ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

優しい夜

 抱きしめられて眠る夜が好きだ。
 雨が降っているのか、窓を雨粒が叩いている。その小さな物音に、シェリルは目を覚ました。
 まだ夜は明けていない。雨天であるのを差し引いても、暗く静かな闇が室内には横たわっていた。
 静まり返った暗がりは孤独感を炙り出す。自分一人きりが中途半端な時間に覚醒すると、不安や心細さで押し潰されそうになった。
 凝る影に怯え、微かな気配を警戒し、一刻も早く朝になってくれと祈った回数は数えきれない。
 昔は、夜がとにかく恐ろしくて堪らなかった。
 それは、全て嫌な思い出に直結しているからだ。少しでも記憶を掘り起こせば、肌が悍ましさで粟立つ。叫び声も上げられず、丸くなって我が身を抱きしめることしかできなかった、あの頃に。
 けれど今は。
 ――温かい……
 心地いい温もりに包まれている。
 深く息を吸えば、心安らぐ香りがシェリルの鼻腔を擽った。
 目蓋を押し上げれば、闇に慣れた視界に映るのは愛しい人。夫であるウォルターが規則正しい寝息を立てて眠っていた。
 仮に悪夢を見て魘されたとしても、もはやシェリルは搾取されるだけだった過去の自分とは違う。現在はこうして安らぎを与えてくれる人が傍にいる。
 だからこそ恐怖しかなかった宵闇も、そう悪くないと感じられるようになった。
 いつ目を覚ましても、変わらずに抱き留めてくれる人がいるから。絶対にシェリルを守ってくれると断言できる唯一の人が傍にいてくれる。
 得難い奇跡を噛み締めて、シェリルは彼の胸へ擦り寄った。
 裸の上半身は、愛し合った余韻を残している。しっとりと汗ばみ、こちらが夢中で吸いついた痕が肌に刻まれていた。
 その一つを指先でなぞり、シェリルは泣きたくなるような満足感を味わった。
 ――ああ、怖くなるくらい幸せ……
 自分にこんな未来が訪れるなんて、数年前には想像もできなかった。
 あの頃は絶望の只中にいて、日々死なないために辛うじて生きていたのと大差ない。
 今よりも最悪なことが起こらないよう願い、『今日も生き延びた』『生き延びてしまった』安堵と後悔で、世界は塗り潰されていたと思う。
 将来のことを思い描くことすら贅沢で、夢にも逃げられなかった当時を、シェリルは許されるなら永遠に葬り去ってしまいたい。
 全てを人生や記憶から切り捨てられたら、どんなに素晴らしいか。
 ただ幸運な少女として、養父の醜い裏の顔など知らず、恵まれた人生を掴み取ったお姫様気分を満喫できていたなら――
 ――でもそうしたら、きっとウォルター様とはこうなっていなかった。
 兄と妹のまま適切な距離感を保ち、いずれは別々の人と結婚していたに決まっている。
 想いを告げる機会にも恵まれなかったのが、容易に想像でき、一瞬たりとも迷わずにシェリルは『嫌だ』と思った。
 辛過ぎた日々は心底消してしまいたい。それでもあの地獄を生き延びたからこそ、この幸せがあるのだ。
 ウォルターの胸板へ頬を密着させ、思う存分彼の体温と感触、香りと形を味わった。自らの手をウォルターの腰へ回し、大胆にも脚まで絡ませる。
 僅かな隙間も作りたくない。
 いっそ一つの塊になってしまいたいと、愚かな欲望が浮かんだ。
「ん……シェリル……」
 こちらがごそごそと動いたせいか、彼は眉を震わせて声を漏らした。
 どんな夢を見ているのか不明でも、寝言で名前を呼んでくれたことが嬉しい。たったそれだけのことで天にも昇る心地になれた。
 微睡みの中、誰にも邪魔されず至福を独り占めするのは、シェリルの特権。
 ウォルターがいてくれれば漆黒の闇だって恐れるには足りない。むしろ朝などまだやってこず、二人きりの時間ができるだけ長く続けばいいとさえ願った。
 雨音すら温かな音楽に聞こえる。愛する男の腕の中、シェリルは遠退いてしまった睡魔をどうにか手繰り寄せようとした。
 その時。
「……眠れないのか?」
 熟睡しているはずのウォルターの双眸が開いていた。
「お、起こしてしまいましたか? 申し訳ありません」
 不用心に身じろぎ過ぎたか。彼の安眠を妨害してしまったかと思い、シェリルは咄嗟に謝った。
「いや、君が謝る必要はない。それより……怖い夢でも見たのか?」
 まるで子どもに言う口調で、ウォルターは問いかけてきた。しかも側頭部から耳にかけて撫でてくれる。
 その手の温もりがシェリルを一層安らがせてくれた。
「いいえ。大丈夫です」
「もし悪夢に魘されたら、いつでも僕を起こしてくれ。……いや、いっそ君の夢の中へ助けにいかれたらいいのに」
 瞼にキスを落とされ、陶然とする。
 労わりの言葉と仕草が、シェリルの心も身体も包み込んでくれた。
「でしたら私も、ウォルター様の夢の中へ入ってみたいです」
「僕の?」
 想定外なことを言われたとばかりに彼が瞠目する。
 そのかつてのあどけなさが垣間見える表情に、シェリルは微笑んだ。
「はい。そうしたら起きている昼間と、眠っている夜間――どちらも一緒にいられますよね? 単純に過ごす時間が二倍になります」
「ふ……ははっ、シェリルは面白いことを言う。確かにそれなら今よりずっと傍にいる時間が長くなる」
 実現不可能ではあっても、妄想するのは自由だ。
 しかも昼間のウォルターは仕事で屋敷を空けることも多く、年中シェリルと共にいられるわけではない。
 むしろ一日の大半は別々に過ごさねばならなかった。
 就寝時には同じベッドで横になるが、シェリルが寝入ってから彼が帰宅することもしばしば。
 朝になってウォルターの残り香を吸い、寂しさに嘆息するのも少なくなかった。
 故に夫婦の寝室で毎晩休んでいても、顔を合わせる時間が圧倒的に足りないのだ。
 ――私、すっかり贅沢になってしまったわ。
 以前は彼から手紙が届くだけで慰められた。会えなくても『気にかけてもらえている』と実感するだけで数か月耐え忍ぶことだってできたのだ。
 それが今はどうだ。
 もっと自分を見てほしいし、触れ合いたい。手にした幸福を絶対に手放したくなくて、更なる愛情をウォルターに望んでいた。
 そして、シェリル自身も目一杯彼を愛したい。
 秘密にすることなく。押し殺すこともなく。
 何なら大声で『ウォルター様が私の大切な旦那様』だと触れ回りたいくらいだった。
 彼に対する恋慕を、汚らわしい執着だと胸に秘めなくてもいい歓喜が溢れ出す。
 これこそが自分にとって一番の幸せ。
 本心を吐露しても許され、受け止めてくれる人がいる。奇跡に等しい今が、眩く煌めいて感じられた。
「シェリルの寝顔を見つめるのも好きだが、こうして会話できるのはもっと好きだ。近頃忙しさを理由に、夫婦の時間をおざなりにしていたかもしれない。僕は深夜屋敷に帰ってから君を抱き締め充足感を得られるけれど、シェリルは眠ったままだと僕に会ったとはいえないな。今夜は久し振りに夕食の時間に間に合ったが、しばらく寂しい思いをさせてごめん」
 ウォルターが的確にこちらの侘しさを指摘してきた。
 シェリルは自分でも無自覚だった気持ちを言語化され、彼に甘えたかったのだと気づく。
 どんなに遅い時間になっても、ウォルターが屋敷に帰ってきて同じベッドで休んでくれるのは嬉しい。シェリルの元へ戻ってきてくれるのだと感じられる。
 その上情熱的に掻き抱かれれば、特別会話がなくても『愛されている』のが伝わってきた。
 本当ならそれで充分。満足すべきだ。
 しかし贅沢を一度知ってしまえば、人は過去には戻れない。
 もっと一緒にいたい欲が日々膨らんだ。
 夜中目を覚ますのも、ひょっとしたらウォルターの寝顔を確認したいからかもしれなかった。
 ――ウォルター様は全部お見通しね。
 自身の我が儘とも言える心情を見抜かれた恥ずかしさとこそばゆさが、シェリルの胸をざわつかせた。
 それでいて仄かに期待した通り、彼が強く抱き寄せてくれたことに唇を綻ばせた。
「大丈夫です。ウォルター様が私を大切にしてくださっているのは、理解しています。今夜だって、大急ぎで帰ってきてくれたじゃありませんか」
「妻に孤独感を味わわせるなんて、夫として最悪だ」
 素肌が重なり、うっとりとする。
 眠る前にたっぷりと愛されたばかりなのに、シェリルの体内が甘く疼いた。
 人形に徹していた時には決して起こらなかった現象。
 下腹に甘い渇望が広がった。
 ――私ったら、はしたない。ウォルターはお疲れなのに、何を考えているの。
 肌を重ね、満たされた思いで眠りに落ちたはずが、再び欲求を覚える自分に愕然とした。
 元来シェリルは、淫らな行為に対して積極的ではない。それでも彼と触れ合うとたちまち蕩けてしまうから厄介だった。
 ――ああ、本当に欲張りになってしまった。
 もう手紙の遣り取りだけでは満足できない。
 直接会い、触れて、会話して、愛を確かめ合う贅沢を甘受してしまった今、更に貪欲になっていく自分が恐ろしくもある。
 それでいて、人間臭い願望を持て余すシェリルを、ウォルターは許してくれる確信があった。
「大好きです、ウォルター様……」
 拙い口づけを施せば、彼は艶やかな笑顔を返してくれた。
「それは誘われていると解釈してもいいのか?」
「ぇ、あ、その……――はい」
 誘惑なんて慣れておらず、ドギマギしてしまう。改めて問われると恥ずかしくて、シェリルは横臥していた身体を慌てて起こそうとした。
「や、あのでも多忙なウォルター様にはゆっくり休息を取ってもらいたいと思っています。ですからたっぷり睡眠を――」
「愛しい人に可愛く煽られて、このまま眠れるはずがないじゃないか」
 向かい合って横たわっていた視界が突然変わった。
 仰向けのシェリルにウォルターが覆い被さる体勢になる。
 驚きに目を見張れば、色香を滴らせた彼が前髪を掻き上げ、こちらを官能的な眼差しで見下ろしてきた。
「……せっかく一度で我慢してあげたのに……全力でシェリルを抱いてもいいの?」
 危険な台詞にクラクラした。
 ここで頷いてしまったら、めちゃくちゃに翻弄される予感がある。
 きっと明日の朝は足腰が立たず、使い物にならなくなるのでは。それは邸内の使用人に対し示しがつかないではないか。
 いくら新婚夫婦だとしても、慎みは重要だ。
 シェリルは淫らな妄想を振り払い、節度を保ってくれるよう告げようとした――が。
 潤む瞳は正直で、無意識に物欲しげな眼差しをウォルターへ向けてしまった。
「妻の許しを得たと見做していいね?」
 唇で弧を描いた彼は妖しく、シェリルの視線を惹きつける。瞬きもできず凝視していると、それを『同意』と解釈されたらしい。
「愛している、シェリル」
「ぁ……」
 濃厚な口づけで呼吸を奪われ、侵入してきた舌に惑わされた。
 口内で舌同士を絡ませ合うと、愉悦が際限なく大きくなる。恍惚は瞬く間に快感を連れてきた。
 暗闇の中、淫靡な水音が奏でられる。雨音はいつしか耳に届かなくなっていた。
「明日は一日時間を空けてある。二人で出かけよう」
「本当ですか? 楽しみです……!」
 唇を解き、額をくっつけた状態で囁かれた。
 見下ろしてくる瞳は優しく、慈しみに溢れている。シェリルが笑顔で返せば、よりウォルターが笑みを深めた。
「寂しい時や不満がある時は、遠慮なく僕にぶつけてくれ。どうか一人で抱え込まないで。――……もう二度と君が誰にも打ち明けられない悩みで押し潰されるところを見たくない」
 吐き出されたのは、祈りに似ている。
 シェリルを思い、彼が長い間苦悩していたのが伝わってきた。
 痛みも、苦しみも、絶望も。全て自分一人で抱え込まねばならないと思い込んでいた。
 だが今は共に背負ってくれる人がいる。それがどんなに重く痛々しいものであったとしても――ウォルターとなら分かち合えると思えた。
「……貴方の重荷も私に分けてください。そうして、生涯を支え合って歩んでいきましょう」
 万感の思いを込めて告げる。
 溢れる愛情は涙となってシェリルの眦を伝い落ちた。
「そうだな。もう勝手に判断するのはやめる。何かあれば、必ずシェリルと話し合い、解決していきたいと思う。擦れ違わないためにも」
 きっとこの先の人生で、足並みが揃わなくなる時はくる。真剣に愛し合っていても、人は間違いを犯すものだ。
 長い年月の中では、相手の心が見えにくくなる日もくるだろう。
 それでも、傷だらけになってでも離れたくない人。ぶつかって深手を負うとしても、シェリルにとって絶対に諦められない唯一がウォルターだった。
 愛おしさを証明するため、互いに率先して舌を絡ませる。濃密なキスはそれだけで呼吸が弾んだ。
 夜明けまではあと少し。
 だがメイドが起こしに来るまではまだたっぷり時間がある。
 シェリルとウォルターは互いの熱を交換した。

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