この薔薇の名前
十五歳のキャサリンはその日、兄アーサーの部屋に乗り込んで本を読んでいた。
『ファルビュー公国の美女十選』
というタイトルの娯楽本である。
どうやら兄がお忍びで遊びに出掛けたとき、城下で買ってきたらしい。
「お前が読むような本じゃないぞ」
アーサーのやんわりした忠告に耳を貸さず、キャサリンはページをめくり続ける。
「お母様が載っていないか見ているの」
「なにを父上みたいなことを言ってるんだよ……別に母上が載ってなくてもいいだろ?」
「いいの。確かめたいのよ。お母様が載っているかどうかを!」
言いながら本に目を落としていたキャサリンは、自分についての記述を見つけ、手を止めた。
『ヘンリー公の長女キャサリン公女は、“ファルビュー公国の真珠”と呼ばれている』
その記述を目にした刹那、キャサリンが険しい表情で眉根を寄せる。
――この私が真珠? 真珠はお母様じゃなくって!?
そう。
ヘンリーの長女キャサリンは、強火の母推しなのだった。
「この本を書いたものを呼び出して、お母様こそがこの国の真珠だと書き直させてくださいませ!」
「うーん、適当に書かれた本だからね、そこまでする必要はないと父様は思う」
「お母様のほうが私より綺麗だわ!」
「父様から見れば、どちらも世界一の美女なんだけどね……」
キャサリンの言葉に、父ヘンリーが苦笑する。
いつもそうだ。父はやんわりふんわりと笑いながら、どんな無理難題もすり抜けていくタチである。
だが今日は誤魔化されない。
キャサリンはぶんぶんと首を振り、父そっくりな金の髪を一束掴んで、目の前に突き出してみせる。
「こんな色の真珠がありまして? 真珠というのは、お母様のような髪の色を言うのですわ!」
「わかった、わかった。そうだキャシー、今時間はある?」
「ありますけれど」
「父様と一緒に薔薇を見に行かないかい?」
――薔薇?
キャサリンは首をかしげつつも頷く。うまく話をそらされた気がするが、父に花を見に行こうと誘われたことの方が興味を引いた。
キャサリンは父に従い、共に庭に出る。
「お父様は薔薇がお好きですよね」
「うん。ほら、おいで」
「お城の外に行くのですか!?」
馬車を目にし、キャサリンは目を輝かせる。
立場上、自由な外出なんて滅多に許されないキャサリンの胸がわくわくと弾んだ。
「そうだよ、僕の可愛いお姫様」
父が優しい笑みを浮かべる。
「嬉しい」
率直な感想を述べると、父が大きな手でキャサリンの頭を撫でてくれた。
「君は毎日勉強も慈善活動も頑張っているからね。母様に似て真面目でいい子だ。だから、たまには息抜きをしようか?」
「お母様に似てる……? 私が……?」
キャサリンは目をみはった。
この世に存在する中で、最も嬉しい褒め言葉だ。
顔があまり似ていない自覚がある分、父に『母様に似ている』と言われると天にも舞い上がる気持ちになる。
「本当に君は、赤ちゃんの頃から母様が大好きだね」
「はい、大好きです!」
キャサリンの答えに、父がぷっと吹き出した。
「君は母様のお腹にいるときもなかなか生まれてこなくてね、そんなに母様のお腹が好きかと心配したものだよ」
そう言うと、父はさらに楽しげに笑うのだった。
しばらく馬車に揺られて連れて行かれたのは、生花市場だった。
――うわぁ、いい香り! この市場ごと買い占めて、お部屋を飾ってしまいたいくらい!
目立つ父を見つけるなり、公国民たちが嬉しそうに声をかけてくる。
「ヘンリー閣下!」
「ごきげんよう、閣下!」
「今日はアマーリエ様になにを贈るんですか?」
どうやら父は、生花市場の常連のようだ。
笑顔で彼らに声をかけた父は、キョロキョロしているキャサリンの肩を抱いた。
「こっちだよ、おいで」
「なにを見るの? お母様に花を贈るんですか?」
「そうだよ、ほら……この店だ」
父が指さした屋台を見て、キャサリンは驚きのあまり歓声を呑み込む。そこに並べられているのは素晴らしい薔薇だった。
花弁の一つ一つが優雅に波打ち、淡いピンクや紫に染まっている。
こんな薔薇は見たことがない。何という美しさだろうか。
「庭に咲いている薔薇と全然違うわ!」
「これらの薔薇は、ファルビューの新しい産業の一つなんだ」
父の声がふと真面目になる。キャサリンは背筋を正し、父の横顔を見上げた。
「鉱物資源の採掘には時間がかかる。それまでの繋ぎに、ファルビューは『ここにしかないもの』を生みだしていかなければならない。この国の冷涼な気候を利用したのが、薔薇の花作りなんだ」
確かに美しい花は、帝国ではとても高い値で取引される。
稀少な薔薇が金塊と引き換えに取引された例もあると聞いている。
これらの夢のように美しい花々は、ファルビューの経済を担う貴重な宝たちなのだ。
――こんなに綺麗な薔薇が、ファルビューで咲くなんて。
キャサリンは頷き、吸い寄せられるように美しい花々に歩み寄る。
「お父様、これらの薔薇には名前があるのですか?」
「さあ。けれどこれらの薔薇はファルビューの希望だからね、いい名前を付けてもらいたいものだけれど」
そう言ったとき、店主が歩み寄ってきて、父とキャサリンに深々と一礼した。
「これは公爵閣下、それから公女様。よろしければこの薔薇に名前を頂戴できませんか?」
店主が、まるでドレスのフリルのような白い薔薇を差し出す。父はそれを受け取り、香りを楽しんで目を細めた。
「香りも素晴らしいね。人の名前でもいいのかい?」
「もちろんでございます!」
「では、たとえば僕の妻の名前なんかはどう?」
「大賛成ですわ!!」
思わず大声を上げたキャサリンを、父と店主が驚いたように振り返った。
キャサリンは真っ赤になり、慌てて「ごめんあそばせ」と呟いて誤魔化す。
「娘もああ言っているし、君さえよければ『アマーリエ』と名付けさせてくれるかな?」
「なんと……! 嬉しゅうございます、アマーリエ様のお名前を、他ならぬヘンリー閣下より賜るとは」
――そうでしょ? そうでしょ? お母様の名前をもらえるなんて世界一の名誉よねっ。
キャサリンは笑みを噛み殺す。
そう言うと、店主はもう一本、ピンク色の薔薇を差し出してきて言った。
「もしよろしければ、こちらの薔薇にはキャサリン公女様のお名前を……」
「アマーリエ二世にしてください」
キャサリンは即答えた。
「えっ? 君の名前でなくていいの?」
父が驚いたように尋ねてくる。キャサリンは深々と頷き、店主に笑顔で言った。
「はい、アマーリエ二世にしてください」
「と言うわけで、こちらが白く麗しきアマーリエ、そしてこちらが可憐な桃色のアマーリエ二世だ」
ヘンリーはそう言いながら、最愛の妻アマーリエの手に二輪の薔薇を手渡した。
「高値がつきそう。これなら世界の花相場でも十分に戦えるわね」
いかにも妻らしい答えに、ヘンリーは微笑む。
三男一女の母となっても、アマーリエは変わらずに輝くように美しい。
「でもどうして両方私の名前なのかしら」
「ああ、それはね、キャシーが両方君の名前にしてくれって言い張ったんだよ」
ヘンリーの答えに、アマーリエが吹き出す。
「またなの? あの子ったら……どうして私のことばかりなのかしら? せっかく世界でいちばん可愛く産んだのに」
「君たち、そっくりだよね」
「私とキャシーが? いいえ、キャシーは貴方そっくりよ? 私と違って可愛くて明るくて愛嬌があるわ。親の私が言うのもなんだけれど陽だまりの天使みたい。私には似ていないわよ」
「だから、そういうところがそっくりなんだって」
「そうかしら?」
「そうとも」
ヘンリーはアマーリエの頬に口づけ、背に流した銀の髪を優しく梳いた。
アマーリエと夫婦になって二十年近く経つ。
その間に子供は四人になり、幸せは増えていく一方だ。
やんちゃな子供たちに振り回され、本気で怒ることもある。
生真面目なアマーリエとは政策のことで喧嘩になることもある。
けれど、ヘンリーは幸せだった。
「ありがとう、アマーリエ」
「え? お礼を言うのは、こんなに素晴らしい薔薇をもらった私のほうよ?」
アマーリエが不思議そうに首をかしげる。
「そうじゃない。たまには君の存在そのものにお礼を言いたくなるのさ」
ヘンリーの言葉に、アマーリエが軽やかな笑い声を上げる。
「嬉しいわ、ヘンリー、私のほうこそありがとう」
そう告げたアマーリエの青い目にも、間違いなく、幸せの光がいっぱいに湛えられているのだった。