ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

新婚休暇

 これは、氷咲と雷零が婚儀を挙げてしばらく経った頃の話である。
 その日、後宮には太保夫人である紅彩が訪れていた。
 有力者の妻と懇意にするのは皇后となった氷咲の務めだし、何より『皇后が目をかけている相手』という事実は、未だ罪人の娘として陰口を叩かれることもある紅彩のためになる。
 そのため、氷咲は雷零と話し合い、定期的に紅彩を後宮へ招くことにした。
 そして茶や菓子をふるまったり、日常会話に花を咲かせたりするのであった。
 茶会の席には氷咲だけのときや、雷零も共に過ごすことも時折あった。今日は紅彩側からの頼みもあり、雷零も同席することになっている。
「今日は陛下と氷咲さまのために、華炎の伝統菓子を持って参りましたの」
 真珠宮を訪れた紅彩は、少し照れたように言った後、こう付け加える。
「わたくしが作ったもので……お口に合えばよいのですが」
「ありがとう、紅彩。せっかくだから、皆で一緒にいただこう」
「ああ、楽しみだな」
 氷咲と雷零の返事に、花のかんばせがぱっと輝く。
 眩しいほどに美しい少女だ。こんな従妹を持ちながら、異性として一切興味を持たなかった雷零はどうかしているとさえ思う。
 もちろん、そのおかげもあって自分は彼の妻になれたわけだが。
「さあ、入って。今日は豊樹族の里から取り寄せた、桂鶴白茶を用意したんだ」
「まあ! わたくし、桂鶴白茶は大好物ですわ」
 促されるがまま、紅彩がいそいそと室内に足を踏み入れた。そして真っ先に、餐桌の上に飾られた花瓶に目を向ける。
「大胆なあしらい……。これは、氷咲さまが?」
 氷咲は頷く。
 季節の花々が生けられたそれは、紅彩が来る前、氷咲が一生懸命用意したものだった。
「恥ずかしながら。以前よりマシになっているといいのだが」
「とても素敵ですわ。短期間で、驚くほどお上手になられました」
 実はここ最近、氷咲は皇后として相応しい教養を身につけるため、これまで触れてこなかった各分野について学んでいるところだ。
 そして紅彩は、そんな氷咲の生け花の師でもある。
「師匠が優秀なおかげだ」
「まあ、そんな。氷咲さまの飲み込みが早いのですわ」
 紅彩は謙遜するが、幼い頃から皇后候補として教育を受けてきた彼女は実際とても優秀な師だった。
 生け花についてあまり詳しくない氷咲でも、紅彩の生けた花々を見ると心が華やぎ、彼女の創り出した美に見とれてしまう。
 そして彼女はそんな自分の技術を鼻に掛けることもなく、初心者の氷咲に懇切丁寧に教えてくれるのだった。
 自分も何か、紅彩に教えられることがあればよかったのだが。
 そう考えたが、氷咲が他人に教えられることといえば、武具の扱い方くらいのものだ。
 しかし紅彩が剣を持っているところなど到底想像できないし、妻に危険なことを教えるなと晨雨から叱られるのも嫌なので、黙っておくことにした。
「ふたりとも、随分と楽しそうだが、余の存在を忘れていないか?」
 仲良く会話する女性ふたりに、雷零が苦笑しながら問いかける。
「し、失礼いたしました、陛下」
「紅彩、真面目に謝らなくていい。陛下は寂しがり屋なんだ。いつまでも仲間外れは可哀想だから、話の輪に入れてあげよう」
「こら、一国の主を寂しがり屋扱いとは何事だ」
 口ではそう言いながら、雷零は楽しそうに笑っている。
「すまない、だが本当のことだろう」
 氷咲も軽く笑いながら、宥めるように雷零の肩に手を置く。
「……いいなぁ」
 ふたりの様子をじっと見つめていた紅彩が、ふと、子供のようにそう呟いた。その表情はどこか寂しげで、思い詰めているようにも見えた。
 氷咲と雷零は顔を見合わせ、紅彩に向き直った。
「紅彩、どうした? 具合でも悪いのか?」
 雷零の問いに、紅彩はしばらく俯いたまま押し黙っていた。
 けれどやがて意を決したように顔を上げると、こんなことを口にする。
「あの……っ。実は今日は、陛下と氷咲さまに内密にご相談したいことがございまして」
「どうした? 何か悩み事でもあるのか?」
 雷零が優しく続きを促すと、紅彩はもじもじと衣裳の袖をいじった後、勢いづけたように口を開いた。
「このようなこと申し上げるのは、とても恥ずかしいのですけれど……。夫との、その……夜の営みについて……」
「ん゛ん゛っ」
 途端に、雷零が噎せるような妙な声を上げた。
 氷咲も表面上は冷静さを取り繕っていたが、内心ではかなり動揺している。
「ええと、夜の営みについて……というのは、夫婦が共寝をすることについての話で間違いないだろうか」
「もちろん、そうですわ!」
 いつも大人しい紅彩が、珍しく大きな声を上げてふたりのほうへ身を乗り出した。
 だが、面食らった氷咲の表情を見てすぐに冷静になったらしく、恥じ入るように身を引く。
「実は晨雨さまとわたくしは、まだ一度も同衾していないのです」
「えっ」
 思いがけぬ告白に、氷咲は思わず声が裏返ってしまった。
 あまり根掘り葉掘り聞くような話題ではないと思いつつも、ついつい質問が止まらない。
「一度も? 全然まったく少しも? 抱きしめられたりとか、口づけされたことは?」
「全然まったく少しもですわ。それどころか、晨雨さまは夜になると別室でお休みに……。わたくしに魅力がないのでしょうか」
 悄然と呟きながら、紅彩が俯く。
 雷零と氷咲は顔を見合わせ、彼女から詳しく話を聞くことにした。

     §

 紅彩曰く、晨雨は初夜を迎えたその日からずっと、彼女と別室で眠っているらしい。
 態度は以前と変わらず優しいが、少しでも紅彩が手を伸ばせば、慌てたように身を引く始末。
 一度、紅彩が勇気を出して『夫婦の務め』について口にしたものの、彼は『そういうことは考えなくていい』の一点張りだったそうだ。
「わたくしは、陛下と氷咲さまのように仲睦まじい夫婦になりたいと思っておりましたのに……。やはり晨雨さまがわたくしを娶ってくださったのは、“罪人の娘”を哀れんでのことだったのでしょうか……」
 茶を飲み、菓子を食べ食べ、紅彩はしょんぼりと眉を下げる。
「そんなはずない! 晨雨殿は、自ら望んで紅彩を妻にしたんだ。そうだろう、雷零」
 彼女と晨雨の結婚に関する一連の流れを雷零から聞いていた氷咲は、即座に否定する。
「ああ、もちろん。紅彩がいいのだと、大勢の前で宣言したのだぞ」
 しかし実際に彼と夫婦らしい生活を送れていない紅彩にとって、それは慰め以上の意味を持たなかったようだ。
「ありがとうございます。ですが、本当にそうだとしたら、わたくしに一切触れてくださらないのはなぜなのか……」
 紅彩の声はだんだんと涙声になっていき、美しい黒い瞳からとうとう涙が溢れる。
 どうやら氷咲たちが思っていた以上に、彼女は思い詰めていたようだ。
 妹のように思っている紅彩の涙に、氷咲はふつふつと怒りが込み上げるのを感じた。
 こんなに可愛らしく、健気な紅彩を泣かせるとは一体何事か。
「よし、晨雨殿と話をしよう。雷零もついてきてくれ」
 夫婦間のことに首を突っ込むのはあまり褒められたものではない。
 しかし紅彩は押しが強い方ではないし、放っておけば晨雨と話し合うこともできず、しおれていってしまうに違いない。
 自分がなんとかしなければ。
 そんな使命感から、氷咲は紅彩の手を引き、後宮を後にしていた。

     §

「晨雨殿!」
 太保専用執務室の扉を乱暴に開けた氷咲は、紅彩を連れたままずかずかと部屋の中へ足を踏み入れた。
 書類仕事をしていた晨雨が、突然の闖入者の姿に目を丸くしている。
「……皇后さま? それに、紅彩に……陛下まで。皆さまお揃いで一体……」
 氷咲の背後に目をやった晨雨が、そこではっと目を見開く。
「紅彩!? 目が赤くなって……何かあったのですか!?」
「言っておくが、余のせいでも氷咲のせいでもないぞ。お前のせいだ」
 何を勘違いしたか、どこか非難がましげな視線を向けてくる晨雨に、雷零が釘を刺す。
「聞けばお前たち、まだ初夜すら終えていないそうではないか」
「えっ」
 雷零の言葉に、晨雨が珍しく動揺したのをいいことに、氷咲はそのままたたみかけるように告げた。
「そのせいで紅彩は、晨雨殿から嫌われているのではないかと心配しているんだぞ」
「そ、それは……」
 たじろぐ晨雨を見て、それまで黙っていた紅彩が勇気を振り絞るように声を上げた。
「晨雨さま」
「こ、紅彩……」
「わたくしのことがお嫌なら、どうかそうおっしゃってください。元よりわたくしは望まれた妻ではございません。別居でも離縁でも、謹んで受け入れ――」
「そんなの駄目に決まっているでしょう!?」
 紅彩がすべて言い終えるより早く、晨雨が慌てたように口を開いた。
 顔を蒼白にした彼は驚く紅彩へ大股で歩み寄ると、そのまま両手で彼女の肩を強く掴む。
「私があなた触れなかったのは、あなたの体調を心配していたからです!」
「え……わたくしの?」
「あなたは身体が弱く、少し無理をすればすぐに熱を出してしまいます。だから、そうなるくらいであれば一生触れまいと……。そもそも以前も申し上げましたが、私は幼い頃からあなたのことがずっと好きで……」
 顔を真っ赤にしながらそう告白する晨雨を前に、紅彩の顔もみるみるうちに赤くなっていく。
 それでも彼女は俯くことなく、まっすぐ夫の顔を見上げた。
「わたくしも、晨雨さまのことが好きです。大好きだからこそ、触れていただきたいのです」
「で、ですが……」
「大丈夫です。わたくし最近、滋養に良いお薬を飲んで、毎朝のお散歩で体力をつけるよう頑張っております。晨雨さまが思うより、きっとずっと丈夫ですわ」
 微笑んだ紅彩が、不安げな顔をする晨雨の頬を宥めるように撫でる。
 晨雨はぎゅっと目を瞑ると、やがて迷いがふっきれたような顔で雷零のほうを見た。
「陛下、申し訳ございません。急用ができましたので、今よりしばらくの間、新婚休暇をいただきたく存じます。よろしいですか、よろしいですね」
 大真面目な顔で強引に事を推し進めようとする晨雨に、雷零がやや吹き出しそうになりながら、快く応じる。
「問題ない。そもそもお前は働きすぎなんだ。十日でも二十日でも、好きなだけ休むといい」
「ありがとうございます。それでは紅彩、帰りましょう」
「えっ、えっ? あの、ですが陛下や氷咲さまへのご挨拶がまだ――」
 紅彩は夫に腕を引かれながらも律儀に氷咲たちのほうを気にしていたが、結局別れの挨拶を告げるより早く、部屋の外へ連れて行かれてしまった。
 残った氷咲と雷零は、顔を見合わせて苦笑する。
「あれは、紅彩はしばらく大変だろうな」
 しみじみと氷咲が言えば、雷零もまたしみじみと頷く。
「晨雨はああ見えて独占欲が強いからな。まあ、あまり紅彩に無理をさせるような真似はしないと思うが。……ところで氷咲」
「ん? どうした」
「余たちも、新婚休暇を取るべきとは思わぬか?」
「う、うん?」
 突然の提案に、氷咲はなんと返事をしていいものか迷って、否定とも肯定ともつかぬ言葉を発してしまう。
 すると自分に都合のいいように受けとった雷零が、ぱっと瞳を輝かせた。
「そうか、氷咲もそう思うか! ではさっそく、諸々の手配をしてくる! 氷咲は後宮に戻って待っていてくれ!」
 そう言い置いて、子犬のように勢いよく部屋を飛び出していく雷零を見送ってしばらく、氷咲はぽかんと口を開いたまま立ち尽くしていた。
 やがて、だんだんとおかしくなってくる。
(きっと、晨雨殿たちのことが羨ましくなったんだろうな)
 苦笑を零しながら、それでもなんとなく心が弾むのは、氷咲もまた紅彩のことを羨ましく思ったからに他ならない。
(さて、新婚休暇のために、わたしも滋養強壮の薬を飲むことにするか)
 これからやってくる、夫とのめくるめく官能の日々を思い、氷咲は密かにそう決心するのだった。

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