに夢中になっている間に脱がされてしまっていたけれど。
 あのときは戸惑ってばかりで、現実に対する恐れで逃げ出してしまった。
 当時の恐れはもうアイリーンの心のどこにもない。
 ハロルドの手がメイド服の上からアイリーンの身体を撫でる。
「君にはいつも、『メイドだから』と拒絶されていた」
「あ、あの、それは」
「責めているわけではない。ただ、そうだな、俺は常に君に自由でいて欲しいと思っていると同時に、君の全てを欲しいとも望んでいる」
「……っ」
「そしてそれは『メイドとしてのアイリーン』も含まれていたのだと、いま気がついた」
「私はいつだって全部、ハロルド様のものです」
 心も身体も未来も、アイリーンはハロルドのものだ。ハロルドに全てを捧げている。
 ハロルドが求めてくれるのなら、アイリーンが彼に与えられるものは全て差し出したい。
「ならばこのまま、いいだろう? 恥じらう君は可愛らしいが、俺の手で乱れる艶めかしい姿も見せてくれ」
「……っ! で、でもこの服のまま、は」
 アイリーンにとってメイド服は仕事着だ。このままハロルドに流されてしまったら、1着替えるたびに思い出してしまう。
 そう伝えると、ハロルドが肩を震わせて笑った。
「そんな可愛いことを言われたら、ますます離してはやれんな。俺との行為を思い出し頬を赤く染める君を見るためにも、いつもより念入りにはげもうか」
「……ひゃ!」
 ベッドと背中の間に手を入れられ背中のボタンを外された。肩から濃紺のメイド服とエプロンの肩紐がするりと下ろされ、晒された大きく白い胸がふるんと揺れた。
「だめ、だめです!」
「……やはりこの服を着ると君はそればかりになる。『メイド』としての君は俺には抱かれたくないか?」
「そうではなくて、あの、手紙を!」
「ん?」
「手紙をエプロンのポケットに入れたままなんですっ。せっかくハロルド様がくださった手紙、このままだとくしゃくしゃになってしまいます!」
 ハロルドが目を瞬いて、ゆるりと細めた。頬を優しく撫でられる。
「俺からの手紙がそんなにも大事か」
「当たり前です」
 もちろん直接に言ってもらえる言葉も全て大事だけれど、何度も読み返すことのできる文字で伝えられた気持ちは特別だと初めて知ることができた。
 宝物として大切に取っておきたい。
「まぁ俺も君からの手紙は執務室の机に入れ、何度も読み返しているからな。アイリーンのことをあまりからかうこともできん」
 そう言いながらメイド服の白いエプロンから手紙を取り出してくれた。枕元に置かれた封筒を見て、またハロルドを見上げる。
 きっと喜んでもらえるだろうと思い手紙を書いた。予想通りどころか、それ以上だったらしい。
 ふふ、っと笑いが込み上げてくる。
「やっぱり私たち、とっても似た者同士ですね」

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