ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

薔薇の秘密

 抜けるような青空に、ルーシャスは目を眇めた。
 この国の冬は鬱屈としていて好きになれないが、ばかみたいに暑い夏もまた好きではない。
 寒いのも暑いのも嫌いだなどと、たいそうなワガママぶりだが、このルーシャス・ウェイン・アシュフィールドはそれを口にすることを許されている(多分)。
 なぜなら、彼はこの国で最も金を持っている男だからである。寒さも暑さも金の力でなんとかしてしまえるのだ。鼻持ちならないと言われるかもしれないが、それがどうした。負け犬の遠吠えを聞く価値などゼロに等しい。
 そう、大富豪ルーシャスは、夏の暑さなど感じる必要がないにもかかわらず、自分のホテルの屋上にある温室で滝のような汗を流している。
 それは何故か。
「ねえ、これでいいかしら? 見て、ルーシャス」
 まるで熱帯雨林の中にいるかのような蒸し暑さの中、鈴のように涼やかな声が響く。
 額に浮いた汗を拭いながらそちらを見れば、大きなつばの帽子を被った可憐な愛妻オクタヴィアが、不安そうにこちらを見上げている。しゃがみ込んだ足元には、小さな薔薇の挿し木が植えられた鉢がある。オクタヴィアが白魚のような手を土で汚しながら、一生懸命植えたものだ。
 ルーシャスはにっこりと笑いながら、「ああ」と頷いてやる。
「大丈夫だ。ちゃんと良い具合に植えてある」
「本当? ……良かった。また失敗したりしないか、心配だったの」
 ホッとしたように微笑むオクタヴィアの可愛らしさに、ルーシャスの頬が自然と緩んだ。何をしても可愛らしい妻だが、そんなふうに自信なさげに眉を下げる様子もまた天使のように愛らしい。
 オクタヴィアが「自分も薔薇を育ててみたい」と言い出したのは、冬が終わった頃だった。
 なんでも、子どもの頃からの夢だったらしい。
『薔薇伯爵と呼ばれたおじい様の孫なのに、私ったら、本当に植物を育てるのが下手なの。おじい様からいただいた薔薇の挿し木も、何度枯らしてしまったことか……』
 しょんぼりと語る様子が可哀想で、なんとかしてやりたくなったのだが、夫として当然のことだろう。
 彼女の亡くなった祖父が薔薇を育てる名人だったそうだ。
(……あのハンカチに包んであった薔薇の種も、自分で育てるからと、祖父からもらったものだと言っていたな……)
 その種を開花させたのは、彼女ではなく自分だったわけだが。
 彼女はそこにも顔を輝かせて感動してくれ、『あなたと私が結婚するのは、運命だったのかも、なんて思ってしまうわね』と少し恥ずかしそうに言っていた。可愛すぎる。
 ともあれ、彼女の希望なら、とルーシャスは早速オクタヴィアと一緒に新しい薔薇を育てることにしたわけなのだが……。
 残念なことに、オクタヴィアには植物を育てる才能が皆無だった。
 挿し木にする梢を切らせれば「丈夫そうな梢にしたわ」と新梢ではなく旧梢を切り落としてしまうし、発根を促す湿土には「乾いてはいけないから」と梢が溺れるほど水をやっていた。そして「太陽をたっぷり浴びさせてあげなくちゃ」と日陰に置いてあった鉢を直射日光の当たる場所へ移動させてくれた。
 全て良かれと思って取った行動の結果、全ての挿し木をダメにしてしまったのである。
『やっぱり私には無理だったのね……』と挿し木を枯らす度に落ち込む姿が憐れで、『ならば俺と一緒に育ててみよう』と提案したのはつい先週だ。
 最近は仕事で外国を飛び回っている関係で、この温室のことも専属庭師であるオリバーに任せきりになりがちだったのだが、妻のためならと時間を捻出し、真夏の炎天下の温室で、こうしてせっせと庭仕事に勤しんでいるわけなのだ。
「俺がちゃんと見ているから、今度こそ大丈夫だ」
 不安そうに鉢を眺めているオクタヴィアにそう言うと、彼女は上目遣いでこちらを見、にっこりと笑った。
「そうね! あなたがついてくれているんだもの! きっと大丈夫だわ!」
「さあ、この暑さで熱中症を起こす前に、一度屋内へ戻って冷たいものを飲もう」
 全身から汗が噴き出して、着ているものがぐっしょりと濡れている。大男である自分でも立ち眩みを起こしそうなのだから、華奢なオクタヴィアはもっとだろう。ルーシャスは薔薇よりも妻の方が大事だし、心配なのだ。
 先に立ち上がり、ほら、と手を差し出せば、オクタヴィアは躊躇せずに自分の手を重ねてくる。当たり前に自分の手を取ってくれることに、ルーシャスは胸の中が温かくなるのを感じた。些細なことだが、それは彼女からの信頼の証だ。こんなふうに、ずっと彼女と手を繋いで生きていきたい。そのためには、彼女からの信頼を裏切らないように、常に努力していかなくてはならないのだ。
 ルーシャスは心の中で自戒しながら、愛妻の手を引いて温室を後にした。

 オクタヴィアと一緒に薔薇を植えた一週間後、妻が寝入ったのを確認して、ルーシャスはそっとベッドから出た。
 音を立てないようにしてそっと部屋を出ると、向かったのは屋上だ。
 アシュフィールド夫妻の住むここは、彼らの住処であると同時に、多くの客室がある大きなホテルでもある。夜とはいえ、夜勤の従業員たちが働いているため、オーナーであるルーシャスが寝間着にガウンを羽織った姿でうろつけば、みんな驚いた顔でこちらを見てくる。中でも呆れた顔を隠さないのは、腹心のローランドだ。
「またオクタヴィア様の薔薇の点検ですか?」
「そうだ」
 顎を上げて頷けば、ローランドはため息をついて自分のこめかみを揉んでいる。
「いや、寝間着姿でそんな威張らないでくれます? お客様にその恰好見られたらどうするんですか。っていうか、そんな毎晩点検しなくても、すぐに枯れたりはしないんじゃないですか?」
「お前は何も分かっていないな」
 適当なことを言い出すローランドに、ルーシャスはギッときつい視線を向けた。
「薔薇は非常に繊細かつ繁殖の難しい植物だ。ちょっとした環境要因であっという間に根が腐り葉が落ちて枯れてしまうんだ。ヴィアは良かれと思って水をやり過ぎたり、葉をオリーブオイルで拭いて気孔を埋めてしまったり、土にコーヒー粕を撒いてしまったりと、見ていない間にいろいろやってしまう。見なかった一日が命取りになるんだよ!」
 早口で薔薇育成の難しさを語ると、ローランドは若干引きつった顔になった。
「いや、だったらオクタヴィア様に薔薇の世話をさせなければいいのでは……? 人には向き不向きってもんがあるでしょ? こう言っちゃなんですが、オクタヴィア様には園芸の才能はないと思うんです」
 至極ごもっとも。だが彼女が薔薇を咲かせることが重要なのである。
 ルーシャスは唇を引き結んでローランドの喉元に指を突きつけた。
「それをヴィアに言ってみろ。重石を付けてディフ湾に沈めてやるからな」
「ヒェ……! いやもう、あなたの場合、洒落になってないですからね! その台詞!」
 ルーシャスのこれまでの悪行の数々を隣で見てきたローランドが、震え上がりながら抗議してくる。それにフンと鼻を鳴らすと、ルーシャスはクルリと踵を返して階段へ向かう。
 長い階段を上がり切り、重い金属のドアを開くと、黒々とした夜の空が視界に広がった。高い場所だから遮るもののあまりない夜空の景色は大きく、白い星々がきらきらと瞬いている様は、情緒があまり豊かでないと言われるルーシャスが見ても美しかった。オクタヴィアが喜ぶだろうな、と思ったが、ぐっすり眠っている彼女を起こすのは忍びない。ただでさえ、今夜は少々無理をさせてしまったのだ。ゆっくり寝かせてやる方がいい。
 ふう、とため息をついて、ルーシャスは誰もいない温室に入った。
 入ってすぐの場所に設置したアーク灯を灯すと、温室の様子が浮かび上がるように見えてきた。
 オクタヴィアの育てている挿し木の鉢の方へ行くと、案の定葉が下を向いて萎れかけている。黙って鉢の中の様子を確かめると、どうやら油粕を大量に投入したようだ。
(……コーヒー粕がだめなら、油粕と思ったのか……)
 なにがなんでも肥料をやりたい人間の思考だ。それだけこの薔薇が育つのを楽しみにしていると言うことなのだろう。
 ルーシャスは一生懸命土を弄るオクタヴィアの必死の横顔を思い出し、フッと相好を崩した。
 そして腕まくりをすると、肥料が飽和状態の土から萎れかけた可哀想な薔薇の若梢を救出する、という任務に取り掛かったのだった。

 その数か月後——。
「ルーシャス! 見て! 私の薔薇が咲いたの!」
 仕事帰り、ローランドに促されて自室ではなく温室へやって来たルーシャスを、はしゃいだ声の愛妻が出迎えた。
 その手には、せっせと世話をし続けてきた薔薇の鉢がある。
 結局オクタヴィアの薔薇の挿し木は、八本あった内、一本しか育つことができなかったけれど、生き延びたその一本が健気に薄紅の花を咲かせていた。
「本当だ。ものすごくきれいだな。薔薇の世話をよく頑張っていたからだよ、ヴィア」
 嬉しそうな笑顔が可愛くて、目を細めながら褒めると、オクタヴィアは子どものように満面の笑顔になった。
「嬉しいわ! 私、これが初めて咲かせた薔薇になるの! 私でも薔薇を咲かせられたのね!」
 そう言ってひとしきりはしゃいだ後、オクタヴィアは鉢を置くと、おもむろにルーシャスに抱き着いてきた。
 妻からのハグはいつだって大歓迎だ。いそいそとその薄い背中に腕を回して抱き締め返していると、オクタヴィアがしみじみとした声で言った。
「ありがとう、ルーシャス。あなたのおかげよ」
 その台詞に、一瞬ギクリとなる。
(まさか、俺がこっそり薔薇の手入れをし直していたのを知って……?)
 オクタヴィアをがっかりさせたくなくてやっていたのに、と思ったが、次の彼女の台詞でホッと安堵した。
「あなたが的確なアドバイスをくれたからだわ! さすがグリーンフィンガーね!」
 グリーンフィンガーとは、園芸の才能のある人のことを指し、彼女は常々ルーシャスのことをそう言って褒めてくれていた。悪徳実業家という異名を誇りにすら思っているルーシャスとしては、グリーンフィンガーとはなんともこそばゆい褒め言葉である。苦笑いをしていると、次の台詞で言葉を失ってしまった。
「私にも、グリーンフィンガーの才能があるのかもしれないわ! 早速、次の薔薇を育ててみようと思うの!」
 にこにこと邪気のない笑顔で言われ、ルーシャスは一瞬眩暈がした。
 また夜中にこっそりと起き出して、薔薇の世話をする日々が続くのだろうか。
「オ、オクタヴィア。薔薇もいいが、そろそろ夫を構うべきではないかな?」
 動揺を押し隠し、ギュッと妻を抱き締め直しながらそう言えば、オクタヴィアは目を丸くした後、クスクスと笑い出す。
「まあ、ルーシャスったら。薔薇にまで嫉妬だなんて、困った人ね」
 困った人、と言いながらも満更ではない様子で、ルーシャスの唇に軽いキスをくれた。
「そうね。でも確かに、薔薇よりも夫の方が大切だわ。……愛しているわ、ルーシャス」
 甘い囁き声に、ルーシャスは先ほどの動揺も忘れて、目を細めて妻の唇にキスをする。
「俺も、愛しているよ。オクタヴィア」


 ナイツ・プライド・ホテルの屋上には、秘密の温室がある。
 どうして秘密なのかと言えば、それが客に公開されたものではないからだ。とはいえ、ホテルの従業員たちには知られていて、「空中庭園」、或いは「愛の箱庭」などと呼ばれている。前者はともかく、後者に関しては首を傾げざるを得ないだろう。だがそう言うと、ナイツ・プライド・ホテルの従業員たちは意味ありげな笑みを浮かべてこう答えるのだ。
「それは、オクタヴィア夫人への、オーナーの愛の証だからですよ」

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