ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

旦那さまは奥さまにだけは甘い

 ロシェル領主の城は、使用人の移り変わりが非常に早い。
 急に病になったとか、夜逃げしただとか、あるいは仕事で何か粗相をしただとか。
 漏れ聞こえてくる理由は様々だが、とにかく辞める使用人が多いともっぱらの噂だ。
 だが、それも無理はないと思えた。
 何せ新領主であるオルテウス・ダンタリアンという名の伯爵は、王宮で次期騎士団長と目されていたほどの人物。そしてその妻であるシルフィアは、元は第二王女だそうなのだ。
 領内の者は皆、最近やってきたばかりの新しい領主夫妻は、きっとさぞかし気位が高く気難しい方々なのだろうと囁き合っていた。
 そして、領主の城で働く使用人たちは、一体どれほど無体な仕打ちや無茶な頼みごとをされているのだろうか――とも。
 しかし実際に誰かが話を聞いてみれば、使用人たちは口を揃えて『そんなことはない』と笑うばかりだった。
『旦那さまは真面目な方だし、理不尽に使用人に怒ったり暴力をふるったりなさらない。まあ愛想はないし、無駄話することもないけど、お貴族さまなんて皆そんなものだろ?』
『奥さま? うーん、病弱だとかでずっと部屋にこもりっきりだよ。前にちらっと庭を散歩しているところを見かけたけど、なんだか儚げな方だったねぇ』
『無駄に長時間働かされることもないし、賃金はよそと比べて高いし、まかないは美味いし。いい職場だよ』
 そして皆、一様に首を傾げるのだ。
『一生ここで働きたいくらいだってのに、辞めちまったやつは一体何を考えていたのかねぇ……』

 そして今日ここに、城で働きたいとやってきた者がひとり――。
(なんて大きなお城……)
 修道院長からの紹介状を手に、女はロシェル城を見上げた。
 田舎の農村で生まれ育った彼女にとって、こんな壮大な建造物を見るのは初めてのことだった。
 女は未亡人だ。
 年上だった夫とは子がないまま二十代半ばで死別し、その後は修道院の下働きとして働かせてもらっていた。
 実家の後ろ盾もなく、また支度金も用意できない貧しい女にとって、これは非常に運のいいことだ。倹しい生活だが衣食住が保証されており、給金も発生する。
 このまま働き続けて金がある程度貯まったら、院長に頼んで修道女にでもなろう。
 そう考えていた折のことだった。
 院長から、領主の許で働く気はないかと持ちかけられたのは。
 初めは下女の人手でも足りていないのかと思ったが、詳しく話を聞いてみたところ、奥方の身の回りの世話をする者を探しているらしい。
 普通そういった役目は、名家の女性がこなすものだ。
 学もなく、字も読めず、特筆すべき教養もない平民の女に務まるものではない。面接で恥をかくのは目に見えていた。
 初めは断ろうとした女だったが、しかし給金の額を聞いて考えを変える。
 提示された給金の額は、修道院で得ているものの五倍ほどだったのだ。
「それに、あなたは領主さまの探している条件にぴったりなのです」
 首を傾げる女に、修道院長は言った。
 領主は、口のきけない女を探しているのだ……と。
 かくして城へやってきた女だったが、応接室へ通されるなりギョッとした。面接といえば家政婦長が行うのが普通のはずだが、そこで待っていたのはとても身なりのいい、若い男性だったのだ。
 思わず見とれてしまった女に、案内してくれた下女が横から『旦那さまです』と耳打ちしてくる。
(まるで王子さまみたい)
 領主は顔半分を仮面で隠してはいるものの、女が幼い頃に夢見た王子そっくりだった。
 小さな子供なら、誰しも一度は憧れるようなくだらない夢だ。
 ――いつか自分の許に素敵な王子さまが現れ、花嫁として城へ連れ去ってくれる。そこでは自分は貧しい農村の娘などではなく、可憐なお姫さまなのだ。
 もちろん夢はただの夢でしかないと、今は理解しているが、幼き日の憧れがそのまま具現化したような領主の姿に、女は人知れず胸をときめかせた。
 領主は受け取った紹介状にじっくり目を通し、次いで女の全身に目を走らせる。
 無機物を品定めような、冷たい眼差しだった。
(綺麗だけど、ちょっと怖い人なのかも……)
 緊張で強張る女に、領主は読み書きはできるか、絵は描けるか、親戚や親しい友人はいるかといった旨の質問を淡々と寄越した。
 そして女がそのいずれにもかぶりを振ると、納得したように頷き、採用を告げる。
「妻は妊娠中だ。細やかに仕えてくれることを期待している」
 もっとあれこれ聞かれるかと思っていただけに、拍子抜けした。
 大切な奥方の側仕えを選ぶというのに、こんなことでいいのだろうか。
 それとも領主は、奥方を嫌っているのだろうか。
 訳がわからなかったが、せっかく採用されたからには精一杯役目を果たすしかない。
 女は城の一室――奥方の部屋の隣室を与えられ、侍女として働き始めることになった。
 そうして始まった城での暮らしは、修道院での生活以上に贅沢で充実していた。
 毎日の食事には、女が生まれてこのかた食べたこともないような高価な食材が使われ、制服として支給されたドレスも、滑らかな手触りの仕立てのいいものだった。
 何より仕える奥方はとても親切で、お茶の時間に余ったお菓子をこっそり分け与えてくれたり、使っていない化粧品を譲ってくれたりもした。
 また、実際に働き始めてみてわかったことだが、主人である領主は奥方を非常に大事にしているようだった。
 病弱で部屋に閉じこもりがちな彼女のために、毎朝庭園から花を摘んでは手ずから花瓶に生け、多忙であるにも拘らず必ず毎食一緒にとる。そして夜寝るときは、必ず同じ寝台で眠りにつくのだ。
 彼が奥方の髪や肩に触れる手つきはいつも優しく、「姫さま」と呼びかける声は砂糖菓子のように甘い。
 その眼差しの熱っぽさたるや、見ている女のほうが赤面してしまうほどだった。
 領主は奥方に仕えている女のことも、よく見てくれているようだった。
 奥方の部屋を訪ねてくるたび、掃除が丁寧だと褒め、これからも励むようにと労ってくれる。
(初めは冷たい人かもって思ってたけど、案外優しい方なのかもしれない)
 だからこそ女は、他の使用人たちが領主のことを誤解しているのが不満だった。
「旦那さまって素敵だけど、少し怖いわよね」
「無駄話は絶対になさらないし、使用人たちのことを空気とでも思ってそう」
「無表情っていうか、無感情っていうか。とっつきにくいよなぁ」
「まあ、旦那さまは奥さまにだけは甘いようだが。やっぱり自分の妻には違うもんかねぇ」
 違う、そんなことはない。
 領主は自分のような者にも、優しい言葉をかけてくれるのだ。
 そう訴えたかったが、話せず文字も書けない女にはそれらを否定するすべがない。
 けれどその一方で、領主の優しさを知るのが奥方と自分だけだということに、ちょっとした優越感も覚えていた。
(あーあ、うらやましい。私も奥さまみたいに女として大事にされたい)
 亡き夫は穏やかで優しい人だったが、それだけだ。好き合って結婚したわけではない。ただ家が近所で、後妻を探していて、条件的にも女がちょうどよかったから――それだけの理由だ。
 一方、領主はといえば、初恋を知ったばかりの少年のような眼差しで、いつも溢れんばかりの愛を奥方へ注いでいる。
(あそこにいるのが、私だったらよかったのに)
 城で働く日々の中で、いつしか女の感情は漠然とした羨みから、確かな嫉妬へと変わっていった。
(ただ王女として生まれただけで、あの人に愛されるなんてずるい。私だって、生まれつき王女だったら領主さまの奥方にだってなれたのに!)
 女は元々、村では評判の美人だった。
 将来は、大きな商家のおかみさんを狙えるとさえ言われていた。
(それが、父さんが急に死んじゃったせいで、あんなつまらない男と結婚する羽目になって……)
 以前から胸にくすぶっていた不満が、ここにきて確かに燃え上がり始める。
(だいたい、初めて会ったときから気に入らなかったのよ。赤い目に黒髪なんて、ばけものじゃない)
 修道院で院長たちが諳んじていた聖典の内容を思い出し、女は一方的に奥方への嫌悪を募らせる。
(未亡人とはいえ私だってまだまだ二十代よ。美しいドレスを着て、化粧をして、宝石で着飾れば……。そうしたら、奥さまにだって負けないはず。領主さまも、私の魅力に気づいてくれるはずだわ。だって旦那さまは、いつも私のことを見てくれているもの)
 女に微塵も興味がなければ、ねぎらいの言葉をかけたり褒めてくれたりするわけがない。
 傲慢な思いに突き動かされた女は、その日、掃除をしているふりをして密かに奥方の衣裳やら装身具やらを盗み出した。
 そしてそれらを纏い、念入りに化粧を施し、仕上げに香水を吹きかけて、執務中の領主の部屋へ忍び込む。
「――お前は、姫さまの側仕えの……。その格好は?」
 怪訝そうな顔をする領主に微笑みかけ、女はドレスの胸元をそっとはだけた
 このところ領主は、妊娠初期である奥方を気遣って、夜の営みを控えている。だからきっと、少し色仕掛けをすれば簡単になびくはず。
 はだけた胸元を押しつけ、耳に吐息を吹きかけ、王宮育ちの上品な王女さまにはとてもできないようなことを仕掛けて――。
 そしてお手つきになれば、女は晴れて『領主さまの愛人さま』だ。そうなれば、どんな贅沢も思いのまま。正妻である奥方も、そのうち追い出してやろう。
 薔薇色の未来絵図に期待が高まる。
 それだけに、女は次に我が身に起こったできごとを、すぐには理解できなかった。
(……何? 熱い……)
 腹に重い衝撃と鮮烈な熱を感じ、そっと視線を落とす。己の腹に、何かが刺さっている。
 短刀のようだ。
 それを理解した瞬間、すぐさまこれまで感じたことのない激痛が女の身を襲う。
「――――ッ!! ――~~~~ッ!?」
 音にならない悲鳴が喉奥からほとばしり、女はその場に倒れ伏した。
「まったく、今回もか」
 腹から血を流し悶絶する女を前に、領主の声は場にそぐわぬほど冷静だった。
「若い女は駄目だな……。何を勘違いしたのか、変に下心を出してきて困る。今回は未亡人だから大丈夫だと思ったが、とんだ期待外れだ」
 ぶつぶつ独り言のように呟いたかと思えば、女の腹に刺さった短刀を容赦なく引き抜く。
 そして苦痛にのたうつ女の肩を靴底で踏みつけると、凍てつくような眼差しを向けた。
「もうお前は必要ない」
 眼差しと同じか、それ以上に冷ややかな声と共に短刀が再び振り下ろされる。
 何度も、何度も何度も腹に刃を突き立てられ、意識が朦朧としていく。
「……やはり、悲鳴が出せないというのは便利だな」
 霞む視界の中で最後に見た領主の顔は、殺人に対する罪悪感も嫌悪感も高揚感もない。どこまでも『無』の表情だった。
(私、勘違いしていたわ……)
 女はここにきて、ようやく己の思い違いを悟る。
 使用人たちが言っていたことはすべて正しかったのだ。
『旦那さまは奥さまにだけは甘い』
 領主が女に励ましの言葉をかけていたのはただ、そうすることでより奥方に精一杯仕えるようになれば、との思いだったのだろう。
 だが、今更気づいてももう遅い。
 女の意識はゆっくりと闇の中に沈んでいき――もう二度と、浮上することはなかった。

     §

「え? 辞めてしまったの?」
 オルテウスから侍女が退職したことを聞かされ、シルフィアは編み物の手を止めて彼のほうを見た。
「ええ。なんでも、急に遠縁との再婚が決まったとかで……」
「そうだったの……。お別れのご挨拶ができなかったのが残念だわ」
 とてもよく働いてくれているし、近々日頃の礼に、何か贈り物でもしようかと思っていたのに。
 だがこればかりは、本人の事情もあるから仕方がないだろう。
「さっそく、次の侍女候補を探しているところです。今度は、ある程度年のいった女になるかと思いますが――」
「少しでも長く勤めてくれると嬉しいわ」
 これまで雇った侍女たちは皆、すぐに城を去ってしまった。
 シルフィアとしてはできれば、お腹の子が生まれてくるまで――いや、生まれてからも長く勤めてくれるといいのだが。
「そうですね。まあ、俺は姫さまのためならいくらでも手を汚すつもりですが」
「オルテウスったら。いくら侍女がいないからって、領主さまがお掃除なんてしなくてもいいのよ?」
 以前侍女がいない期間に、彼が自らシルフィアの部屋の雑巾がけを行っていたことを思い出し、つい微笑んでしまう。
 するとオルテウスもまた、優しい笑みを浮かべながらこう言った。
「いいえ。姫さまの身の回りの『掃除』も、私にとっては大切な仕事ですから」

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