ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

夏の一日

 夏の白金の光を浴びて、静が川で洗い物をしている。
 着物の袂を紐で縛ってみずみずしい腕を晒し、額に滲む汗を時折拭いながら、ざばざばと水しぶきを上げて無心で衣を洗っている。
(美しい)
 センは傍らで洗い終わったものを絞りながら静を見ている。
 村から近いこの川辺では村人に見られるやもしれぬから家にいろと言われたけれど、家事すべてを静に任せ何もせずに家でゴロゴロしているのも心苦しく、気配がしたらすぐに隠れると言って無理やりついて来た。
 働いている静は若い命そのものだ。ほとばしる生命力の輝き。それに相反するように虚ろな心。その交わりが、何とも甘美な響きとなってセンの胸を打つ。
 最初に静の気配を感じたとき、センはひどく興味を惹かれた。これまでにない抗いがたい誘惑に、この縁は繋ぎ留めておかねばならぬ、と無意識に取った形が弱き少年の姿であったことは、心のない者に情で訴えようとする愚かな策であったかもしれない。
 けれど、静はセンを迎えに来てくれた。憐憫の情など持たぬはずの心に、ひっそりと忍び込むことに成功したのだ。
「おい、セン」
「うん?」
「そのように強く絞り過ぎるな。破けて使い物にならなくなる」
 静の美しさに恍惚としていた間に、手の中にある麻の着物は絞り過ぎて雑巾のようになっていた。
「おや、これは気づかなんだ。すまぬのう、静」
「いや、もうだいぶ古いものだ。仕方がない」
「この次外へ出たら、我がそなたに似合う着物を買ってやろう。美しい者は美しい衣で飾らなければな」
 人の体も衣も脆弱だ。この形を取ってしばらく経つが、まだまだ力加減が慣れない。五枝に分かれた手を二つ持ち、同じく五つの先端を持つ足を二つ。移動するときに地面に触れるのはその足の裏のみで、腰を中心として様々な動きを展開する。
 無論人の姿は見て知っていたが、実際自分がその肉体を持つと、その仕組みには驚くことばかりだ。
(人の体も面白きものよな。何より、この手じゃ。この手は様々なことに使える。静もあのかわゆい手で煮炊きをし、繕いものをし、籠を編み……人は自らの体で様々なものをこしらえる)
 センには手も足もなかった。全身を蠢かして自由に地を這い、水中を泳いでいた。人の姿となったのは今が初めてだ。
 人など理解できぬ。誰かを呪ってばかり、憎んでばかり、つまらぬ存在。
 けれど、自らが人の姿となってみて初めて、見えるものもある。
 洗い物を終えた静は、火照った顔を汗に濡らして、輝く瞳でセンを見上げた。
「しかしお前は……また一回り大きくなったのではないか」
「静は毎日同じことを言うのう」
「お前が毎日大きくなっているのだから仕方がない。そういえば、衣は大丈夫なのか。外へ出た折に買っているようだが、それでも大きさが合わなくなるのではないか」
「いやいや、大事ない。いつも少し大きめのものを買っておるからの」
「合わなくなったらいつでも言え。丈の調節くらいならばできる」
 早く心地よい青年体になりたくて少し成長を急ぎ過ぎてしまったか。あまり人間離れしたことをすると、さすがの静も気味悪く思うかもしれない。
 センは自分でもどれほど生きているのかわからない。けれど生まれたばかりではないし、死が見えるほど老いてもいない。人でいえば最も精気に満ちた二十代というところだが、初めは静の気を引きたいがためにあえて幼い姿に変じたので、意識と肉体の感覚に多少の乖離があった。
 さっさと帰って衣を干そう。そう言って幼子を導くようにセンの手を引くのは、最初に出会った頃少年のなりだったせいだろう。センは静の濡れた指先のぬくもりに、秘かに心震わせた。
(この手で、愛しき者の手を握ることができる。指先で、愛しき者の肌を感じることができる。愛しき者と同じ形で、並んで歩くことができる)
 人などつまらない。けれど、静が人である限り、自分も同じ姿となって側にいたい。同じ生き物として愛されたい。
 欲望は果てしない。人になってからどんどん膨らんでゆく。静をもっと知りたい。静をもっと探りたい。静のすべてを自分のものにしたい。もっと。もっと。
 なるほど、これが欲か。これが人間か。愚かなもの。あさましきもの。
 しかし、欲を駆り立てる情の炎の、なんと熱く快いことか。
「何をニヤニヤしている」
「静とこうしておるのは楽しいと思うてのう」
「ただ洗濯をして帰っているだけではないか」
「それがよいのじゃ。普通の人の営みが面白い。静の隣におるだけでな、我は心が弾んで仕方ないのじゃ」
 おかしな奴、と静は小さく笑い声を漏らした。
 静はよくセンの言動がおかしいと言って笑う。やはり人になりたての自分では妙な部分もたくさんあろう。しかしそれで静の笑顔が見られるのならばしめたものだ。
 あれほど侮蔑していた人を欲するとは、我ながらふしぎである。けれど、初めて恋した相手が人だったのだから、仕方がない。
 今日も太陽は高々と天中に昇り大地を照らす。しきりに額を拭う静を真似て、自分も人らしく汗でも流してみようかと思ったが、なかなかうまくいかない。それでも、静と同じ生き物になりたくて、今日もセンは人を学ぶ。

一覧へ戻る