ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

愛称の秘密

 ティファがそのことを思い出したのは、仕事も一段落して一息ついている時だった。
「そういえば、マリアンナ様が使っていたお二人の愛称は、私が教えてもらったものとは少し違うんですよね。何か理由があるのですか?」
 マリアンナがリーファスとフェルナンを呼ぶ時の愛称は「リー」に「フェル」だった。けれど、ティファが保養地で彼らに教えてもらった名前は「リーフ」と「フェン」だ。
 本名から取った愛称なのでどちらも似ているが、少し異なっている。
 もちろん、どういう愛称で呼ばせるかは当人たちの気持ち次第なので、ティファがあれこれ言う資格はないのだが、ほんの少しだけ気になっていたのだ。
 ――もしマリアンナ様がお二人を「リーフ」と「フェン」と呼んでいたら、私だって二人が小さな頃に会って遊んだ男の子たちだって気づいていたかもしれないのに……。
 だからだろうか。ほんの些細な差なのに心に引っ掛かっていたのだ。
 もっとも、入学当時に気づいたとしても、きっとティファは相手が公子と王太子ということに気おくれして声をかけるどころではなかっただろうが。
「理由という理由はないんだけど……」
 問われたリーファスはティファが淹れたお茶の入ったカップを手に、紫色の目を和ませた。
「実と言うと、あの保養地に行くまで僕らは愛称で呼び合っていたわけじゃないんだ。普通に『フェルナン』『リーファス』って名前で呼んでいた。残念ながら僕らは気軽に他人から愛称で呼ばれるような立場ではなかったし、家族間でも名前呼びだったからね」
 王太子と筆頭公爵家の嫡男。国王や王弟を除けば国でもっとも高い身分の二人に対して愛称で呼べる人間は限られている。それこそ家族くらいなものだろう。
 ――でもその家族同士でも名前で呼んでいたというのだから、愛称を使う機会もなかったのね……。
「長くもなければ呼びづらい名前でもなかったから、別に愛称を使う必要もなかったんだ。だけど王妃様に誘われて母上と保養地に滞在したあの時に初めて別の呼び名が必要になった」
 王妃としては当時はまだギクシャクしている間柄だったリーファス母子に互いを知る機会を与えたいという親切心でもあったし、息子フェルナンの遊び相手が欲しかったということもあっての招待だったのだろう。
 当時、人と会って話すのが苦痛だったリーファスは気がすすまなかったが、「別に他の人たちと交流する必要はないのよ。だって保養地ですもの。社交の場ではないのだし、身体を休めるために滞在する者ばかりですもの」という王妃の言葉を信じて行くことにした。
 だが、極秘の滞在だったはずなのに、王妃と王太子、それにアルバラード公爵夫人とその息子が保養地に行くという話がどこかから漏れて、彼らに近づきたい貴族たちが押し寄せてくるという状況になってしまったのだ。
「屋敷を出ればすぐさま人が寄ってくる。お忍びとは言っても貴族たちを無視するわけにはいかないから、ほとほと困り果ててね。そこで王妃様が僕とフェルナンの髪を染めさせて、目ただないようにしてくださったんだ」
 何しろリーファスとフェルナンは金髪で、遠目でもすぐに王族だと分かってしまう。言い換えれば金髪でなければ二人はただの子どもにしか見えず、貴族たちの目をごまかせるのだ。
 幸い、まだ社交の場には出ていなかったリーファスたちの顔を知る者は少なく、髪色さえ変えてしまえばよかった。
「ただ、名前をそのまま呼んでしまうと僕らだってバレてしまうだろう? だから愛称が必要になったんだ。本名に近くて、けれどすぐ僕らの名前と結びつくわけじゃない愛称が」
 そうして二人で考えて決めた愛称が「リーフ」と「フェン」だったのだ。
 ――確かにそうだわ。「リーフ」と「フェン」はお二人の名前から取った愛称として違和感はないけれど、言われなければ「リーファス」「フェルナン」に結びつかないもの。すごく絶妙な呼び名だったんだわ。
 現にティファは公子の名前も王太子の名前も知っていながら、二人と結びつけることはなかった。
「でもどうやら自分たちの愛称を本名より少し変えた形にしたせいで、フェルナンはメルヴィ・クランツが本物の『ビー』なのだと思い込んだらしいよ」
 リーファスの口元に苦笑が浮かぶ。
「え? どういうことですか? 彼女の愛称の『ヴィー』が私の名乗った名前『ビー』と音が似ていたから勘違いしたのだとばかり思っていましたが……」
「僕もそう思っていたんだけどね。『ビー』と『ヴィー』じゃ似ていても発音は異なる。フェルナンはその違いをよく覚えていなかったから、勘違いをしてあのメルヴィ・クランツが本物だと思い込んだのだと考えていた。でも本人に尋ねたら、昔一緒に遊んだ『ビー』とメルヴィの『ヴィー』の発音が違うことには気づいていたらしい。けれど、僕たちが本名がすぐに分からないような愛称をつけたのと同じように『ビー』も素性を悟られたくなくて、発音を少し変えて名乗っていたと思ったようだ」
「まぁ……」
 思いもよらない理由にティファは唖然となった。
 フェルナンは単に『ビー』と『ヴィー』を勘違いしていたのだとばかり思っていたら、まさか自分たちが本名とすぐに結びつかない愛称を考えたせいで、ティファも同じだと思い込んだのが理由だったとは。
「私は単純に家族から『ビー』と呼ばれていたからそう名乗っただけで、そんな難しいこと考えてなかったのに……」
「だから考えすぎなんだ、フェルナンは。……いや、自分が見つけたメルヴィ・クランツを本物の『ビー』だと思い込みたかったからなのかもしれないね。それだけ身分も忘れてただの子どもとして過ごしたあの時間が僕とフェルナンにとっては大事だったんだよ。君と保養地で遊んだ思い出に結びつくからか、僕らはこの愛称が気に入って、保養地に戻ってからもしばらくお互いを『フェン』『リーフ』って呼び合っていた」
 懐かしそうにリーファスは目を細めた。
「でもいつからは互いに愛称で呼ぶことはなくなった。成長して王太子と、王位継承権はあるとはいえ臣下という立場の差と自覚も出てきたからね。僕も王都と領地を言ったり来たりでフェルナンと会う機会も減ってしまったこともあって、気軽に呼ぶことはできなくなってしまった。仕方ないことだけどね」
 そう言って苦笑するリーファスは、少し寂しげに見えた。
「幼馴染同士で、とても親しそうに見えましたけど。今だって尊称なしに殿下の名前を呼べるのはリーファス様だけだと思いますよ?」
「殿下をつけるとフェルナンが怒るからね。確かに他人よりは互いに気心は知れていると思うよ。でも、昔と同じようにはいかないさ。……他にも僕らには色々あったから、いつしかお互い本音を言い合える仲ではなくなってしまった」
「色々あったとは?」
 つい尋ねてしまってからティファはハッとなった。他人の自分が踏み込んで聞くべきではない事だと今さら気づいたからだ。
「ご、ごめんなさい」
「いや、大丈夫だ。詳しいことは言えないが、歳も近いし、同じように王位継承権を持っている身だから、比べる人間が多くてね。フェルナンは僕のことを越えなければならない壁のように感じてしまったようだ」
「越えなければならない壁、ですか?」
「あるいは目の上のたんこぶというやつかな。陛下が何かと言うと僕をフェルナンのお目付け役のように扱うからなおさらだ」
 リーファスはカップを机に置くと、大きなため息をついた。
「ティファ、僕が君たちより一歳年上なのは知っているかい?」
「え?」
 びっくりしてリーファスを見た後、そういえばとティファは思い返す。婚約書に記載されていたリーファスの生年月日はティファより一年早かった。
「そういえば……。すっかり同じ年だと思っていましたけど、リーファス様は私たちより一歳年上なのですよね」
「そう。本来、僕は君たちより上級生になるはずだったんだ」
 学園に通えるのは十六歳になってから。ほとんどの貴族は学園に通える年齢になるとすぐに入学するが、様々な事情から一年や二年遅らせて入学する生徒もいるため、あまり年齢のことは意識されていない。
 ――だから私もなんとなくリーファス様も同じ年齢のように思っていたけれど、実際には一歳年上だから、上級生になる可能性もあったんだわ。
「だけど陛下からフェルナンの入学に合わせて欲しいと要請されてね。それで一年遅らせたんだ」
「ええと、それはもしかして殿下のお目付け役をさせるつもりで?」
「ああ。そうだ。フェルナンだけでは学園生活が不安だとね。フェルナンは……何と言うか、色々と甘いところがあってね。すぐに人を信じてしまうし、懐に入れた人間は疑おうとしない。ティファにも覚えがあるだろう?」
「ええ、そうですね……すごく覚えがありますね」
 ティファは苦笑する。メルヴィ・クランツと一緒に宰相府にあるこのリーファスの執務室に突進してきていたフェルナンの様子を見ればそれがよく分かる。
 ――聞く耳持たなかったものね。思い込んだら一直線というか……。陛下がお目付け役としてリーファス様を送り込みたくなる気持ちが分かるわ。
 もっともリーファスの側近で王都にあるアルバラード公爵邸の執事を務めているディーン・フォレスト子爵令息の言によれば「陛下は王太子殿下を甘やかしすぎなんですよ。面倒なことはリーファス様に押しつければいいと思っているんだから、親子そろってどうかしています」とのことだ。
 不遜な言葉に聞いているティファの方がヒヤヒヤしてしまったが、リーファスの周囲の認識はディーンとほぼ同じらしい。
 ――アルバラード公爵夫妻も「陛下はうちの息子にフェルナン殿下の面倒を押しつけすぎだ」と言ってらしたものね。
 ちなみについ先日、ようやくティファはアルバラード公爵と対面を果たした。
 罪を犯したシェルハースト公爵家の処分をどうするかという話し合いに、筆頭公爵家の当主として参加するために急遽王都にやってきたアルバラード公爵に挨拶する機会が設けられたのだ。
 アルバラード公爵は以前は軍に所属していたというだけあり、がっしりとした体格の精悍な男性だった。ティファは宰相府で「現アルバラード公爵はとても厳格で気難しい人物だ」と聞いていたので会うのが不安だったが、家族として対面したアルバラード公爵は意外なことに非常に人当たりのいい男性だった。どうやら「厳格で気難しい」というのは表向きの顔だったようだ。
 ――広大なアルバラード公爵領を治め、領地を接する諸外国にも睨みを効かせる必要があるのだもの。少しくらい厳しいと思われていた方が有利なのでしょうね。
 実際のアルバラード公爵は礼儀正しく、そして家族思いの優しい父親だった。
『あの子には我々夫婦の至らなさのために色々と辛い思いをさせてきた。だからその分、幸せになってほしいんだ。リーファスのことを頼むよ、ティファ嬢』
 もちろんティファは「はい」と答えた。
 あまり領地を離れているわけにはいかないとアルバラード公爵はすぐに王都を発って領地に戻ってしまったが、ティファの中に強烈な印象と「敬うべき理想の父親」としての姿を焼き付けることとなった。
 二人の婚約を正式に公表する時にはまた王都に公爵夫妻そろって来てくれることになったので、ティファは今からそれをとても楽しみにしている。
「思い込みの激しいフェルナンにはそれを諌める者が必要だと陛下は考えたんだ。だがマリアンナでは荷が重いだろうし、フェルナンが言う事を聞くと思えない。そこで僕を同学年にしてフォローさせようと思ったんだろうけど、当然フェルナンは『そんなに俺のことを信頼していないんですか!?』と反発してね。入学する直前までは周囲に当たり散らして酷いものだった」
 当時のことを思い出したのかしみじみとした口調になった。
「僕にも反発して、諌めようとしても逆効果になるから、入学してからは距離を置いて陰ながらフォローすることにしたんだよ。セレスティナ嬢たちの力を借りながらね。生徒会入りを断ったのも、表向きは宰相府の仕事を手伝うためだと言ったけれど、本当はフェルナンとは距離を置くためだった。僕が傍にいれば反発するだけでフェルナンのためにはならないからね」
 ――あら、やっぱりリーファス様は生徒会に誘われていたのね。
 成績も学年二位をずっと保っていたリーファスがなぜ生徒会に入らないのかとティファたちは不思議に思ったものだったが。実際は本人が断っていたのだ。フェルナンのために。
 ――……やっぱり、取り巻き令嬢たちの間で密かに言われていたように、いつも成績二位で甘んじていたのも、フェルナン殿下を立ててのことだったんでしょうね。一方、殿下の方はリーファス様が手加減しているのが分かっているから、余計に腹が立てて反発して……。
 おまけに父親である国王も息子である自分を信頼せずにリーファスを頼るのだから、拗れるわけだ。
「距離を置いたのがよかったのか、入学してしばらく経つとフェルナンは落ち着いて僕とも普通の話すようになった。きっと貴族の子息や令嬢たちと接するようになって王太子としての自覚が出てきたのだろうな。立ち居振る舞いから子どもっぽさが消えて、貫禄も出てきて、このままいけば、皆の求めるような立派な王太子になれると思っていたんだが……」
 リーファスは顔をしかめた。
 せっかくの配慮も、メルヴィ・クランツの存在で全てが台無しになってしまったのだ。
 祝賀パーティでフェルナンが犯した愚は、いくら公には「芝居だった」ということしにても、きっとあの場にいた貴族たちの脳裏に焼き付いて離れない。フェルナンがこれから王太子として生きていく上であの出来事が影を落としていくことになるだろう。
 でもティファは心配していなかった。
「大丈夫です。セレスティナ様たちが殿下を支えて全部払拭してくれますよ」

 彼女たちがどんなにしたたかで一筋縄ではいかない女性たちなのか。ティファは同じ「取り巻き令嬢」として三年も近くで見ていたのだ。一歩も二歩も引いていたマリアンナと違い、きっと彼女たちのうち誰が王太子妃に選ばれようと、フェルナンをビシビシと鍛えながら支えて国を守っていけるだろう。
 トップ5たちの面々を思い出したのか、リーファスの口元に笑みが浮かんだ。
「まぁ、そうだな。僕に取引を持ちかけ、三年間も見事取り巻き役に徹してくれた彼女たちなら大丈夫だろうさ。……と、そういえば今日はフェルナンと彼女たちの顔合わせの日じゃなかったかな?」
「はい。セレスティナ様からも今日王宮に参内すると連絡がありました」
 今日は実はフェルナンと彼の妃候補――つまりトップ5たちの顔合わせの日だ。
 もちろん彼らは学園で同じクラスに所属していたこともあってお互いを知っている。けれど将来の伴侶候補として顔を合わせるのは今日が初めてだった。
「殿下は複雑でしょうね。リーファス様の取り巻き令嬢だったセレスティナ様たちの中から結婚相手を決めることになるんですもの」
「そこは割り切るしかないな。……心配はいらない。あいつもそれは分かってる」
「そうですね」
「フェルナンのことは彼女たちにまかせるさ。僕はもうフェルナンのお目付け役からは卒業したんだから」
 まかせると言いながらも、きっとリーファスは今までと同じように陰ながらフェルナンを支えていくつもりなのだろう。なんだかんだ言っても、リーファスにとってフェルナンは大事な従弟であり幼馴染なのだ。決して彼を見捨てることはないとティファは断言できる。
「そういえば、愛称の話をしていたんだったっけ。どうしてマリアンナが違う愛称で呼んでいたかって話だよね」
 ふと思い出したリーファスは脱線していた話を元に戻した。
「マリアンナの場合は、だいぶ後になってからだ。それまでは普通に名前で呼んでいた。僕らが愛称で呼び合っていた時も、羨ましそうにしていたけれど、フェルナンはマリアンナが『フェン』と呼ぶのを許可しなかったんだ」
 ティファはびっくりして目を丸くした。
「え? どうしてですか? リーファス様と殿下はお互いに愛称で呼んでいたのに?」
「どうやら『フェン』は君と僕たち三人だけの特別な呼び名だと考えていたようだ。だったらマリアンナの前で言わなければいいものを、フェルナンは君と会った出来事を嬉々として聞かせていたからね。本当、鈍感にも程がある」
「なんとまぁ……」
 ティファはマリアンナに同情した。マリアンナは自分には言わせてもらえない愛称のことを、『ビー』の思い出と共に無神経にも聞かされ続けていたのか。
 ――リーファス様の言う通り、鈍感にも程があるわ……。
「だからだろうか。マリアンナは婚約が決まった後に『婚約者になったのだから、愛称で呼んでも構いませんでしょう? もちろん、殿下の大事な初恋の相手とは違う愛称にしますから』と言って呼び始めたのが『フェル』だ。そして僕のことを『リー』と呼んだ。初めは驚いたものさ。だって、当時僕らの間はまだギクシャクしたままだったから」
 マリアンナはリーファスの『異能の力』が『魅了』だと知ったとたん、彼の目を恐れて視線を合わせなくなっていた。もちろん、フェルナンの前であからさまに避けるようなそぶりはしなかったが、怯えていることは隠しようもなかった。
 リーファスは幼馴染の態度に傷つきはしたが、それも仕方ないとマリアンナとは失礼にならない程度に距離を置いていた。
 それなのに突然の『リー』呼びだ。さすがのリーファスもとても驚いたという。
「たぶん、王太子妃に内定してアルバラード公爵家の嫡男とギクシャクしたままだとマズイと思ったのだろうね。周囲に円満だと示すためにも僕も愛称で呼んだ方がいいと判断したんだろう。僕もその思いを汲んで、彼女が『リー』と愛称で呼ぶのを受け入れた」
『フェル』と『リー』。
 本名と結びつかないように考えられたかつての愛称とは異なり、王太子フェルナンとアルバラード公子リーファスを指しているとすぐに分かる呼び名。いかに二人と親しいか周囲に示すための愛称をマリアンナはつけたのだ。二人の初恋の相手『ビー』に対抗するように。
 かつて食堂でマリアンナが取り巻き令嬢たちの前で口にしていた『フェル』と『リー』、そこに込められた親しげな響きをティファは思い出していた。
 今思えば、あの響きには幼馴染の気安さだけではなく、かすかな優越感が含まれていたように感じる。
 ――もしかして、あの場で口にしていた愛称は、わざとだった? 取り巻き令嬢たち……いえ、かつて王太子の妃の座を争っていたトップ5の前で、二人と親しいことをアピールして牽制しようとしていた? それは穿った考えかしら?
 確かにマリアンナがリーファスにも愛称をつけて呼んだのは、アルバラード公爵家とは円満だと周囲に示したかったからなのかもしれない。けれど、ティファはどうしてもそれだけとは思えなかった。
 ――きっと、取り巻き令嬢【わたし】たちを牽制したかったのでしょうね。
 リーファスを好きだったマリアンナが、取り巻き令嬢たちの存在を内心では疎ましく思っていたのは想像に難くない。けれどフェルナンの婚約者という立場である自分にできることは限られている。だからこそ愛称を利用して牽制していたのだろう。
「『リー』って響き、すごく親しくて特別そうに聞こえるものね……って、あわわ」
 心の中で呟いたつもりがつい口に出てしまったようだ。慌てて口を手で覆うものの、すでに遅し。
 ――わわ、私ったら、今の言葉、すごく嫉妬したみたいじゃないの! そりゃあ、確かに『リー』の方が親しそうに聞こえるとは思ったし、一時は幼馴染であるマリアンナ様のことが羨ましいと思ったこともあったけど!
 ……そう、正直に言ってしまえばティファは嫉妬しているのだ。幼馴染として傍にいたマリアンナに。
 自分がもしリーファスと幼馴染だったら彼に辛い思いをさせなかったのにと、そう思って。
 リーファスは突然のティファの言葉に一瞬だけキョトンとなったが、すぐに破顔した。
「嫉妬してくれるの? 嬉しいな。僕の方が、君に心配されるフェルナンや、君が大好きだと公言している親友のトリシュ嬢に一方的に妬いてるとばかり思っていたのに」
 ティファは顔を赤く染めた。どうやらリーファスはティファの嫉妬心を知り、たいそう喜んでいるらしい。一方的じゃないと分かって。
 ――というか、トリシュにまで妬いていたんですか、リーファス様?
「僕は君が呼んでくれる『リーフ』の響きの方が好きだな。葉っぱ【リーフ】と同じだから、草木に愛されている君にぴったりだ。そうは思わないかい?」
「そ、そうですね。ぴったりだと思うわ……リーフ」
 面はゆい気持ちでそう返すと、リーファスはティファの方に手を差し出した。
「おいで、ビー」
「……はい」
 ビーと呼ばれるとティファは弱い。お盆をワゴンに置いて、差し出された手に誘われるかのように大きな机を回ってリーファスの前に立つ。
 リーファスはティファの手を取ると、自分の膝の上に腰を下ろさせた。腕を腰に回してがっちりと固定しながら、彼女のうなじに鼻をこすりつける。
「リーフ、誰か入ってきて見られたら……」
「ノックもせずに入ってくるのはフェルナンくらいだろうが、あいつは今お見合い中だから来られないさ」
「そうだけど……ぅん」
 うなじに歯を立てられ、くすぐったさにティファはほんの少しだけ身をよじったが、すぐに大人しく受け入れた。
 ――私って本当、押しに弱いわよね……。
 でもこういう強引さも嫌じゃないから困るのだ。
「マリアンナとはもう二度と会うことはないだろう」
 リーファスはティファのうなじで囁いた。
「……はい」
「僕を『リー』と呼ぶ人はもういない。君が気にする必要はもうないんだ」
「……そうですね。マリアンナ様はそろそろ修道院に着かれる頃でしょうか……」
 一週間ほど前、マリアンナは王都を出発し、幽閉先の修道院に送られた。生きている間、彼女は修道院から出ることはできない。監視されながら一生涯をそこで過ごすことになっている。
 もう二度とリーファスとティファがマリアンナと顔を合わせることはないだろう。
「そうだな。そろそろ着くだろうな」
「……私が彼女の幸せを祈るのは偽善でしょうか。でも、せめて修道院では静かに、心乱されることなく過ごしていただけたらと願っています」
「そうだな。僕も幼馴染だからかマリアンナのことを憎く思えないんだ。この目を嫌がられている時ですらね。……だから彼女が少しでも幸せだと感じられることがあるようにと願っている」
「マリアンナ様は……きっと……。……いえ。なんでもないです」
 ティファは言いかけて途中でやめた。
 ――リーファス様はマリアンナ様が愛しているのは彼女自身だけ。彼への気持ちはただの傷の舐め合いだと言ったけれど、私はそうは思わない。
 マリアンナの中には確かにリーファスへの想いが存在していた。
 彼女はおそらくずっと幼い頃から心の奥底ではリーファスに思いを寄せていたのだろう。けれど、それを認めるわけにはいかなかった。彼女は王妃にならなければならなかったからだ。公爵夫人ではだめだったのだ。
 ――マリアンナ様はずっと父親のシェルハースト公爵から洗脳まがいの教育を施され、自分の存在意義は王妃になることだと思い込まされて生きてきた。だから、きっとフェルナン殿下以外に想いを寄せることは許せることではなかったのでしょう。
 だからリーファスの『魅了の力』を知って恐れたのだ。自分がリーファスの虜になってしまうことを。心の奥底に眠っている気持ちが暴かれてしまうのを。
 ――でなければ、『魅了の力』を恐れるわけがない。
『魅了の力』は本人への好意がなければまったく効かないこと、かかったとしても自分の意思で解くことができることを公爵家の一員であるマリアンナが知らないはずはない。だからもし『魅了の力』の影響を受けても跳ね除ければよかった。恐れを抱く必要はなかったのだ。
 ――それなのにマリアンナ様はリーファス様の『魅了の力』を恐れた。
 ……それは、彼女の中に応えてしまうであろう想いが眠っていたからだ。
 その気持ちを揺り起こされてしまえば、きっとマリアンナはリーファスに溺れて、「王妃になる」ことを放棄してしまうに違いない。けれど、マリアンナにとって王妃にならないことは自分の存在意義すら失うことで――。
 だから恐れた。リーファスを。その『魅了の力』を。
 もちろん、これはただのティファの憶測にすぎない。マリアンナに真意をただすことももうできない。……けれど。
 ティファは北の修道院に送られたマリアンナに想いを馳せる。自分と同じ男性を愛した悲しい女性のことを。
 ――今さら彼女の隠された気持ちを掘り起こしてもなんにもならない。マリアンナ様も望んでいないでしょう。
 だからティファはリーファスに伝えずに、墓まで持っていくつもりだ。
「ビー?」
 黙ってしまったティファにリーファスが訝しげに声をかける。ティファは後ろを振り返りながら微笑んだ。愛称に隠された秘密の想いを胸の奥に抱きながら。
「何でもないわ、リーフ。マリアンナ様に少しでも心の安らぎが訪れますようにって祈っていたの」
「そうか。じゃあ、僕も君と一緒に祈ろう。彼女の安らぎを」
「ええ」
 ティファはリーファスに背中を預けて、祈るために目をそっと閉じた。

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