ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

あなたの笑顔を閉じこめたくて

 アリアとエルガーが街で暮らすと決めてから、実際にティルマティ家の屋敷に住み始めるまでは三ヶ月もなかった。
 本人たちは樹海の奥のひっそりとした暮らしからも離れがたかったので、ゆっくりと屋敷の改装工事を進めながら引っ越しの準備を整えていけばいいと考えていたのだ。  
 それが思いのほか急ぎ足になったのは、エルガーが家族を伴って街に下りてくるという噂を聞きつけた街の獣人たちが、急き立てるように彼のもとに相談事を持ち込んでくるようになったからだった。
 雇われ先で給与が支払われない。貧民窟で誘拐事件が発生している。裁判官が買収されている。そんな深刻な相談に交じって、ここ最近は人間と結婚したいという恋愛相談も少なくない。
 カナンシャ王国では獣人と人間の恋愛は禁忌に近い。しかし、獣人と人間は知性と感情を共有する生き物なのだ。少しばかり耳の形が違うとか、肌の色が違うとかで恋心を止められるはずもない。
 もちろんエルガーが人間と家族を持ったことで〝人間側に寝返った〟と考えて離れていく者も一部いたのだが、その代わりに今までは声を潜めていた〝親人間派の獣人〟〝親獣人派の人間〟が頼ってくるようになった。
 というわけで改装を進めながら屋敷に移り住んだエルガーとアリア、そして娘エウリアはそれぞれに忙しい日々を過ごしていた。

「使用人の小屋だった場所を改装して、身寄りのない母子が一時的に暮らせる場所にしてはどうかと思うのです」
「ったく……さっきまであんなに淫らに乱れていたというに、夫に奉仕させながらそんなことを考えていたのか」
 エルガーが火照りを残した顔で楽しそうにからかうと、アリアは少し恥ずかしそうに「もう」と口を尖らせた。
 樹海の集落にいた頃は気難しい表情ばかりだった男も、最近では妻を前に笑顔を見せることが多い。
 大きな寝台の上。つい先ほどまで激しく愛を交わしていた二人は、生まれたままの姿で事後の気だるさに身を任せている。
 とはいえ寝台に横たわっているのはアリアだけで、エルガーは汗に濡れた妻の肢体を綿布で清めるのに忙しい。
 情事のあとでアリアを清潔にし、敷布を新しいものに取り替え、冷たい水といくつかの木の実で彼女の腹を満たすという仕事は、最近のエルガーの任務だった。
 いくらアリアが恥ずかしいからと断っても、「楽しいんだ」と言って止めようとしない。
 実際のところ、淫らに汚れた妻の様子をじっくりと堪能しながら、自らの手で清めていく行為は彼のお楽しみだった。
「人間の女性が産んだ獣人の赤ん坊は少なくない数で捨てられてしまっています。でも環境さえ整えば子供と一緒にいたいという母親も多いはずです」
「そうだな。一時的にでも母子を保護する施設があれば、獣人の赤ん坊をどうしたらいいか分からなくて捨ててしまうというケースは減るだろう。明日にでもさっそく小屋の様子を見に行こう」
 快諾した夫にそっと口づけをすると、思いのほか情熱的に唇を貪られた。
 手に握っていた綿布を放り出したエルガーの首筋には一度消えた斑紋が再び浮かび上がってきている。
「我が妻よ……今晩はエウリアがよく眠っているようだ」
 アリアは夫の金色の瞳が愛欲に熟れる様子をうっとりと眺め、彼に応えるように伸びてきた尻尾を撫でる。
 二人の夜は長い。

 翌日、さっそくアリアとエルガーはエウリアを伴って屋敷の裏にある使用人の小屋を訪れた。現在、この屋敷に住み込んでいる下働きの者の数は少なく、加えて彼らは母屋に部屋を与えられているために、この小屋の方は長いあいだ無人となっている。
 これまでは母屋の改装に忙しく、アリアとエルガーがここを訪れたのは今回が初めてだった。
「思っていたより昔と変わっていないな」
 軋む扉を開けたエルガーは、ほんの少し眉を顰めて小さく言った。
 ティルマティ家の使用人であったエルガーの一家はここに住んでいたのだ。
 埃にまみれたこの小さな居住空間は、一家の幸福と不幸を記録している。
 アリアが「大丈夫?」と訊ねるように夫の手を握ると、「大丈夫だ」と返事をするようにエルガーは妻の手を握り返した。
「エゥア、おぅち?」
 握り合った二人の手の下を、エウリアが駆け抜けていく。
 あと二ヶ月ほどすれば二歳になる彼女は生まれながらの冒険者で、埃が溜まっている床をものともせずに部屋の探索をはじめた。
「エウリア! 尻尾が箒みたいに埃だらけになるわよ」
 慌てて娘を抱き上げようとしたアリアだが、成長するほどに獣人特有の運動能力を発揮しつつあるエウリアを捕まえるのは一苦労だ。
「ま、危ないものもないだろうから、放っとけばいいさ」
 エルガーがそう言った通り、長いあいだ無人だった小屋にはテーブルや寝台さえもない。
 そこに唯一あるのは運び出す価値さえなかったキャビネットだけだった。六段ある引き出しの半分が壊れている。
「床は腐ったりしていないようだが、住めるようにするには一通り家具が必要だな。このキャビネットは薪にでもするしかないか……」
 エルガーがそう言いながら、古びたキャビネットを動かした時だった。
「ダッダ! あぅよー!」
「おい、エウリア」
 エルガーが制する間もなくエウリアが壊れた引き出しの奥にひょいと手を伸ばす。
 彼女が小さな手に握りしめたのは一枚の古びた紙だった。
「これは……」
「まぁ!」
 冒険者エウリアが見つけたのは宝のありかを示す地図――ではなかったが、エルガーにとっての宝そのものだった。
 すっかり古くなって所々インクがかすれてしまっているが、昔と変わらず今もその少年は笑っていた。
「これって私が描いた絵? ずいぶんと下手くそだわ! もっと上手く描いたと思っていたのに」
「なくしたと思っていたんだが……」
 アリアはかつて自分が描いたエルガーの似顔絵を見て楽しそうに笑う。
 対してエルガーはその絵を恭しく眺めながら、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
 この絵は紛れもなく、少年時代のエルガーにとって宝物だったのだ。
「……俺はこの絵をベッドの下に隠していた。きっと誰かがこの絵を見つけてキャビネットの奥に入れたんだな」
「たぶんこの部屋を片付けた使用人でしょうね。突然いなくなってしまった獣人たちを心配していた人間の使用人たちもいたはずだもの。いつかあなたが帰ってきた時のためにきっとここに保管したんだわ」
「……そうだな。当時、人間の使用人たちと獣人の使用人たちのあいだには見えない壁があった。給金が倍ほども違ったんだからそうなったのも仕方がない。だけど決していがみ合っていたわけじゃなかった……」
 エルガーの脳裏に両親が生きていた頃の記憶が蘇る。
 埃だらけの小屋を見回し、そこに少年時代の思い出を探した。
 その時、不意に腕を引っぱられ、現在に引き戻される。
「ダッダ! みぇ! あた!」
「ん? 次は何を見つけたんだ?」
 エルガーが娘の手を覗き込んだ時、「キャーッ!」と隣で甲高い叫び声がした。その声に驚いたエウリアの手から蜘蛛が逃げていく。
 樹海の奥地で生活をしたおかげで大抵の生き物には免疫のあるアリアだが、蜘蛛だけは苦手なのだ。
「虫を……素手で触っちゃダメって……言ってるでしょ!」
「まぁ、毒のないやつだったからいいじゃないか」
「ダ、メ、です!」
 珍しく動転している妻が愛おしくて、エルガーがカラカラと笑うと、そんな父を見たエウリアも似た顔で笑った。
 アリアは蜘蛛の行方を気にして床に目を走らせたあと、ふと顔を上げて思わず笑みを浮かべる。
 絵のなかの少年と同じ笑顔がそこにあったからだ。
 そしてまた絵を描こうと決めた。
 愛おしい者の笑顔を永遠に閉じこめたくて。

おしまい

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