ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

小さな恋の物語

「僕はもうだめかもしれない」
 一日の執務を終えたヴィクトルが落ち込んだ様子で夫婦のベッドに潜り込んできたとき、アシュリーは夢うつつの中で「え?」と首をかしげた。
「いったいどうしたの……?」
 議会で紛糾した時でも泣き言ひとつ言わない夫の気弱な発言に驚きつつ、ヴィクトルの体を抱き寄せる。
 もぞもぞしつつ彼の指通りのいい金髪を指ですくと、彼は少し甘えたようにアシュリーの胸のあたりに顔をうずめてため息をついた。
「あの子が……」
 そこまで口にしてヴィクトルの唇がまた重くなる。言葉を見失っているような、悩んでいるような、そんなそぶりだ。
「ーーあの子が?」
 せかしてはいけないと思いつつ、やんわりと尋ねると、
「お父さまなんて、だいきらいって……手紙に書いてよこしてきた……ウッ……」
 ヴィクトルは感極まったように声を震わせ、アシュリーの背中を強く抱き寄せたのだった。
 よほどショックなのだろう。アシュリーにしがみついたまま、体を緊張した猫のように強張らせている。
(大嫌いって……)
 本人はいたって真面目に(?)メソメソしているのだが、あまりのくだらなさに、アシュリーは思わず真顔になってしまう。
 ちなみに夫の言う【あの子】とは、ふたりの間に生まれた長女のことである。
 ヴィクトルとアシュリーの間には三人の子供がおり、長女が六歳、双子の男の子が二歳だ。
 レッドクレイヴ王はたいへんな愛妻家として評判なのだが、同時に子煩悩でもあった。特にアシュリーによく似た娘を溺愛しており、文字通り『目に入れても痛くない!』と豪語している。
 そして娘もまた父親が大好きで、朝から晩まで忙しくしているヴィクトルあてに、長女はたまに手紙を書いては渡している。
 ヴィクトルはそのたびにとろけるような笑顔で受け取っているのだが、どうやら今日はその手紙に【大嫌い】と書かれてしまったらしい。
 毎日、愛娘からの手紙を楽しみにしていたヴィクトルは、どんな顔をして手紙を読んだのだろうか。
(そう言えば今朝、ほっぺを膨らませながら黙々と手紙を書いていたわね……)
『お手紙の時間』をあたたかく見守っていたアシュリーは、娘の小鳥のように尖らせた唇やふっくらもちもちした頬がかわいいなぁ、としか思っていなかったが、ヴィクトルはひどく落ち込んでいる。
「でもヴィクトル。こうなるのはわかっていたんじゃないの?」
「ーー」
 アシュリーの言葉に、ヴィクトルの肩がぴくりと反応した。
 相変わらず知りたくないと言わんばかりの空気を放っているが、アシュリーはさらに言葉を続ける。
「だって、あの子がモーリスお兄様にものすごく懐いているのをわかっていて、帝国に行かせたんじゃない」
 今や騎士団長にまでのぼりつめたアシュリーの兄のモーリスに、娘は非常に懐いていてーーいや、懐いていると言うよりも『モーリスおじたんと結婚する!』と言い張るほどラブなのだ。
 ヴィクトルには三日に一度のお手紙も、モーリスには朝晩二回書いて手渡しに行っている。
 モーリスもかわいい姪っ子を大事に思っていて、ひとりのレディとしてきちんと扱うものだから、娘のおじたんラブは日に日に加速していた。
 それを常々苦々しく思っていたヴィクトルは、今や皇帝となったかつての親友に『お前の騎士を一年ほど帝国に迎えて、帝国騎士を鍛えなおしたい』と求められ、これ幸いとモーリスを帝国にやってしまったのだった。
 もちろんいきなり帝国に向かわせたわけもなく、きちんと段階を踏み、娘にもしばらくモーリスがレッドクレイヴを離れることを話して聞かせたのだが、いざ姿が見られなくなると寂しくなってしまったらしい。
 会いたいのに会えない。思い通りにならない気持ちが、結局『お父さまのせい』となってしまい、手紙に『きらい』と書かせてしまったのだろう。
「ねぇ、ヴィクトル。大人の一年と子供の一年は全然違うと思うのよ。たかが一年されど一年よ」
「……あぁ。そうだな」
 相変わらず顔を胸にうずめた状態だが、彼がしょんぼりしているのはその声でわかった。
 アシュリーは強張った夫の首筋を指で撫でる。
「どうするべきか、わかってるんでしょ?」
「……戻ってくるように手紙を書く」
 たっぷり時間がかかったが、ようやくヴィクトルは気持ちがふっきれたようだ。
 顔をあげてアシュリーと目が合うと途端に深紅の瞳を甘くきらめかせつつ、拗ねたように唇を尖らせた。
「はぁ……僕は父親の癖に狭量だな……。呆れたか?」
「あなたが私にだけ見せてくれる感情だもの。嬉しいわ」
 普段、立派な王であろうとしている彼が、自分の前でわがままを言ったり拗ねたりしているのを見ると、アシュリーは嬉しくなる。
 施政者は孤独だ。個人の感情を捨てて大局を見なければならない。国民から絶大な人気を寄せられているとはいえ、ただでさえ革新的な施策が多いヴィクトルは敵が多い。常に気を張って生きている。
 そんな彼がアシュリーや子供たちのことになると、どこにでもいるような子煩悩な父親になる。
 アシュリーが彼に羽根を休める場所を与えられている、許されているということだ。
 それがたまらなく嬉しかった。
「私の前ではかわいいあなたが大好きよ」
 アシュリーはヴィクトルの額に唇を押し付け、それからつむじに続けてキスを落とす。
「君にはかなわないな」
 ヴィクトルはふっと笑って、それから気を取り直したように身をよじりアシュリーの背中をシーツに押し付け、のしかかってきた。
 こちらを見おろすヴィクトルの髪が、ほのかなランプの明かりに照らされて淡く黄金色に輝いている。湯あみ後のほんのりと上気した真珠色の肌が夜着から覗いて色っぽい。
 ヴィクトルはそうっと顔を近づけて、アシュリーの鎖骨に口づけを落とした。
 ふわふわと柔らかい髪が素肌に触れてくすぐったい。
「ふふっ」
 アシュリーが身じろぎして笑うと、ヴィクトルはまたとろけるような甘い笑みを浮かべた。
「アシュリー。君の前では僕は素の僕でいられる。君がいてくれるから、生きていける」
「私もよ、ヴィクトル。あなたを愛してるわ」
 想いが通じ合ってからずっと、夫に恋をしている。愛している。
 いつまでもこの幸せが続きますようにーー。
 そう願いながら、アシュリーはヴィクトルの首の後ろに手を回し、ゆっくりと引き寄せたのだった。

                                END


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