ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

犬は無事

 ジルダとエルベルトが結婚してしばらく経つ。
 孤児院の事業も落ち着いていて、今ではジルダやエルベルトが手をかけずともきちんと運営してくれる有能なスタッフがいる。
 お陰でこうして午後のひとときをまったりと過ごすことができているのだ。
 しかし、頭の全部を仕事から切り離すことができず、エルベルトは王城での悩みをジルダに相談していた。
 王妃と国王が立て続けに逝去し、その後を継いだのが長く辺境伯の元にいた忘れられた王女だ。
 彼女はダヴィアを始めする諸侯からの説得でなんとか王座に就くことを承知したが、生涯結婚はしないことを条件として突きつけてきた。
 彼女は母親のようになるのが恐ろしいのだという。
 議会でも話し合いが重ねられたが、前王妃の騒動についてはよく知っているため無理強いもできず、それについては一応の承認はなされている。
 故にエルベルトたちは後継となる人材を探して奔走しているのだ。
「ジルダがときどき話し相手になってくれているが、女王が見せる寂しそうな顔が気になってな。女性の立場からもしなにかいい案があれば聞きたい」
「そうですねぇ……」
 ジルダが天井を見上げて小さく唸る。
 誤解を恐れずに言えば、自分も女王のように子孫を残すことを恐れていた。
 このまま誰とも交わらず、血を繋ぐことなく一人寂しく消えていくのだとずっと思っていた。
 王都の外れのあばら家で、そんなことを考えながら生活していたことを思い出したジルダはふと気付く。
(そういえばわたし、黒猫でも飼おうかと思っていたわ……)
 淫魔の血を引くことがバレて迫害されることを考えて終ぞ実現しなかったが、もしかして小さい命が女王の孤独を埋めてくれるのではないかと思ったのだ。
 エルベルトにそれを告げると、彼もああ……、と遠い目をした。
「そういえば私も小さい頃犬を飼っていた」
 正確には屋敷で買われていた番犬だったが、エルベルトによく懐いていた。
「まあ、そうなんですね?」
 生き物が好きなジルダは相好を崩して前のめりになる。
「ああ。私は七歳のときに誘拐されただろう? そのときに……」
 エルベルトは一緒に遊んでいた犬が庭の隅でなにかを見つけ、それにかじりつくのを認めた。
 おかしなものでも食べているのではと思い、注意しようとしたら犬が尋常ではなく苦しみ始め、ついには泡を吹いて倒れてしまったのだ。
「恐らく私を誘拐するのに番犬の存在が邪魔だったのだろうが、……誘拐犯とはいえ本当に酷いことをする」
 思い出して眉をひそめたエルベルトの話の途中で、急にジルダが立ち上がった。
 エルベルトは驚いて言葉を飲み込んだ。
 ジルダはおっとりしているし、人の話を途中で遮るようなことはしない。
 なにかあったのかと注視していると、ジルダがわなわなと唇を震わせている。
「どうしたんだ、ジルダ」
 声をかけると、ジルダははくはくと口を開けた。
「い……」
「い?」
 ジルダの様子に、エルベルトも思わず拳を握ってしまう。
「犬は無事ですか!?」
 あまりの剣幕に驚いたエルベルトだったが、小刻みに頷く。
「あ、ああ。犬はきちんと処置されて元気になった。その後も番犬として屋敷にいて、子犬も産まれて幸せそうだった」
 さすがにもう虹の橋を渡ったが、ダヴィア領の屋敷ではその孫犬が番犬として飼われているという。
 それを聞いてジルダは脱力してソファに座り直す。
「ああ、よかった……! 犬が無事で本当によかった……!」
 胸に手を当てて息を整えているジルダは心底安堵したらしい。その優しさに頬を緩めたあと、エルベルトはすっと笑みを消した。
「ジルダ、私よりも犬の心配をするなんて……なんだか妬けてしまうな」
 思わぬ方向に飛び火したのを感じたジルダは焦って手を上下に振る。
 こういうときのエルベルトを軽く見てはいけない。絶対に痛い目を見るのだということを、ジルダは身を以て知っている。
「だって、エルベルト様はこうして今ご無事じゃないですか……っ! わたし、お話とか本とかで犬や猫がひどい目に遭うの、本当に駄目で……っ」
 ジルダは心底つらそうに眉をひそめる。
 猫が虐待されるもの、犬が主人を庇って死んでしまうもの……どれも物語上の演出であることは承知していても、末期の悲しい鳴き声を想像して胸がぎゅっと痛くなってしまうのだ。
「ああ、君の優しさは十分に承知しているよ、ジルダ。だが、そこを割り切ることができないのが愛だと思わないかい?」
 エルベルトは音もなく立ち上がるとジルダを抱き上げた。
 部屋の隅に控えていたメイドが、顔を伏せたまま絶妙のタイミングで部屋のドアを開ける。息がぴったりでまるで事前に打ち合わせをしていたように見える。
「エルベルト様……っ、下ろしてください!」
 こうして抱き上げられることはよくあるが、それでも恥ずかしさが消えるわけではない。ジルダは頬を赤く染めて異議を唱えた。
「駄目だ。ジルダが私に抱えられて恥ずかしがる顔を堪能するのもリストに入っているのだから」
 リストとは?
 ジルダの頭に疑問符が浮かぶ。
「私の機嫌を取るリストだ」
 考えを読んだようにエルベルトが言いながら、人一人を抱えているとは思えないほど軽快に階段を登っていく。
 その先にあるのは――二人の寝室『鏡の間』である。
(こんな……明るいうちからなんて駄目よ!)
 これから自分の身に起こることを、経験則から悟ったジルダは抵抗を試みる。
 しかしエルベルトは器用にドアを開け、結局ジルダは『鏡の間』に入るのを防ぐことでできなかった。
「エルベルト様、こんな昼間から……っ」
 こんな弱い言葉でエルベルトを止められるとは思っていないが、それでもジルダは言わずにいられない。
 このまま組み敷かれたら、夕餐どころではなくなってしまうのだ。
 それに今抱かれたからといって、夜の房事がなくなるわけではないことを、ジルダは知っていた。
 日の高いうちから夜までずっと抱かれ続けたら身がもたない。
(なんとしてもベッドに入ることを拒否しなければ!)
 そう強く心に決めてエルベルトに意見しようとしたが、当のエルベルトはベッドを素通りする。
「……え?」
 拍子抜けしたジルダがホッとしたのも束の間、エルベルトが向かったのは寝室に併設されている浴室だった。
 ここも寝室と同じように鏡張りになっている。
 しかし浴室という環境上鏡の大半は湯気で曇ってしまい、忌避感は少ない。
 ただ、エルベルトの瞳自体が曇るわけではないので恥ずかしいことには変わりないのだが。
「え? ちょっとエルベルト様?」
「一度ジルダを隅々まで洗ってみたかったのだ」
 そんな恐ろしいことを宣うエルベルトが浴室のドアを開けると、あたたかい湯気がジルダの顔を撫でる。
(うっ、さすがダヴィア公爵家……! いつでも入浴可能!)
 ジルダは怯んだが、それでも自分を鼓舞する。
 そもそもバスタブに浸かっていれば身体は隠れるし、身体を洗うとなれば泡で見えにくくなる。湯気も相まってそうそう恥ずかしい思いはしないはず。
(そうよ! ちょっと触られる程度なら……って、ええええ!?)
 ジルダは驚いた。
 湯気で曇っているはずの鏡が、これ以上ないほど鮮明にジルダとエルベルトを映している。
 どういうことなのかと挙動不審になるジルダに、エルベルトは得意げに胸を反らす。
「東の国からよく聞く曇り止めを取り寄せたのだ。素晴らしいと思わないか? これまでの悩みの種だった湯気での曇りが嘘のようによく映る。これで浴室でも安心だ」
「安心って、そんな……もう鏡に頼らずとも大丈夫じゃないですか!」
 グレーテから譲り受けたお守りのお陰で、最近は手鏡を忘れることもあるのにと声を上げるジルダに、エルベルトは目を瞬かせる。
「なにを言うのだジルダ、屋敷内にある鏡は君の美しさを映すためにあるのだよ?」
「うそおっ!?」
 思いもよらぬ夫の一言に、ジルダは悲鳴に近い叫びを発したが、結局エルベルトの思うがままとなってしまった。

 そのしばらく後グルガーニ女王の元には真っ白な子猫が献上され、城内や庭で楽しそうに戯れる女王と子猫の姿が目撃されるようになった。
 ジルダの思った通り、小さき命が女王の気持ちを慰めるのに一役も二役も買うこととなったのだ。

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