ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

ある日、街の片隅で密かに

 それはアルバーノが父に代わり、ファルコーネ家の家業を任されるようになってから二年ほど経過した頃――。
 王都フィオレティに滞在中、アルバーノはあるカフェに足を運んでいた。
 コーヒーの味が評判だったからではない。目的があり、市場へ向かう通りに面したテラス席で、帽子を被ったまま行き交う人々を眺めていた。
「アルバーノ坊ちゃん。ベルニのお嬢さんがメイドを連れて屋敷を出ました」
 古参の幹部であるジャックが、さりげなく席に座りそう報告してくる。
「そうか……」
 アルバーノはここで、ルーチェ・ベルニが前を通りかかるのを待っていた。
 女学校を短期間で自主退学したルーチェは、去年からベルニ家の屋敷に戻り生活している。
 彼女の父親から接触を禁じられているアルバーノだが、継続してベルニ家と彼女の動向は確認していた。
 最近のルーチェは使用人がどんどん減っている状況から、必要なものを自ら市場に買いに来ているらしい。毎週だいたい同じ曜日の、同じ時間に……。
 それを知って、つい出会えそうな場所に出向いてしまった。それが今、アルバーノがここにいる理由だ。
(ああ、馬鹿らしい……)
 アルバーノはそれほど暇ではない。なのに、自分という存在に気づかず、ただ店の前を通り過ぎるだけの彼女の姿を見るためだけに時間を割く意味があるのか?
 しかしルーチェはせっかくできただろう友人と別れ、没落した実家に戻ることとなった身。ショックを受けて落ち込んでいるかもしれないし、すっかり荒んでいる父親との関係も気になっていた。
 そしてアルバーノ自身はここしばらくラトリドにいたから、彼女が変わりはないか、元気でやっているかを確認したかったのだ。
 新聞を広げ読んでいるフリをしながら通りの観察を続ける。彼女はなかなか現れない。
 徒歩で向かってきているはずだが、ベルニ邸からここまでの距離を考えても、とっくに辿り着いていてもいいはずだった。
(……なにかあったのか?)
 フィオレティは比較的治安のいい場所だが、それでも若い女性であるルーチェにとっては安全とは言えない。店を出て様子を見に行こうか悩んでいると、ようやく彼女は現れた。しかし――。
「なんだ、あれは?」
 把握しているいつものメイド以外に、もう一人……別の人物が彼女と一緒にいる。
 ルーチェと手を繋ぎながら歩いているのは、五、六歳くらいの見知らぬ少年だ。
「屋敷を出たときはいませんでした」
 ジャックがそんな報告をしてきたあたりで、アルバーノはなにが起きたのか概ね把握することができた。
「迷子か……」
「どうやらそのようで」
 ちょうど少年の母親らしき女がやってきて、ルーチェにお礼を伝えている。そして自分の母を見つけた少年は、ルーチェの手から離れ、嬉しそうに母親のもとに戻っていった。
 少年の母親を探しながら歩いてきたから、時間がかかってしまったということなのだろう。
(相変わらずのお人好しだな)
 子どもを使ったスリだっているのに、ルーチェは少しも疑わない。昔からそういう人だった。
 彼女は迷子の少年と別れたあと、今度はやってきた花売りの少女から、小さな花束を買っていた。
 おそらくアルバーノが今飲んでいるコーヒー一杯とそれほど変わらない金額だが、貧乏なくせにと呆れてしまう。
 小さな花束を嬉しそうに持ったルーチェは、その陽気な感情が伝わってくるほど軽い足取りで歩き出す。見ていると、どうしても惹きつけられてしまう立ち振る舞いだ。
 もし彼女がもう少し先まで行っていたら、アルバーノは次に起きた出来事を見過ごすことができただろう。しかし姿を見失う前に、彼女はまた小さな騒動に巻き込まれてしまう。
 若い男が彼女に近づいてきたのだ。
「どうして、あいつはいつもあんなにも無防備でいられるんだ……」
 アルバーノは、ため息とともに吐き出した。これは独り言のつもりだったが、律儀なジャンがわざわざ答えをくれる。
「危険があるとわからないのは、痛い目にあっていないからですよ」
 言い分はわかるが、一度痛い目にあうべきという主張にも思え、年上の部下をギロリと睨んだ。
「言い方が悪かったようで……申し訳ねえ」
「いや、別にいい……」
 素っ気なくいいながら、アルバーノは紙幣をテーブルに置いて席を立った。ジャンに会計を任せたのだ。
 通りでは、ルーチェと彼女に声をかけた男とのやりとりが続いている。ルーチェは動じていなかったが、付き添いのメイドが止めに入ろうとしているところを見る限り、しつこくされているのだろう。
「いいじゃないか! 名前くらい教えてくれたって。俺はそんな雑草みたいな花じゃなく、もっと大きくて美しい花を贈るよ」
「いりません。私はこの花束が気に入ったんです」
「じゃあ、美味しいレストランに連れていってあげよう」
「それも結構です」
「アクセサリーはどうだい。その美しい髪に似合う飾りを……」
 男は、背後に立つアルバーノの存在に気づいて声を止める。
 アルバーノは、男がさりげなくルーチェの髪に触れようとしていたことが許せなかった。
 その気持ちを込めて、じっと睨みつける。
「いや、やっぱりやめておくよ……ははっ。用事を思い出した」
 ルーチェに近づいたことは不愉快だったが、空気の読める男だったらしい。アルバーノの無言の睨みで危険を察し、さっさと退散していく。
 一方、ルーチェとそのメイドはどこまでも脳天気で、アルバーノの存在には気づかなかった。
「もう! 軟派な男なんて迷惑ですね、お嬢様」
「でも、わかってくれたみたいでよかったわ」
「やはりお嬢様はあまり出歩かないほうがよさそうですねぇ」
「ビアンカ一人には任せられないわよ。お屋敷の近くに、安く食材を売ってくれる商店があればよかったのに」
 二人の会話を盗み聞いていたアルバーノは、ピクッと反応する。
(そうか……商店か)
 やってできないことはない。
 いっそのこと、格安でベルニ家にものを売る行商人を出入りさせればいいのだ。
 アルバーノは、ベルニ家に対して裏からできる新たな監視と支援を思いつき、ひそかにほくそ笑む。
 ルーチェとメイドは、そのまま市場のほうへ歩き出した。
 そのとき強い風が吹き、ルーチェが持っていた小さなブーケから一輪だけ小さな花が舞い落ちる。
 目の前に落ちたその花を、アルバーノは拾い上げた。
 帽子を深く被っておけば、花が落ちたと一声かけるくらいはできるかもしれない。ルーチェは、少なくともアルバーノの声を知らない。出会ったときと髪色も違っているから、気づくことはないだろう。
(いや、ここまでだ)
 リスクは冒せない。
 自分が彼女の前に姿を見せたら、ベルニ子爵がなにをするかわからない。今のアルバーノには黙って見送ることしかできなかった。
「坊ちゃん……あの男はどうします?」
 カフェでの会計を済ませ、やってきたジャンがそう声をかけてくる。
「放っておけ。今後のことは別の対策を考えた。お前は念のため、今日屋敷に帰るまでのあいだに危険がないか見張っておいてくれ」
「わかりやした」
 どう考えても育ちのよいお嬢さんが、徒歩で街をフラフラと歩いていたら、目に付くに決まっている。
 彼女に声をかけた男をいちいち始末していたら、きりがない。
(ああ……イライラする)
 一人で川辺まできて、アルバーノは花を流れていく水に投げ入れた。
 このイライラは、自分の行動に対してのものだった。
 花なんて拾ってもなににもならない。今の自分は、あの通りすがりの男以下だった。ルーチェに声をかけることすらできないのだから。
 いい加減、この不毛な感情を捨てたい。
 それでも久々に一目彼女を見てしまったら、無理だとわかった。
 少女から大人の女性へと変貌していっている彼女は美しかった。
 アルバーノには、ルーチェ・ベルニだけが輝いて見えてしまうのだから、重傷だ。

   §

 それから六年――。
 結婚していろいろなことが片づいたあとの、とある日。
 アルバーノはファルコーネ家がラトリドで経営する、海辺のホテルにいた。
 この街は最近、外からやってくる人間が増えている。これはもちろん、ファルコーネ家が観光産業を活性化させたためだが、少なからず困ることもある。
 生粋のラトリド市民であれば、一般人でもルーチェ・ファルコーネの顔を知らぬ者はいないが、観光客はそうはいかない。
 支配人と仕事の話をするためにルーチェを待たせていた少しの時間に、不愉快な出来事が起きていた。
 ラウンジのオープンテラスの席に座っていたルーチェに、観光客らしき男が声をかけていたのだ。
「――誰だ、貴様は?」
 ルーチェの座っていた席の背後に立ち、無作法な男に淡々と告げた。
「いっ、いや……ただ私は道を聞きたくて」
 突然現れたアルバーノを前に、男はもごもごと言い訳をしながら逃げていく。
「もう、アルバーノったら。外の人を睨んだらだめよ。ラトリドに来てくれなくなっちゃうかもしれないじゃない。ホテルが倒産したらどうするの?」
「人の妻に声をかける奴が悪い」
「どうやって人の妻かどうか判断するのよ? 『私はアルバーノ・ファルコーネの妻です』と名札をつけておけばいいの?」
「それも悪くないな」
 ファルコーネ家の人間の顔を知らずとも、その悪名は知っているだろう。服に刺繍でもしておけば、効果があるかもしれない。
「冗談で言ったの! 子どもじゃないんだから名札なんて恥ずかしくて絶対に嫌。だいたいさっきの人は、ただ道を尋ねてきただけなんだから」
「ああ……お前、重症だな」
 アルバーノは、ルーチェに向かいに座りながら、呆れを隠さず言った。
「なにが?」
 むっと愛らしく頬を膨らませるこの女性がファルコーネ家の人間であることは、確かに気づきにくい。
 だから本人に自覚を持ってもらうしかなかった。
「一つ重要なことを教えてやる」
 秘密の話をするように、アルバーノはテーブルを挟んでルーチェと顔を近づけた。
「美人なんだよ」
「はい?」
「まあどっちかと言えば、可愛いが正しいのか。……とにかくそろそろ気づけ! 群がってくるハエを払わなきゃならない俺の身にもなるんだな」
 ルーチェはどうも、自分が人目を引く容姿である自覚がないらしい。
 今も、アルバーノの言葉に驚き目を見開いていた。
「本当に重傷だな……」
「だって」
「俺は、これまでもそれなりに伝えてきたはずだが?」
 彼女が着飾ったとき、夜に愛を確かめ合うとき、アルバーノは濁さず伝えてきた。その場では恥ずかしそうに、そして嬉しそうにしているのだが、どうも妻に対する世辞や礼儀と捉えている気はしていた。
 なぜこうなったのかもわかっている。
 まず家が没落して借金まみれだったせいで、社交界には縁がなく言い寄る男性がいなかったこと。
 そして庶民のような生活をする必要ができたときに、なるべく街を歩かず生きていけるよう、アルバーノが根回ししたこと。
 結果としてルーチェには貴族としての出会いも、自然な男女の出会いもなく、閉鎖された世界で生きることとなった。褒めてくれるのは使用人だけで、客観的な目線で賞賛の言葉を受けたことがないのだ。
「お前は本当に、綺麗だ」
 立ち上がったアルバーノは、わからせるためにルーチェの耳元でそう囁いた。直後、ぼっと火がついたように彼女の耳が赤く染まっていく。
「そ、そういうのは二人のときに言って!」
「わかった。じゃあ帰ろうか」
 アルバーノはすっと手を差し伸べる。
 花を買って帰ろうと決めた。大きな花束だ。
 もう昔とは違う。いつでも自由に贈り物をし、抱きしめ、……そうして愛を囁くことができるのだから。

一覧へ戻る