ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

祈りの夜

 即位式の一月後、シェリンはバルトとともにイデアに向かった。
 イデアは都から馬車で三日の距離にある有名な保養地で、豊富な湯量を誇る温泉が湧いており、多くの病人が湯治に通う場所だ。
 王領地ではあるのだが、貴族や富豪が別荘を有してもおり、ここで入る税収は王家にとっても貴重な収入源である。
 イデアに到着してまっさきに向かったのは、王室の宿舎だった。宿舎は灰白色の石で建てられ、定期的な清掃のおかげで清潔感を保っている。
 室内に入れば、クリーム色の壁紙には花と蔦の模様が描かれ、木目の美しい調度品が置かれていて、趣味がよかった。
 二階にある部屋から見下ろせば、夕刻だというのに、イデアの中心街には明かりがついている。
「夜市が開催されているの?」
 窓から見下ろしつつ横を向けば、バルトがかすかに微笑んで答えてくれた。
「いや、祭りらしい」
「お祭り?」
「イデアの教会が実施している祭りだ。イデアの教会は病を癒すという聖人を祀っているが、その聖人が生前、流行病で倒れた人々を夜通し介抱してまわったという逸話にちなんだ祭りらしい」
「聞いたことがあるわ。聖人像を外に安置して、みなそこで祈るのよね」
「ああ、そうだ」
 イデアを代表する有名な祭りに、胸が自然と踊る。
「観てみたいわ」
「もちろん、そのために来たんだ」
 バルトが笑ってシェリンの腰を抱く。
「さあ、行こう。楽しみはいっぱいある」
 バルトに促され、シェリンは期待を胸にうなずく。
 ふたりは、以前訪問したように商人とその妻という地味な格好をして出かける。
シェリンは髪にお気に入りの造花の薔薇の髪飾りをつけたが、ベールはかぶらない。聖女の証である右頬の百合は消えたから、顔を隠す必要はなくなったのだ。
 教会に赴くと、その前の広場には聖人像が置かれている。
 中年のえらが張ったいかつい顔の聖人像だった。長いローブを着ており、手には薬草を持っている。
 彼はその薬草を嗅がせて病人を癒してまわったという。だが、ときの権力者にその行為を疎まれ、邪教徒として処刑されてしまった。
 聖人像の周りには籠が置かれている。そこに、ハーブや薬草を入れていくのが、祈るときの約束ごとだ。シェリンも宿舎に用意されていた乾燥カモミールを籠に入れる。籠の中は様々な薬草があり、空気は芳香に満ちていて、匂いを嗅いでいるだけで体調がよくなりそうだ。
 折よく教会から司教があらわれた。定期的におこなわれる説法の時間なのだろう。
彼は聖人像の側に立ち、聴衆に向けて語りかける。 
「みなさまもご存じのとおり、この国にもはや聖女さまはいなくなりました」
 シェリンは密かに喉を鳴らした。心臓がどきどきと音を立てる。
「これからは聖女さまのいない時代を生きていかなければならない。しかし、恐れることはありません。神の教えは変わらず、聖人もお守りくださる。不安な者、迷う者は教会にきて祈りを捧げなさい」
 シェリンは胸にこぶしを押し当てた。
「商売熱心だな」
 バルトがあきれたように言うが、シェリンは首を横に振った。
「いいえ、いいの。だって……」
 聖女以外によりどころになる場所が、存在があってよかったと思う。おかげで罪悪感がほんの少し軽くなる。 
もはやシェリンは聖女ではない。奇跡の力で人を救えぬ、ふつうの女だ。
 シェリンは右頬を手で覆う。そこに百合の花はない。
「行こうか」
「ええ……」
 シェリンは彼に手を引かれるままに進む。
 広場を一歩出れば、露店が並んでいる。秋の風が冷たいせいか、ホットワインを売る店には人だかりができている。ワインを買って、その場でちびちびと飲んだ。身体の内がホカホカとぬくもり、歩調も軽くなる。
 露店を抜けてふたりが歩いていったのは、中心地から離れた川辺だ。
 以前、逃げたシェリンをバルトはここまで追いかけてきた。
 川辺の岩に座ると、川からもうもうと湯気が上がっているのが見える。川に温泉の湯が流れ込んでいるからだ。
 湯治場らしい匂いが漂う。風は予想よりも冷たく、思わず身体を抱いてしまう。
「寒いか?」
 バルトは上着を脱いで、シェリンの肩にかけてくれた。
「ありがとう、バルト」
「後悔をしていないか?」
 バルトに訊かれ、シェリンは目をパチクリさせた。
「後悔?」
「聖女でなくなったことを」
 シェリンは彼を見つめ、首を横に振った。
「いいえ、後悔はしていないわ」
 きっと、何度だって同じ選択をする。そう思っているからこそ、後悔などしない。
「そうか」
 バルトはかがんでシェリンの右頬にくちづける。
 百合の花が消えてしまっても、バルトは何も変わらない。
(ずっと同じ……)
 聖女であったときも、聖女でなくなったときも、変わらぬ愛を捧げてくれる。
 バルトこそがシェリンが手にした“奇跡”なのだと思う。
「シェリン、帰ろうか」
 バルトに手を引かれ、シェリンは立ち上がった。
「もう帰るの?」
「シェリン、知っているか? 聖人が人々を癒したこの日は、肉体にまつわるあらゆる奇跡が起こるそうだ。つまり……」
「つまり?」
「男女が交われば、子ができる可能性が大きくなると聞く」
 嘘か誠か知らないが、バルトは真顔だ。
シェリンは噴きだしそうになり、それから唇を引き結んだ。
「それはすぐに帰るべきね」
「そうだろう。俺は早くシェリンを抱きたい。今ここでもいい」
「わ、わたくしは暖かいところがいいわ」
 さすがに頬を朱に染めてたしなめた。まじめに国王の仕事に取り組むバルトだが、シェリンのことになると暴走してしまう。
「では、早く帰ろう。暖かいところで、シェリンをもっと暖める必要がある」
 シェリンの手を覆うバルトの手はひどく熱い。
 今夜は眠れないのではと案じつつ、彼と肩を並べて歩ける“奇跡”を一歩一歩楽しんだ。

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