ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

どんなしきたりにだって始まりはある

 ファルクとリーシャ夫婦はなんやかんやあって幸せに暮らしている。
 ファルクの仕事も順調だし、息子のサミュエルの成長も順調。
 ドローガ村のネス栽培も――隣国から少しチクチクと文句を言われたくらいで大きな問題にはなっていない。
 実家とはほぼ没交渉だが、そのぶん義実家とは頻繁に行き来がある。
 今日も遊びに来ていた義両親と離れたくないと泣いたサミュエルが、本邸にお泊りに行っているくらいだ。
「サミュエルはもう寝たのか?」
 帰宅して頬にリーシャからのキスを受けたファルクが、愛息子の出迎えがないことを残念そうにするので本邸にいると説明する。
「また夜中に泣いて送られてくるのではないか?」
「それを含めて、お義父様とお義母様とツェヴィーは楽しんでくださっているみたいです」
 この頃のサミュエルは自立心が育ってきているのか、はたまた親離れの兆候なのかリーシャやファルクと離れて行動したがる。
 本邸へのお泊りもその一環なのだが、先日も『やっぱりとと様とかか様がいい~!』とギャン泣きして真夜中に馬車で送られてきたのが記憶に新しい。
「ええ、サミュエル曰く『こんどはぜったいだいじょうぶ!』だそうですよ」
 そのときのことを思い出したのか、リーシャは口元に手を当てて笑う。
 幸せそうな妻の顔を見るたびに『仕事に行きたくない、ずっと二人を側で見守っていたい』と叫びたくなるのを、ファルクは鉄の意志で我慢していた。
 穏やかだが少し寂しくもある晩餐を終え、リーシャがソファで読書をしてゆっくりとした時間を過ごしていると、ファルクが必要以上に近くに腰かけた。
 腿が触れ合うくらい近くで、リーシャはそこにファルクの意図があると理解してそわっと身動ぎをした。
(これは、夜のお誘いかも……)
 ここ最近タイミングが合わずしていなかったし、サミュエルが不在で夜中に『一緒に寝たい』と突撃されることもないと思われる今夜は絶好のチャンスだ。
 リーシャは誘われたらどんな言葉を返そうか、頭の中で考え始めた。
 ちょっと捻ったことを言って焦らしてみようか、それとも情熱的な返事をしてファルクを驚かせてみようか。
 考えただけでリーシャはドキドキしてしまう。
 しかしそんな妻の思惑を、ファルクは軽く上回っていく。
 無言のまま腕の力だけでリーシャを持ち上げると、自分の膝に乗せたのだ。
「きゃあ!」
 結構大きな悲鳴が上がってしまったが、それを聞いてアレッタやサウルが駆けつけることはない。
 彼らはリーシャよりもずっとファルクの心中を察する能力が高いのだ。
「ど、どうしたのですか急に」
 ドキドキと高鳴る胸を押さえて尋ねると、ファルクはリーシャの頬やこめかみにキスを贈る。
「ふふ、君の初心な様子を見ていたら、なんだか結婚当初に戻ったような気持になったのだ」
 リーシャには実感が湧かなかったが、ファルクからしたら手を出してほしいオーラが出ていたらしい。
 まさかそんなと否定はしたものの、実際そうだったのでリーシャはもごもごと口籠る。
「だって……こんなのは久しぶりなんですもの」
 愛するサミュエルを邪魔者扱いする気は毛ほどもないが、それでも乱入の危険があるとなればいろいろと気を遣うのは仕方がない。
 それもありここ最近は自然と抑えめの行為になってしまっていた。
「んっふふ……。ならば期待に応えねばなるまいなあ」
 ファルクはやる気に満ちた声で囁くと、リーシャの頤を軽く上向かせ唇を重ねた。
 すぐに舌が入り込んできたため、それに応えようとリーシャも自らの舌で迎えにいく。
 すっかり馴染んだ口付けだが、いつになってもリーシャは胸がときめかずにいられない。
 ファルクの舌は口に似合いで大きく厚さもあり、迎え入れるとリーシャの口の中がいっぱいになってしまうのだが、歯列から口蓋から丁寧に舐る繊細さをも併せ持っている。
 最初はそうでもなかったが、今では口の中だけで感じるように『躾けられて』しまった。
「ふぁ、はぁ……ん……っ、ファルク……っ」
 舌先を吸われ甘噛みされると、快感が背骨を駆け上がってくるのがわかる。
 いつの間にか正面から向かい合い、貪るように口付けに夢中になっていたリーシャは尻たぶを揉まれ腰を戦慄かせた。
 数年の間に幾分遠慮のなくなった手つきはいやらしく、すぐに後ろから蜜にまみれたあわいの肉襞をくすぐってくる。
「んあ、あっ、やぁ……っ」
「嫌じゃないだろう? こんなにトロトロじゃないか」
 耳に吹き込むように低い声で鼓膜を震わされると、それだけで達してしまいそうになるのを感じて、リーシャは蜜洞をキュッと締める。
 しかしファルクの長い指がぬくりと侵入してきてリーシャの抵抗はあっさりと霧散してしまう。
「あ、あぁん……っ、待って、ここじゃ……いや」
 やはりベッド以外で愛し合うことに抵抗があるリーシャはありったけの力でファルクの胸を押す。
「君は本当に奥ゆかしいな。まあ、そんなところも好きなのだが」
 ファルクは名残惜しそうに唇に吸い付くと、リーシャを抱いたままサッと立ち上がりベッドへ向かう。
 それ以上はリーシャも抵抗せず、首に腕を回して大人しくしている。
(本当に奥ゆかしいのだったら、こんなことしないと思うけれど……)
 自分も大概はしたないとこっそり顔を赤らめるリーシャなのだった。

 思う存分愛し合った翌朝、怠い身体に鞭打ってなんとかファルクを仕事に送り出すことに成功したリーシャは、ヨボっとなった自分に落ち込んでいた。
「もっと身体を鍛えたほうがいいかしら……このままではカルカヤ家のしきたりを務められないかもしれないもの」
 ファルクのようになるのは無理だが、最低でも朝にもうちょっと余裕をもって起きられるように体力をつけたい。
 ファルクはさすが現役の騎士団長ということもあり、リーシャが泥のように眠っているうちから起き出して、朝の鍛錬でひと汗流してから朝食をとっている。
 リーシャはもし夫の頬にキスをして送り出すというカルカヤ家のしきたりがなければ起きられなかったかもしれないことを思うとため息しか出てこない。
「奥様、そのしきたりは……」
 サウルが遠慮がちに声をかけた声に反応して振り返る。
「もちろんファルク様のお見送りとお出迎えのことよ」
 来たばかりのときに教えてもらった、と頬を人差し指で示しながら言うと老執事は視線を彷徨わせた。
「……え、なに?」
 今度はリーシャが訝しげに眉を顰める番だった。
 わざとらしく咳払いをして誤魔化そうとしているサウルの袖を掴んでじっと見つめると、老執事は申し訳なさそうに項垂れた。
「申し訳ありません。実はあれはカルカヤ家のしきたりではなく、旦那様の思いつきで……」
「えっ」
 大きく見開かれたすみれ色の瞳が零れ落ちそうになる。
「大旦那様と大奥様も仲がよろしいのでお見送りの際に頬に口付けをすることはございましたが、厳密に侯爵家のしきたりとして存在しているわけではないのです」
「は、はあ……!? そうなの?」
 思いもよらない告白にリーシャは淑女にあるまじき大声が出てしまったが、それにすら気づかないくらいに驚いた。
 年単位で実行していた自分が信じられないと呆然とするリーシャに、サウルが深々と頭を下げる。
「結果的に騙すことになってしまい、申し訳ありませんでした」
 執事の真摯な謝罪に、リーシャは我に返る。
 サウルの声のトーンは『責任を取って職を辞する』と言い出しかねないくらいに深刻だったのだ。
「そんなに気に病まないで! わたしも嘘に気づかないくらい鈍かったのだから」
 それに仲がいい夫婦の関係性を知らないまま大人になったリーシャには疑う余地がなかったことも原因だった。
 こんなことで怒ったりしないから頭をあげてくれと頼むと、老執事はようやく頭をあげた。
「ですが揶揄うためについた嘘ではありません。あの当時から旦那様は間違いなく奥様に惹かれておいででした。どうにか接点を作り早く仲良くなりたいという思いがそうさせたのだと思います」
 わかってほしいと言葉を重ねるサウルに、リーシャは口元を綻ばせる。
「大丈夫よ、もともと騙されたなんで思っていないから。ただ、ちょっと恥ずかしかったのよ」
 頬を染めて視線を逸らすリーシャは、まるで少女のように唇を尖らせた。
「だって、わたしがあんなにお見送りやお出迎えのたびにドキドキしていたのに、ファルク様は不慣れで必死なわたしを見てニヤニヤしていたってことでしょう?」
 リーシャの指摘にサウルはギョッと目を見開いて、それからプルプルと震える。
 そして耐え切れずに吹き出してしまう。
「ふっ、はははは! た、確かに旦那様はこれ以上ないほどにニヤニヤしておいででした……っ、ははは!」
 サウルがここまで声をあげて笑うのを初めて目にしたリーシャは一瞬だけ驚いたように瞬きをして、そして一緒になって笑う。
「ふふふ! あぁ、おかしい。でも、やはりなんだか悔しいわね。サウル、旦那様に一泡吹かせたいのだけれど、協力してくれるかしら?」
 いたずらっぽく瞳を煌めかせたリーシャに、老執事は胸に手を当ててゆっくりと微笑む。
「お任せください。旦那様のことならばこのサウルが誰よりも承知しておりますれば」
 慇懃に腰を折るサウルが、とても楽しそうなのを見たリーシャはまた大いに笑うのだった。
 のちにもっとも信頼する二人からいたずらを仕掛けられて、ファルクが腰を抜かすほど驚くのだが、それはまた別の話である。

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