ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

月明かりの図書室で

 ジェイラント・スタンレー侯爵が王都内にあるスタンレー家の屋敷に戻ってきたのは夜半のことだった。
 一週間後に控える隣国の外務大臣の来城にあたって、政務官である彼は準備に多忙な日々を送っていた。もっともどんなに忙しくても結婚したばかりである彼は周囲の協力もあって必ず帰るようにしていたのだが、今日ばかりはとうしても席を外せず、すっかり遅くなってしまった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
 父の代からスタンレー家に仕えている壮年の家令が、こんな時間にもかかわらずいつものようにきっちりした姿でジェイラントを出迎える。その彼にコートを預けながらジェイラントは尋ねた。
「アデリシアは?」
「奥様なら寝室でもうお休みになられているかと思います。旦那様が戻られるまで起きて待っていると仰せだったのですが、無理やりにお休みになっていただきました」
「ありがとう、すまないね」
 遅くなるから先に休ませるようにと言づけたのは他ならぬジェイラントだ。そうでないとアデリシアは彼が帰宅するまで絶対に起きていようとするから。
「いえ。大変かわいらしい奥様で、私たち使用人一同みな微笑ましく思っております」
 どうやらアデリシアは使用人たちとうまくいっているようだ。安堵しながら、ジェイラントは家令を下がらせて、まっすぐ寝室に向かった。ところが――――。
「アデリシア……?」
 夫婦の寝室のベッドの上にも部屋のどこにも彼の愛らしい妻の姿は見えなかった。ジェイラントの顔に苦笑が浮かぶ。
「仕方のない奥様ですね」
 アデリシアがどこにいるのか探すまでもない。本好きな彼女が入り浸る場所など一つしかないのだから。果たして図書室の扉を開けたジェイラントはそこに、本に見入る妻の姿を見つけてやれやれとため息をついた。
 ついひと月前に彼の妻となったアデリシア・マーチン。いや、アデリシア・スタンレー侯爵夫人はナイトドレスにショールを羽織った姿で図書室の窓辺にある椅子に座り、そこから差し込む月明かりとランプの光をたよりに、手にしている本を読みふけっていた。彼女は夢中になるあまり、ジェイラントが部屋の中に入ってきたことにも気づいていない。
 彼はアデリシアが手にしている本の題名に気づいて顔を顰めた。それはスタンレー家の蔵書すべてに目を通した彼にも見た覚えのないタイトルだった。
 ――幼馴染のレナルドか、義兄のランダルか……。
 結婚して以来、あの二人は頻繁に屋敷を訪れてはアデリシアに本を置いていくようになった。彼女が男装して本の買い出しに行くのを、ジェイラントが禁じてしまったからだ。
 だが、あんな無防備な姿を他の男に見せるわけにはいかない。護衛を付けるとしてもだ。自分が一緒に行かない限り、アデリシアの本屋通いは容認できなかった。そして何度かの悶着の末、アデリシアはしぶしぶそれを受け入れた。彼女に避けられていた時期、業を煮やしたジェイラントが、図書館や本屋通いの折にアデリシアを拉致しようと思っていたことを知ったからだった。
 こうして、ジェイラントが一緒でなければ本屋に行けなくなってしまったアデリシアだが、彼はご覧の通りに忙しい。それですっかり新作が読めなくなった彼女の為にとあの二人が代わりに本を買ったり王室図書館の本を持って来たりするようになったのだ。だが、自分で蒔いた種とはいえ、ジェイラントにはそれが多少面白くない。アデリシアの目を本ではなくて自分に向けさせたかった。
 ――あの二人、しばらく出入り禁止にしてやりましょうか?
 と半分本気でそう思いながら、ジェイラントは後ろからアデリシアを抱きしめて言った。
「ベッドで夫を待つより本ですか、アデリシア。相変わらずつれない人だ」
 もちろん、その際彼女の手から本を取り上げることも忘れない。
「ジェイラント様!?」
 アデリシアは驚いて振り返った。その彼女の耳に口を寄せてそっとつぶやく。
「私をなおざりにしたら寝室に閉じ込めると言ったはずです。……それとも閉じ込められたいですか?」
 その言葉に何を感じ取ったのか腕の中のアデリシアが身を震わせた。けれどそれは恐怖や怯えではない。心なしか頬もうっすら赤くなっているようだ。
 それを見て、閉じ込めるのも悪くないと思っていると彼女が反論してきた。
「なおざりにしたんじゃありません! 眠れそうになかったからです……! だ、だって、その、……ジェイラント様が隣にいないんですもの……」
 最後の方はボソボソとつぶやく。その顔は夜目でも分かるほど真っ赤に染まっていた。
 ジェイラントはアデリシアをきゅっと抱きしめた。
 言われてみればジェイラントは結婚後も結婚前もどんなに忙しくとも就寝時には屋敷に戻りアデリシアと夜を共にしていた。間に合わなかったのは今日が初めてだ。そしてすっかり彼と閨を共にするのに慣れてしまったアデリシアは彼がいない寂しさに眠れなかったのだろう。だから本に慰めを求めたのだ。
「アデリシア、なんて可愛い人なんだ、貴女は。……そして、私を煽るのが上手い」
「え? きゃあ!」
 アデリシアの膝の裏に手を回し、椅子から抱き上げる。その言葉通りに彼の身体はすっかり熱くなっていた。
「ベッドに戻りましょう、アデリシア。貴女を愛させて下さい」
 耳元でささやくと、アデリシアは顔を真っ赤に染めたまま小さくうなずく。それからジェイラントの項に手を回すと、恥ずかしそうに首元に顔をうずめて言った。
「……お帰りなさい、ジェイラント様」
 ジェイラントの顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「ただいま、アデリシア」

 ――そんな二人を、月の光がやさしく照らしていた。

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