ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

歩き始める時

 来客を送り出したノエルは、取り出した懐中時計を何気なく眺めて眉をひそめた。
 時刻がおかしい。耳に当てて止まっているのを確かめ、ネジを巻いてふたたび耳に当てたがやはり作動音は聞こえなかった。故障したようだ。
 卓上のベルを振り、即座に現れた執事のジェルヴェに修理を命じる。彼は代わりのものを探そうと抽斗を開け、ふと思い出して奥から革張りの小箱を取り出した。
 机の上に箱を置き、ゆっくりと蓋を開ける。内側が天鵞絨張りの箱に入っていたのは銀の懐中時計だった。長い間しまわれていたため、すっかりくすんでしまっている。
 ノエルは壊れ物でも扱うかのように懐中時計を慎重に取り出して掌に載せた。こうして眺めるのはいったい何年ぶりだろう。感慨を覚えていると扉をノックする音がして、ビアンカが遠慮がちに顔を覗かせた。
「お邪魔?」
「いや。客はもう帰った」
 安堵の笑みを浮かべてビアンカは書斎に入ってきた。散歩に行くと言って出かけたときの外出着姿のままだ。
 フィリエンツ公国へ帰国して三か月、ふたりが教会の許可を得て結婚してから一か月が経っていた。挙式はごく内輪で行ったが、ビアンカにはその名にふさわしい純白の豪華なウェディングドレスを用意した。頭にはオレンジの白い花を飾り、白薔薇のブーケを手に握って、ビアンカはこのうえなく幸せそうだった。
 式の後は山の中腹にある別荘で一週間ほどゆったりと過ごした。バルコニーに並んで海を眺め、ふたりで庭を散歩した。近隣に点在するかわいらしいたたずまいの小村を散策したり、温泉に立ち寄ったりもした。
 これまでにも兄妹として来たことはあったが、新婚夫婦として訪れてみると何やら妙に照れくさい。ビアンカのほうはノエルと腕を組んで歩くだけでもう幸せでたまらないといった様子だった。
 すでに何度も身体を重ねているのに、夜毎濃厚に睦み合うだけでは物足りず、昼間から身体を繋げた。室内ばかりか庭園の木陰で立ったまま交接したこともある。
 ビアンカは従順かつ情熱的にノエルの求めに応じた。清純な少女の顔立ちとなまめかしく熟れた肉体のギャップから醸しだされる危うい色香はほとんど背徳的と言ってもいいほどだ。
 蜜のように甘い喘ぎ声は容易にノエルの理性を蕩けさせ、ビアンカが人事不省に陥るまで貪ることをやめられなかった。彼女が天使のごとき純粋な心の持ち主であるのは確かだが、その魂を包む肉体は貪婪な淫魔そのものだ。
 街中の屋敷に戻って社交活動を再開すると、ビアンカに向けられる男たちの視線には露骨な欲望が含まれるようになった。ところがビアンカ自身は己の発する魅惑にはまるで無頓着で、以前と同様ひたすらノエルにだけ関心を向けている。
 それはノエルの嫉妬を掻き立てると同時に、彼女の魂を独占しながらその肉体を開花させたのは他ならぬ自分なのだという密かな優越感をも齎した。
 そんな仄昏い満足感など知る由もなく、ビアンカはひたむきにノエルだけを見つめ、他の男など見向きもしない。たとえ彼の内心を知ったとしても、反発するどころか倒錯的な悦びに身を震わせ、顔を赤らめてもじもじと彼を見上げるだけだろう。
 美しくもどこかゆがんだ純白の小鳥が望むのは、飼い主に愛でられ、愛という名の餌を手ずから与えられることだけだ。そして復讐を終えたノエルが望むのは、この世で唯一愛する小鳥のために最高の鳥籠を用意すること。
 鳥籠の扉が開いていても小鳥はけっして逃げ出さない。自分の望む愛を与えてくれるのは飼い主だけだとわかっているから──。
 結婚前と少しも変わらぬ清純な面差しで、ビアンカはボンネットを外しながら机に歩み寄った。飼い主に飛びつく仔犬のように何度もノエルの唇を啄むと、ようやく彼女は見慣れぬ懐中時計に気付いた。
「新調したの?」
「いや、古いものだよ。そう、いちばん古いものだ」
 そう言ってノエルはビアンカを膝に乗せた。
「これはね、私が十五歳になったときに父から貰ったものなんだ」
 ビアンカはハッと息を呑み、まじまじと懐中時計を見つめた。
「……壊れてるの? 止まってるみたいだけど」
「わからない。ネジを巻いていないんだ。……あのときから、ずっと」
 両親と妹が炎に呑み込まれた、あの夜。幸せだった穏やかな日常も、将来のささやかな夢も、すべてが夜空を焦がす火の粉となって燃え上がったあの夜から、ずっと──。
「逃げ回るのに必死で、時計を見たのは何日も経ってからのことだった。当然、とっくに止まっていたが、ネジを巻く気になれなくて……。それからずっとこのままだ」
 ビアンカは詰めていた呼吸をゆるゆると解き、ぽつんと呟いた。
「ノエルの時間も、止まったままだったのね」
「……そうだな」
 彼は頷き、そっと懐中時計を撫でた。そろそろ時を進める頃合いかもしれない。半生を費やした復讐を成し遂げ、愛する者を手に入れた。これからの目標も。
「二十年近くも手入れをしてないから、修理に出さないといけないだろうが……」
 慎重にネジを巻き、ためらいがちに耳に当ててみた。
 カチ。カチ。カチ。
 小さな、小さな歯車が回る音。確かに聞こえる。あの日止まった時間が、ふたたび動き出した音が──。
「どう? 聞こえる?」
 ビアンカが不安と期待の入り交じった囁き声で尋ねる。ゆっくりとノエルは頷いた。
「……ああ、聞こえるよ」
「わたしにも聞かせて」
 せがまれてビアンカの耳に時計を寄せると、彼女は熱心に耳をそばだてて満面の笑みを浮かべた。
「聞こえるわ! すごい、ちゃんと動いてる」
 ビアンカは歓声を上げ、ぎゅっとノエルに抱きついた。
「てっきり壊れてると思ったが」
「ノエルの時計だもの、壊れるわけないわ」
「どういう理屈だ」
 苦笑しながらノエルは懐中時計を見つめた。
「……父はこれを十五になったとき祖父から貰ったそうだ。祖父はその父から、やはり十五のときに。曾祖父が、当時仕えていた主から貰ったのだと聞いている」
「代々受け継がれてきたのね」
「園丁見習いだった頃、自分もいずれは息子にこれを譲る時が来るのかと漠然と考えたことがある。あまりに遠く思えて実感が湧かなかった。家族を失った後は復讐だけがすべてで、誰かにこれを譲る日のことなど考えもしなかった。だが……」
 ノエルは顔を上げ、ビアンカを見つめて微笑んだ。
「いつかそんな日が来るかもしれないと思い始めたよ。この時計が動き出すと同時に」
 ビアンカは顔を赤らめ、ノエルの膝の上で落ち着かなげに身じろぎした。
「あの、ね。実は、その……。ちょっとしたお知らせがあって」
 ノエルの耳に唇を寄せ、ビアンカが何事か囁く。ノエルは眉を撥ね上げ、まじまじとビアンカを見つめた。
「……本当か?」
 赤面してこくんと頷くビアンカを惚けたような目つきで見返したノエルは、いきなりビアンカを抱いて立ち上がった。滑り落ちそうになった懐中時計を、慌ててビアンカが掴む。
「本当なんだな!?」
「え、ええ。さっきお医者様のところへ行ってきたの。……あの、喜んでくれる……?」
「当たり前だろう」
 何度も唇を押し当てられ、どこか不安そうだったビアンカはホッと笑顔になった。
「男の子だといいんだけど」
 懐中時計を眺めてビアンカが呟くと、ノエルは微笑んだ。
「どっちだってかまわないさ。どっちも欲しい」
「本当? ……いいの?」
「おまえは私のビアンカなのだろう? 昔のことなど忘れろ」
「そうだったわ」
 ビアンカは微笑み、椅子に座り直したノエルと飽かずくちづけを交わした。その掌では息を吹き返した時計が確かな時を刻んでいる。
 そして新たな鼓動がもうひとつ。ひっそりと、しかし確実に、未来への準備を始めていた。

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