オークション
オリヴィアにとって、オークションは苦い思い出に繋がっている。
そして同時に仄かな甘酸っぱさも込み上げるので、複雑な心地がした。
何故なら自身も他人によって値踏みされ、こちらの気持ちは一切斟酌されず、モノ同然に競り落とされそうになった経験があるからだ。
せめて見えないところで話し合われるならまだしも、まさか目の前でよく知りもしない相手から勝手に『所有権』を争われるとは夢にも思わなかった。
しかしそんな最悪の出来事が、夫であるローレンスとの出会いの場でもあるので、運命とはとことん奇妙なものだ。
人生のどん底で死をも覚悟したのに、捨てる神あれば拾う神あり。
あわや結婚式当日に未亡人になりかけ、親族の男たちに買われそうになっていたところ怒涛の勢いでオリヴィアはローレンスに嫁ぐことになり、現在は幸せなのだから先々のことは誰にも分からないと言えるのではないか。
――昔の私に説明しても、きっと信じやしないでしょうね。
祖父と同年代の相手に嫁ぐと決め、自分の幸せなんて諦めていた。
最低よりちょっぴり上なら妥協できると腹を括っていたのだ。我ながら肝が据わっていたと思う。
だがそれだけ当時のオリヴィアに選択肢はなかったし、贅沢を言える身の上でもなかった。
たとえるなら、泥沼。溺死しないため、がむしゃらにもがいていたのと同じだ。
――色々あったけど、それが今はこんなに幸福なんて奇跡よね。
追憶に浸っていたオリヴィアは、競売人がハンマーを叩く音で我に返った。
どうやら一枚の絵が落札されたらしい。
「――ダリントン伯爵が落としましたね。流石お目が高い。あの画家の作品はこれからもっと価値が上がると思います」
隣に座ったローレンスがオリヴィアの耳元で囁く。吐息が微かにこそばゆい。
オリヴィアは首を竦めそうになるのを堪え、横目で彼を窺った。
「ローレンス様は競売に参加なさらなくてよかったのですか?」
利に敏い彼であれば、今後価値が上昇すると分かっているなら、当然競り合って入手しそうなものである。
にも拘らず、全くそんな様子がなかったので、オリヴィアは不思議だった。
今日、二人はとあるオークション会場にやってきている。
事業を大成功させた富豪が亡くなり、彼の遺品が出品されるという情報を耳にしたためだ。
どうやら遺産を相続した遺族は、美術品にはさほど興味関心がなかったらしい。一切合切金に換えてしまおうと、威勢よく手放すそうだ。
「投機目的なら悪くありませんが……ああいったものは芸術を愛する者の手元へ行くべきです。残念ながら僕はあまり美術品の造詣が深くない。その点ダリントン伯爵なら大切になさるでしょう。せっかくの作品がしまい込まれては可哀相です」
別に商売目的で絵画を売り買いするのを悪いとは思わないが、オリヴィアは夫の言葉に胸が温かくなった。
口には出さないものの、自分も同じ気持ちだ。
芸需品は人の目に触れ真価を発揮する。見た者の心を動かしてこそ意味がある。厳重に梱包され安置されたままでは、あまりにも寂しいと感じていた。
「そうですね。ローレンス様のおっしゃる通りです。ですがそれなら、何故このオークションに参加されたのですか?」
先ほどの絵画で、本日の出品はほぼ終わりのはずだ。これまで彼は一度も競りに加わろうとはしていなかった。
出品されたものを別の誰かが落札するのを、じっと見守っていたようなもの。それはそれで多忙な夫とゆっくり過ごす時間が持て、オリヴィアは嬉しかったのだが――
「次の商品が目当てだからです」
「次の?」
「さぁさぁ、それでは本日最後の品です。皆様どうぞご期待ください!」
オリヴィアがローレンスの言葉をオウム返しにしたのと同時に、競売人の声が会場内へ響き渡った。
その声に釣られて視線を前に戻せば、壇上で掲げられていたのは大粒のエメラルドがあしらわれた首飾り。
周囲から「おぉ……」と感嘆の声が漏れる。オリヴィアも数秒目が惹きつけられた。
それほど見事で、最上級と思しきエメラルドだ。
深い緑色は透明感があり、それでいて内放物はほぼ見えない。圧倒的な照りと輝きは、さほど宝石に詳しくないオリヴィアをも魅了した。
離れた席からこれほど素晴らしさが感じられるなら、いざ手に取ったらどれほどの一品なのか。
更に繊細な細工も見事で、さぞや名のある職人によって仕立てられたに違いない。
知らず、オリヴィアは喉を震わせた。
「とても素晴らしい首飾りですね……あれほどのもの、滅多に出回ることもないのではありませんか? 王家の宝物庫にあってもおかしくありません」
「はい。今回、僕が落札したいのはあれです。貴女の瞳の色と似ていて、オリヴィア様に絶対似合います。出産祝いとして贈らせてください」
「はい?」
よもや自分へのプレゼントだとは思わなかった。
そもそも出産したのは、もう一年前だ。その際にあれこれ沢山の贈り物を既に受け取っている。
今日は赤子を乳母に預け、久し振りに夫婦水入らずの逢瀬を楽しんでいたところで、高価な買い物をする予定は一切なかった。
「え、あんなにすごいものは……」
オリヴィアは慌ててローレンスを止めようとしたが、時すでに遅し。彼が軽く手を上げたことで、みるみる値段がつり上がってゆく。
他にも落札希望者が数人いるようで、天井知らずに価格が更新される。オリヴィアの血の気が引くまでに時間はかからなかった。
「ちょ、あの、ローレンス様、無理はしないでください……!」
「心外ですね。この程度で我が家の財政が揺らぐとでも?」
「そうではありませんが、首飾り一つに出す金額ではありません!」
いくらこの機を逃せば二度と入手できない品だとしても、適正価格とは到底思えない値段まで急上昇してゆく。
オリヴィアがはらはらしつつ周りを見れば、いつの間にやら夫ともう一人の一騎打ちとなっていて、オークション参加者らは興味津々の視線を向けてきていた。
――こんな金額、王都で小さな中古の一軒家を手に入れられるわよ……!
欠片も躊躇う様子はなく、彼は平然とした顔で再び片手を上げる。すると負けじとライバルも高く手を掲げた。
――瞬く間に中程度のお屋敷が手に入る価格に……!
もはや静観はしていられない。オリヴィアはどうにかローレンスを制止するため、彼の腿を数度叩いた。
「お、お気持ちだけで結構です」
「遠慮しないでください。あれはオリヴィア様にこそ相応しい」
むしろ自分の方があのエメラルドを身に着けるには、足りていない。分不相応なのを示したくて首を左右に振ったが、ローレンスは艶やかに微笑んだだけだった。
「貴女以外、誰が極上の品をつけこなせますか?」
「他に似合う方は大勢いらっしゃいますよ!」
謙遜ではなく、本気で思う。
自分より遥かに高貴で美貌を誇る女性にこそ相応しいとしか思えなかった。
が、オリヴィアの懸命な説得虚しく、夫は際限なく上がってゆく金額に怯む様子がまるでない。
逆に、競っていた相手の顔が次第に険しくなり、最終的には沈黙した。
その瞬間、間髪入れずにハンマーが打ち鳴らされる。つまり、ローレンスが落札したのだ。
拍手が起こったのは、感嘆なのか祝福なのか。それとも呆れ混じりかは分からない。だが妙などよめきと共にオークションは終了した。
――さ、最終価格がとんでもないことになっているわ……!
もはや拘り抜いた巨大な屋敷を一棟新しく建築できるほどである。
オリヴィアは意識が遠退きかけたものの、直後に彼が「想定よりお得に入手出来てよかったです」と宣ったものだから、双眸を見開いた。
「はいい?」
「予算より浮いた分、帰りに何か別のものもオリヴィア様にプレゼントしましょう」
「いいえ、もう充分です!」
これ以上なんて考えると空恐ろしくなる。
贅沢に全く慣れないオリヴィアは、散財するのもされるのも未だに苦手だった。
「そうですか? これは息子が生まれ、無事一歳になった祝いでもあるのですが」
「でしたら、あの子のものをお願いします」
「命を懸けて我が子を産んでくれた妻に、僕としては最大限の感謝を示したいんです」
そういうことなら、既に抱えきれないくらい色々な贈り物を受け取っている。使っていないものも多数あった。
「ローレンス様のお気持ちは嬉しいですが、無駄遣いは心臓に悪いです」
「無駄ではありませんよ。必要経費です。夫が妻に貢ぐのは、当たり前のことですから。――さて、正式な契約を結ぶために行きましょう」
彼に促され、立ち上がる。そこへオークショニアがやってきて、オリヴィアとローレンスは別室へ案内された。
室内は重厚感溢れる内装で、安っぽさは微塵もない。流石は最高級品だけを扱う格式高いオークションの主催者だ。金に糸目はつけないということなのだろう。
顧客の大半が高位貴族というのも頷ける。
恰幅のいい紳士が深々と頭を下げ、こちらに着席を勧めてきた。
「この度は落札ありがとうございます、ローレンス・マイヤー様。こちらの品でお間違いありませんね?」
改めて間近で目にするエメラルドの首飾りは、あまりにも煌びやかで目がチカチカするほどだ。
接近するのも躊躇うオリヴィアの隣で、夫は悠然と頷いた。しかもあろうことか首飾りを手にして、こちらの背後に回るではないか。
「ローレンス様……っ?」
「うん。思い描いたよりもずっと似合う。やはりこれはオリヴィア様のために作られた品ですね」
「奥様、とてもお綺麗です!」
夫と主催者に褒められ鏡を差し出されたが、オリヴィアは内心それどころではなかった。
首にかけられた重みとひんやりとした質感に意識の大半が奪われる。
下手に動いて壊れでもしたら大変だ。何せ今自分は、立派な邸宅を首に装着しているようなものである。
これまでローレンスからは高価なものを数え切れないほど贈られたが、本日のエメラルドは桁違いだった。
「ああ、いいですね。脇石のサファイアが、よりエメラルドを引き立てている。まるで貴女と僕そのものじゃありませんか?」
碧眼である彼がサファイアだと言いたいのだろう。しかし普段はどう考えてもオリヴィアが彼の引き立て役だ。
常軌を逸した美貌を誇るローレンスが主役に相応しく、自分はその他大勢の脇役でしかない。少なくともオリヴィアはそう思っている。だから彼の言葉に頷けず、曖昧に頬を引き攣らせることしかできなかった。
けれどそれでも。
「ね? 寄り添い合う僕らそっくりに見えませんか?」
鏡越しにローレンスが微笑みかけてきて、視線が合った。
彼は心底満足げにオリヴィアを見つめてくる。その瞳には、駄々洩れの愛情が溢れていた。
「ずっと傍にいられるみたいで、嬉しいな」
「ローレンス様……」
正直なところオリヴィアは、豪華絢爛で華やかな首飾りが自分に似合っているとは、おこがましくて思えなかった。どうにも身の丈に合っていない。
おそらくエメラルドに負けることなく完璧につけこなせる淑女はもっと他にいる。
だとしても、愛する夫がこの上なく満たされた声で「似合っている」と囁きかけてくるなら、オリヴィアは否定などできるわけがなかった。
それより、本当に似合う自分でありたいと願う。
彼のために――己を磨き胸を張って隣に立てるよう、努力しようと心に誓った。
これは、ローレンスからオリヴィアに対する愛情でもあるのだから。ならばこちらも全力で応えたい。
愛する人の好意を無下にせず、きちんと受け止め、同じかそれ以上を返せるように。
「……ありがとうございます。大切にします」
「ええ。しまいこまず、頻繁に身に着けてくれたら嬉しいです」
「はい、そうします」
オリヴィアが晴れやかな笑顔になれば、彼は眼差しを細めた。言葉より雄弁に慈しみが伝わってくる。
背後に立つローレンスの体温が心地よく、オリヴィアは首を巡らせ彼と直接視線を絡めた。
背中側から抱き寄せられて、近距離で見つめ合う形になる。もう子どもがいる夫婦だというのに、ローレンスはいつだってオリヴィアを大事にしてくれ、ときめかせてくれた。
恋人の期間がないまま結婚してしまったのを、気にしてくれているのかもしれない。
出会ったその日が結婚式で、それまでは互いの名前は勿論存在自体よく知らなかったなんて、政略結婚が当然の貴族であっても珍しい話だ。
――だけどそんな素っ頓狂な始まりでも、幸せにはなれるのね。
諦めずより良い方向へ人生が進むよう頑張った結果か。それとも奇跡か。
オリヴィアには分からないが、一つだけ確かなことがある。それは相手がローレンスでなかったら、今の幸せには辿り着けなかったということだ。
仮にどれだけオリヴィアが努力して足掻いたとしても――ヴィッツを含めた他の誰かが夫だったら、満ち足りた気持ちで我が子を腕に抱くことはなかったと思う。
もっと打算塗れで追い詰められていたに決まっている。
愛や恋だなんてくだらないと馬鹿にしたまま、心を閉ざしてただ生きていたに違いない。
「愛しています、ローレンス様」
「僕もです。貴女のためなら何でもできます」
幸福感を噛み締める。
オークションの主催者が控えめな咳払いをするまで、オリヴィアたちは二人の世界に浸ってしまった。

