ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

蝶たちのその後

 国王の元側近、ヨシュア・オールドアは王宮の敷地内にひっそりと建っている円形の小さな塔を見上げていた。
 入り口は施錠され、兵によって厳重に警備されているその塔は貴人――主に王族を閉じ込めるために作られたものだった。
 長らく使われていなかったその塔に、とある貴人が入ったのはしばらく前のことだという。
 オールドア伯爵――いや、元伯爵は当を見上げて辛そうに呟いた。
「陛下……」
 塔に幽閉されているのは国王オズワルドだった。
 オズワルドは錯乱状態になって元側室ティティスとその侍女オウガを剣で切り殺した。「裏切られた!」「あれほど愛してやったのに」「余のせいじゃない」と叫びながらその後も興奮状態で暴れ続けたため、国王は正気を失ったと判断され、療養と称して塔に幽閉された。
 今も時々暴れながら、「余のせいじゃない。あの女のせいだ。全部あいつが悪いんだ」と何度も繰り返し喚いているのだという。
 こんな状態で国王としての責務をはたせるわけもなく、遠くないうちにオズワルドは国王の地位を降ろされ、王太子のエドワードが次の王として戴冠することが決まっている。
「申し訳ありません、陛下」
 オールドア元伯爵は国王の信頼を裏切った。匿うように言われていたフリーダ・マディソンとルステオを王弟アルヴィンに売ったのだ。
 裏切った理由は自分の一族と領民を守るためだった。王族の暗殺に関われば自分だけではなく、家族も親戚一同もすべて連座されて命を失ってしまう。家の名は汚され、この国の歴史に汚点として残ってしまう。それだけは嫌だったのだ。
 国王と家と親族全員の命を天秤にかけて、オールドア元伯爵は家を選んだ。それだけだ。
 ――もし、私が伯爵でなければ、きっとあの女狐の思惑通りに最後まで忠誠を誓い、沈黙を守り通しただろう。
 けれど、彼は一族の長だった。家を犠牲にすることだけは避けなければならなかったのだ。
 ティティスの誤算はオールドア元伯爵の貴族としての責任感を甘く見たことだろう。
「陛下に目を覚ましてもらいたかった。……こんな結果を望んだわけではなかったのに」 
 だが、心のどこかではティティスという依存先を失った国王はまともに生きていけないのではないかという予感もあったのだ。
 ――あの方は王になるべきではなかった。その資質がなかったのだ。
 傍に仕えていた時は気づかなかったが、離れた今ならそれが分かる。
 オズワルドはすべてから目を背けて逃げていた。劣等感を言い訳に自分からは何一つやろうとしなかった。いや、する必要がなったのだ。自分たち側近が国王を甘やかして自立させようとしなかったから。
 ――なにが忠臣だ。私たちは陛下を破滅に導いただけだったのだ。
「間違っていた。間違っていたんだ、私は。私たちは……」
 オールドア元伯爵は自分だけはと最後まで国王を守るつもりだった。けれど、それが悪かったのだろう。オズワルドはついぞ己を省みることをしなかった。
 今もオズワルドは塔の中で自分は悪くないと言い張っているらしい。騙したティティスが悪いのだと。自分が騙されるのを防げなかったヨシュアたち側近が悪いのだと。
「私たちは陛下が嫌がることから遠ざけて守っているつもりだった。けれど、守られるだけではだめだったのだ」
 自分ができる範囲内で懸命に努力をしていた国王を支えていくのだと誓った。だが、それはオールドア元伯爵の願望がもたらした幻影でしかなかった。そんな男など最初から存在しない。いたのは口先ばかりで、義務からも責任からも逃げ続けた男だけだった。
「……そのことに長い間、気づくことができなかった私はやはり伯爵には相応しくはなかったのだな。ならば、これでよかったのだろう」
 ヨシュア・オールドアはすでに伯爵ではない。フリーダの逮捕に協力したからといって、だめだと知りながらも彼らを匿ったことはなかったことにはならないのだ。けれどアルヴィンに協力したことと、国王の命令で断れなかったことも考慮されて、ヨシュアはオールドア伯爵の座から退き、親戚に爵位を譲り領地での蟄居を命じられた。
 これはかなりの温情ある処罰だと言える。死ぬ覚悟だったのに、爵位の譲渡だけですんだのだ。もともと娘しかいなかったヨシュアは従兄の次男を婿養子に迎えて伯爵を継がせるつもりだったので、何も問題はなかった。
 すでに爵位は譲った。あとは自分が領地に引っ込むだけで終わりだ。ここを出たらもう二度と王都に戻ってくることはないだろう。
 オズワルドがオズワルドにしてあげられることはもうないのだ。
「さようならです。陛下」
 ヨシュア・オールドアはかつての主のいる塔に深々と頭を下げた。それから、主の面影も感傷も振り切るように塔に背を向けて歩き始めた。
 
 ***
 
「そういえば、今日、元オールドア伯爵が王都を離れて領地に向かうそうですよ」
 チェスの駒を動かしながら王太子エドワードが何気なく呟いた。
「もう二度と王都には戻ってこれないでしょう。それでも甘い処罰だったと思いますが」
「そうかしら?」
 対戦相手である王妃はエドワードが置いたナイトの駒をじっと見つめると、手持ちのボーンを動かした。とたんにエドワードが「そこにボーンを置きますか……」と唸り声をあげる。不利だった形勢が更に悪化したからだ。
「はぁ、これで二十連敗は確定だ。母上にはどうしても勝てない。叔父上には四回に一回は勝てるようになったのに」
 エドワードは深いため息をつく。王妃は鈴を鳴らしたような声で笑った。
「ふふ、アルヴィン殿下は優しいから負け続けるあなたを気の毒に思ってわざと負けてくれているのかもしれないわよ」
「それは……ありえますね。あーあ、もっと頑張らないと」
 再びため息を漏らすと、エドワードはチェス盤を横に置いた。勝負が決まるタイミングを見計らって王妃付きの侍女がお茶を運んできたからだ。
 しばしの間、王妃とお茶を堪能していたエドワードだったが、話が途中だったことを思いだして口を開いた。
「僕は元オールドア伯爵への処罰は甘かったと思います。フリーダ・マディソンを匿ったことだけじゃなく、彼は国王の側近としての役割をまったく果たしてなかった。七年前のローヴァイン侯爵の冤罪の時だって、母上や叔父上が諌めようとしたのを『陛下のお言葉は絶対です。もう取り消すことはできません』とか『裁判? この国は陛下のものです。陛下が必要ないと仰っているのだから、従うべきでしょう。陛下のご意向は何よりも優先されるべきなのです』なんて言って取り合わなかったのは彼らだったんでしょう? いくら裏では処刑を止めようとしていたからといってそれで帳消しにはならない」
「そうね。確かにあなたの言う通りでしょう」
 王妃は落ち着いた様子で憤りをあらわにする息子に言った。
「陛下の愚行を止める立場だったのに、彼がそれを怠っていたのは確かだわ。いくら陛下の立場を守るためだっとはいえ、側近たちが肯定したからこそ、陛下は自分が正しいと思い込んでしまっていたのだから。でもね、ヨシュアは自分が愚かだったと今では身に染みているはずよ。それで十分なの」
 言いながら王妃の顔に慈愛の笑みが浮かんだ。
「一族の存続と陛下を秤にかけて家を取ったことも、身を斬られるような決断だったことでしょう。それが正しいと分かっていてもね。そして、真面目なヨシュアにとって主君を裏切ったことは生涯拭えぬ罪となり、じわじわと彼を蝕んでいくでしょう。いっそのこと責任をとって死刑になる方がよかったと思いながら残りの人生を生きていくことになるのです。それこそが私が彼に与えたかった罰よ」
「……実はヨシュア・オールドアのことは少しも許していなかったんですね、母上は」
 エドワードはげんなりしたように呟いた。王妃はにっこりと笑う。
「もちろんです。愚王を作り上げた一端はヨシュアにもあるのですから、死んで終わりにすることなど許しません」
「……はぁ、相変わらず母上は過激ですね……」
 慈悲深くて公明正大で、誰に聞いても「王妃の鏡」「理想の王妃」と言われて絶大な人気と権力を誇る王妃だが、その腹の中は真っ黒だ。使えるものは何でも利用するし、非人道的な行為が必要ならば迷うことなく行使する。それが国のため、王家にとって正しいと思ったならば、何一つ躊躇することはない。
 王妃の真の姿に気づいている者は、彼女のことを密かに「鉄の女」と呼んでいることをエドワードは知っていたし、その意見には全面的に賛成だ。
 ――まぁ、そうしなければ無能なあの男の代わりに国を維持することなどできなかったのだから、仕方ないと言えるけれど。
 できれば殺伐とした話はあまり聞きたくないエドワードだった。
 エドワードは話題を変えようと、今王宮にいない人物の名前を挙げる。
「話は変わりますが、叔父上は僕の戴冠を待って一代限りの公爵になることが決定したと聞きました。叔父上の功績から言えば、一代限りではなく、公爵家を興すことが妥当なのでは?」
 王族の男児に公爵の位が与えられることはよくあることだが、この国では、際限なく公爵家を増やさないために、基本的には一代限りの爵位が与えられるのが決まりになっている。
 王族である当人が生きている間は公爵だが、当主が亡くなれば残された家族には王家から貢献度に合せて適切な爵位が与えられ、代わりに公爵位は王家に返還されるのだ。
 ただし例外もあって、国に貢献した王族は公爵家を立ち上げることができる。王妃の父親でありエドワードにとっては母方の祖父のザール公爵家がいい例だ。
 ザール公爵は先代国王の弟で、兄とともに混乱したこの国を立て直し、議会制君主国家の成立に尽力した人物だった。そのため、議会から認められてザール公爵家を興すことを許されて、今では貴族の中でも一、二を争うくらいの権力を誇っている。
「叔父上もかつては王太子として、今は王弟としてザール公爵と遜色ないくらいに貢献してくださった。新しい公爵家を興す資格は十分にあると思うのですが」
「それがね、一代限りの公爵になるのはアルヴィン殿下本人の希望なのだそうよ」
 残念そうに王妃は告げる。
「私としては新しい公爵家を作ってこれからも王家を盛りたてて欲しいと思っていたのだけれど。クラウディアがローヴァイン侯爵位を持っているから、たとえ一代限りの公爵であっても問題ないということで、議会は承認する方向みたいね」
「そうですか。残念です」
「アルヴィン殿下は自分たちの子どもには王族と関わらせたくないのでしょうね。気持ちは分かるわ。だって王族なんて貧乏くじを引くようなものですもの」
 訳知り顔になったと思ったら、急に王妃は微笑んだ。こういう時の母親が一番恐ろしいと知っているエドワードは顔を引きつらせる。
「残念だけど、引くことも時には必要だわ。公爵としてこれからもアルヴィン殿下には王族の一員として頑張ってもらわなければならないから。アルヴィン殿下の子どもたち――次代のことはあなたの手腕に任せることにするわ、エドワード。もしアルヴィン殿下の子どもが優秀ならば、遠慮なく王族に引っ張り込みなさい――どんな手を使ってでも」
「……善処、いたします」
 心の中でアルヴィンに詫びながらエドワードは答えた。……そう答えるしかなかった。まだ自分の力量ではこの母親に勝てないのだから。
 ――あー、母上の怖い笑顔を見ていると、叔父上が叔母上の無垢な笑顔に惚れたというのも分かる気がするな。この王宮で二心のない笑顔を向けてくれる相手はものすごく貴重だもの。
 エドワードにもそんな相手がいる。親愛とか恋だとか関係なしに笑顔でいて欲しいと思う相手が。
 その相手にかつてのエドワードは複雑な思いを抱いたこともあった。めったに会うことのできない父親が毎日のように通って溺愛しているという子ども。
 ……血のつながりのない。憎らしくて哀れなあの子。
 けれど会って話をしてみたら、自分よりもよほど辛い思いをして生きてきた義妹。それなのに、こんな自分を『お兄さま』と慕い、笑顔を向けてくれるリリアンが。
 ――あの子の笑顔に癒されたい。ああ、そうだ。まだ次の公務まで時間があるから、リリアンの所にも寄っていこう。
 義妹の笑顔が無性に恋しくなったエドワードはそう決心するのだった。

 ***
 
 ちょうど同じ頃、話題に上っていた王弟アルヴィンとクラウディアはローヴァイン侯爵領の屋敷の庭でお茶を飲んでいた。
 庭師が丹精込めて世話をしている花壇には色とりどりの花が咲き、花の蜜を求めてグラファス・エイガをはじめとして様々な蝶が訪れて目を楽しませてくれる。
 ――やっぱり故郷はいいわ。
 毎年この時期になると庭に設えたこのテーブルでよく家族とお茶会を開いていたことを思い出し、クラウディアの口元に笑みが浮かぶ。
 ――家族の大切な場所で、新しい家族と一緒に過ごせるなんて、とても贅沢な時間だわ。
 アルヴィンは公務に忙しかったし、クラウディアも淑女教育と王族教育に追われていたため、王都ではゆっくり二人きりで過ごしたことはなかった。
 でもここでは違う。公務もないし、淑女教育もやらなくていいのだ。そのおかげでクラウディアは久しぶりにのんびりした気分を味わっていた。
 ――アルヴィン様もいつもよりずっとくつろいでいるみたい。やっぱり領地に帰ってきてよかったわ。
 故郷に戻れば死んでしまった家族のことを思い出して辛くなるかもしれないと思ったのだが、屋敷のそこかしこに残っている家族のよすがが、今はただ懐かしく思うだけだった。
 ――お父様が座っていた椅子。お母様が使っていた鏡台、お兄様が背丈を測るために傷つけた柱の印。みんな懐かしくて愛おしくて、でも同時に失ってしまったものが思いだされて、ほんの少しだけ悲しい。
 けれどそう思う感情すら、クラウディアと大事な家族との絆だと今では分かっている。
 ――そう思えるのも、きっとアルヴィン様といっしょだから。
 感情を露わにしていいとアルヴィンが言ってくれたから、こんなにも平穏な気持ちでこの場にいられるのだろう。
 ――今の幸せな生活はぜんぶアルヴィン様が与えて下さったもの。
 だからこそ、クラウディアはアルヴィンの足かせになることは望んでいない。
「あの、アルヴィン様」
 クラウディアは意を決して口を開いた。
「バーンズ卿から手紙が届いて、アルヴィン様が議会に一代限りの公爵を希望したと……。本当ですか?」
「ああ、その事か」
 アルヴィンは何でもないことのように頷いた。
「その通りだ。議会からは公爵家を興すことを勧められたんだけど、断ったよ。公爵なんて面倒な立場、僕の代だけで十分だからね」
「……アルヴィン様が一代限りの公爵を希望したのは、もしかして、ローヴァイン侯爵家の為ですか?」
 公爵位のことを知った時からクラウディアが懸念していたことがするりと口から零れた。
「ローヴァイン侯爵家の名前をなくさないために……次代に残すため、ですか?」
 貴族は持っている中で一番高い爵位を名乗るのが普通だ。そのためクラウディアはローヴァイン侯爵位を持っているが、誰もその名前で呼ぶことはない。アルヴィンが王弟である間は「妃殿下」、公爵になれば「公爵夫人」と呼ばれることになる。
 ――爵位も私の子どもに受け継がれることになるけれど、もしその子が公爵位を継ぐのであればローヴァイン侯爵の名前で呼ばれることはなく、持っている爵位の一つでしかなくなってしまう……。
 仕方ないと思いつつそれを寂しいと思う気持ちがあることをクラウディアは否定できなかった。
 ――もしかしてアルヴィン様は私のそんな気持ちに気づいていて、だからこそ一代限りの公爵位をもらうことにしたのかもしれない。ローヴァイン侯爵家を残すために。……私の、ために。
 でもそれが果たして正しいと言えるのだろうか。アルヴィンには公爵家を興すだけの実績があるのに。
 表情を曇らせるクラウディアに、アルヴィンは微笑んだ。
「ディア、君が気にすることじゃない。それに、確かにローヴァイン侯爵を残すためでもあるんだけど、一番の理由は僕らの子どもに王族の責務を負わせたくないからなんだ」
「王族の責務を?」
 クラウディアは不思議そうに目を丸くした。
「ああ。公爵だといつまでも準王家の扱いだからね。僕は仕方ない。先王の子どもだから、死ぬまで王族の責任から逃れることはできないだろう。……だけど、それは僕だけで十分だ」
 アルヴィンはきっぱり言い切る。
「僕らの子どもにはこんな重荷を背負わせたくない。だから一代限りの公爵にして、僕らの子どもや子孫は王家から切り離したいんだ。この先の時代はきっと王族であることは枷にしかならないだろうから」
 ずっと前から決めていたんだ、と付け加えたアルヴィンの表情は決意に溢れていて、彼がただの感傷のためだけにその選択を取ったのではないことを窺わせた。
 もしかしたら、クラウディアと結婚するより前から……いや、もしかしたら彼が子どもの頃からずっと決めていたのかもしれない。
 自分の子どもたちには王族と関わらせまいと。
「アルヴィン様……」
「だから君が気にする必要はないんだ。むしろ感謝している。公爵位がなくなっても、伝統のある家柄の爵位がちゃんとあるおかげで議会の承認も得やすいからね」
 アルヴィンはにっこりと笑った。
 ――私は一体何を見てきたのかしら。アルヴィン様が嫌な顔ひとつせずに王族としての責務を果たしているからといって、彼が望んでその立場にいるわけじゃないことに少しも思い至らなかったなんて。
 おそらくアルヴィン自身はずっと王族から離れることを望んでいたのだろう。けれど、彼の立場や責任感がそれを許さなかった。
 ――ならば、私にできることは……。
「アルヴィン様。私がおります」
 クラウディアは手を伸ばしてアルヴィンの手を取る。
 ――きっと王族から離れることを望みながらも、アルヴィン様は責任感からこれからも王妃様とエドワード殿下を支えていくのでしょう。
 ならば、クラウディアができることはアルヴィンの傍に寄り添って支えることだけだ。
「私はいつだってアルヴィン様のお傍におります。アルヴィン様が王族でも、王族でなくなったとしても、ずっとずっと隣で支え続けます。それが私の望みです」
「ディア……」
 アルヴィンはクラウディアの手を握り返した。
「ディア。君が隣にいて笑ってくれることが僕が何よりも望んだものだ。……愛している」
「私もです。アルヴィン様」
 二人はどちらともなく身を乗り出し、唇を合わせる。
 
 それから二人は身体で愛を確かめ合うため、寄り添いながら、青紫色の蝶が舞う庭をゆっくりと離れていくのだった。

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