ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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存生

 神の敬虔なる信徒であるアマンダとクラウディオは、毎日のお祈りを欠かさない。
 しかし――。
「……」
 毎朝六時。ふたりは屋敷にある小さな礼拝堂で朝のお祈りをする。一般的な信者が祈るときは十五分から二十分程度だが、クラウディオのお祈りは長い。時々は一時間を超えることもある。
 手を組み目を閉じたまま動かなくなってしまったクラウディオを見るたびに、アマンダは胸が締めつけられる。
 国も身分も捨てこの屋敷で暮らすようになってから二年が経つが、彼は過去の話をしない。恨みも悔いも悲しみも口にせず、ただアマンダへの愛と周囲の者への感謝を語るだけ。
 けれど何もかもを忘れたわけでも、綺麗さっぱり清算したわけでもないことはわかる。
 クラウディオは心に抱えている。正義の名のもとに犯した罪の意識も、凄惨な過去の傷も。けれど何を思い何を口にすればいいのかわからないのだ。
 だから彼は祈る。神に問い続ける。愛に満たされ、けれども漫然とした日々の中で、答えを探している。
 彼の祈る姿からはそんな気持ちが伝わってくるから、アマンダは胸が痛い。
 クラウディオは過去と、どうやって向き合ったらいいのだろう。

「ふう、こっちはなんとか終わりそうだ。アマンダのほうはどうだい?」
「私のほうもどうにか間に合いそうよ。昼間、ご近所さんが手伝いにきてくれて助かったわ」
 とある春の夜。時計の針はもうすぐ零時を指そうとしている。
 ふたりが暮らす屋敷の居間には、古い本や木箱に入った玩具がところ狭しと並んでいた。そこへアマンダが綺麗に畳んだ古着を腕に抱えて持ってくる。
「繕って洗ったら、まるで新品のシャツみたいになったわ。きっとみんな喜んでくれるわね」
 古着を運び終えたアマンダがフウと息をつくと、クラウディオがクスクスと笑いながら近づいてきた。そしてアマンダの乱れた髪を手で軽く整えてあげて、そのついでにおでこにキスをしていく。
「ご苦労様。子供たちの喜ぶ顔が楽しみだ」
 ふたりは目を細め居間に並べた物たちを眺めた。古本も、使い古しの玩具も、古着も、すべて孤児院へ寄付する品だ。
 ふたりは今年から、孤児院や病院への慈善活動を始めた。
 今の生活は時間が有り余っている。クラウディオは戦史をまとめたり、相談役ということでジョエルから報酬を得ているが、それ以外に労働をしているわけではない。アマンダは近所の女衆の畑や料理の手伝いをすることがあるが、それも毎日ではない。クラウディオとアマンダには十分すぎるほどの余暇があった。
 初めの頃は心身を癒やすため、新しい生活に馴染むため、それでもよかったが、最近ではさすがに時間を持て余すようになってきた。そこで何かしようとふたりで相談した結果、慈善活動を始めることにしたのだ。
 慈善活動といってもただ金銭を寄付するだけじゃつまらない。そもそも今のクラウディオたちは一介の市民だ、大金を寄付できるほどの余裕はない。ならばということで、ふたりは知人の伝手を使って中古の物品を集めた。クラウディオは職人に習って古い本を修復したり、壊れた玩具を直したりできるようになった。アマンダは古着を繕うだけでなく、ぼろ布を縫い合わせて頭巾や人形を作ったりした。
 明るく優しい夫婦の訪問に、孤児も病人もとても喜んだ。人々の喜ぶ顔が嬉しくて、クラウディオとアマンダはますます張り切って、こうして夜中までたくさんの贈り物を用意するようになったのだった。
「さあ、馬車への積み込みは明日にして今夜はもう休みましょう」
「そうだな。明日寝坊をしたら元も子もない」
 ふたりはそう言って居間の明かりを消すと、明日に備え寝室へと向かった。

 翌日。うららかな春空の下、ふたりは王都のはずれにある孤児院へとやって来た。
 クラウディオとアマンダが丹精込めて集め修繕した本や玩具や服を、孤児たちはとても喜んでくれた。世話役の修道女もふたりに感謝し、その篤行を称えた。
「喜んでくれてよかったわ」
「ああ。夜遅くまで頑張った甲斐があった」
 クラウディオとアマンダは孤児院の庭にあるベンチに座って、子供たちが遊ぶのを眺めながら語った。
 煌めく春の日差しを浴びて笑う子供たちが眩しい。ここに来るまで流した涙も多かっただろうに、それでも無邪気に遊ぶ子供たちの姿は生命力に溢れ輝いていた。
 庭を走り回る子供を眺めていたアマンダはふと、隅のほうにポツリと佇んでいる男女の幼子に気づいた。年の頃は女の子が十歳くらいで男の子が七歳くらいだろうか。蜂蜜色の髪と青い目がそっくりだ、姉弟かもしれない。
(……姉弟……)
 ふたりの姿に、アマンダの胸の奥がズクンと疼いたときだった。
「あちらのふたりは先週ここへ来たばかりの姉弟なのですが、なかなか馴染めなくて」
 近くにいた修道女がアマンダの視線に気づき、そう教えてくれた。
 ふたりは他の孤児院にいたが、収容人数の関係で先週こちらへ移動してきたらしい。遠方から来た戦災孤児ということだが、どうやらガリア王国の言葉があまり喋れないらしく、ここでの生活にうまく馴染めていないということだ。
 その話を聞いていたクラウディオがベンチから立ち上がり、姉弟のところまで歩いていった。アマンダもそのあとをついていく。
「こんにちは。きみたちはどの言葉なら一番話しやすいか、俺に教えてくれないか?」
 クラウディオはしゃがんで姉弟と視線の高さを合わせると、ヒスペリア帝国の言葉で話しかけてみた。しかし姉弟は手を繋いだまま顔を見合わせ、戸惑ったままだった。クラウディオは少し考え、他国の言語や地方の方言など知り得る限りの言葉で話しかける。そうしてようやく姉弟がコクコクと頷いたのは、ヒスペリア帝国の属国だったとある地方の言語だった。
「随分遠いところから来たんだな。それじゃあここの言葉がわからないはずだ」
 修道女にこの子らの言語を教えるか、それともこの子らにガリア語を教えたほうが早いか。クラウディオが考えながら頭を掻いていたときだった。
「……」
 弟のほうが何やら口をパクパクと動かして姉に話しかけた。どうやら彼は喋れないようだ。けれど姉は弟の唇の動きを見て、うんうんと頷きクラウディオを指さした。
「……あなたは『似てる』って、弟が」
 姉の言葉にクラウディオとアマンダはキョトンとし、「誰に?」と尋ね返す。
「私たちの町で戦ってた人」
 なんの抑揚もなく伝えてきた姉の言葉に、クラウディオが固まる。表情も思考も、凍ったように刹那動かなくなった。
 姉の少女はボソボソと語った。五年前、自分たちの町は戦場になったと。ただ平和な時間を過ごしていた姉弟は、ある日突然町を焼かれ両親を殺された。新教を信仰していたという理由で。
 幼い姉弟はわけもわからぬまま、ただ離れないように、死なないようにがむしゃらに生きてきたという。泥水さえ啜った姉弟がふたり揃って生き延びたのは奇跡だった。そうしてふたりはある日教会に保護され、転々としながらここまでやって来たのだった。
 五年前、クラウディオはまだ戦場にいた。新教の兵士を大勢殺したし、新教に与する町も幾つも弾圧してきた。兵士以外に犠牲を出さぬよう尽力したが、全てが無事だったとはとても言いきれない。
 この姉弟の町で戦ったことがあるのか、ないのか、今となってはもはや定かでない。そもそも姉弟の記憶も曖昧だ。弟が似てると言ったのはクラウディオの姿そのものではなく、襟や袖から微かに覗く傷跡や、体に浸み込んで一生取れない硝煙と血のにおいかもしれない。
 しかしそれでも、目の前に犯した罪は立っている。
 新教の教徒であったこの子らの両親を殺したのはヒスペリア帝国だ。両親を奪い、幼子に地獄を見せ、弟の声を奪ったのは――。
「……っ、あ……」
 クラウディオの呼吸が乱れる。顔色は青く、額には汗が滲んだ。
「クラウディオ……!」
 咄嗟にアマンダが彼の肩を抱き、その場からいったん離れようと立たせようとする。しかし姉である少女が再び喋り出したのを聞いて、クラウディオはアマンダの手を優しく払うと再びしゃがみ直した。
 姉は語った。小さな声で、けれど訴えるように。
 町が焼かれたあと、姉弟は生き残った大人に連れられて数キロ離れた村へ避難した。そこは旧教派の村だったが、住民は姉弟が新教派の孤児だと知ってもとても良くしてくれた。
 村の住民は言った、『この村はヒスペリア帝国軍が守ってくださった』と。そして『たくさんの食料や物資を高値で買ってくれたおかげで村に余裕ができた。だからこうしてあなたたちに分け与えることができる。たとえ敵でも子供が泣く未来は嫌だと将軍は仰った。私たちもその教えに倣う』と、姉弟に温かいスープと寝床を与えてくれた。
「私はわからない。神様は私たちから全てを奪い、けれど生きる糧を与えた。紳士様、もしあなたが軍人ならば教えてください。神様は私たち姉弟を死なせたいのでしょうか。生かしたいのでしょうか」
 クラウディオを、ジッと四つの瞳が見ている。青く澄んだ、空のように濁りのない瞳。
 けれどその眼差しは怯え、迷い、答えを探して縋ってくる。
 クラウディオは震える手をゆっくりと伸ばし、姉弟を抱きしめた。そして輝きを失った双眸から透明の涙を流して告げる。
「ごめん。それは俺にもわからない、けど、俺はきみたちに生きてほしい。生きて……共に答えを探してほしい」

 ――それから数日後。クラウディオとアマンダは、姉弟の孤児を引き取ることを決めた。
 何をするのが正しいのか、自分がしてきたことは罪なのか。クラウディオにはまだまだわからない。けれど、彼はようやく一歩前に進む。己の過去と向き合うことを、この日から始めた。

 初めは戸惑い気味だった姉弟も、言葉が通じ、優しく明るいクラウディオとアマンダに段々と心を開くようになってきた。
 ある日、姉弟が近所で花を摘んできたのを見て、クラウディオはふたりに木箱を贈った。
「いくつかを押し花にして、この箱にしまっておくといい。思い出の欠片だ。そうすれば楽しかった日のことがいつだって思い出せる」
 養父の素敵な提案に姉弟は目を輝かせ、さっそく花だけでなく様々な欠片をしまおうと相談していた。
 そんな無邪気な子供たちに目を細め、アマンダはクラウディオの肩に寄りかかる。
「懐かしいわね」
「ああ。なんだか昔の俺ときみを見ているみたいだ」
 過去は罪にまみれた日々だけではない。輝かしい思い出も栄光も、誰かを救った正義の日々もそこには確かにあった。血に汚れた破片も、色褪せない欠片も、全て自分という箱に収めていこうとクラウディオは思う。アマンダと――新しい家族と共に。
 温かい目で姉弟を眺めるクラウディオに、アマンダは何か含みのある笑みを浮かべて声をかける。
「私たちも新しい箱を作りましょう。さっそく、今日からがいいわ」
「それは素晴らしいね。まずは何を入れようか?」
「日記の一ページ、それともお祝いの花? お祝いのワインのコルクでもいいわ」
「お祝い? 何かいいことでも……」
 アマンダを振り返ったクラウディオは、彼女が幸福に満ちた顔で自分のお腹を撫でていることに気づく。そしてしばらく固まったあと、みるみる顔を紅潮させて喜びの雄叫びをあげた。

 ガリア王国王都郊外にある一軒の屋敷。明るく善良な夫婦と三人の実子と八人の養子が暮らすその屋敷はいつでも笑い声が絶えず、幸福な大家族として近所でも有名になるのは――まだもう少し、先の話。

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