ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

君は僕のもの

 降り注ぐ陽射しが暖かみを増し、青々とした芝生を柔らかく包み込んでいる。
 頬に触れる風も心地よく、スティラはレースを編んでいた手を止めて胸一杯に空気を吸い込んだ。
 微風に遊んだ前髪を、耳にかけ直す。遠くから自分の名を呼ぶ声を聞いて、スティラは顔を上げた。
「おかあさまー!」
 緩やかに隆起している丘の上で、小さな塊が両手を振り回している。
 我が子の愛らしい姿に、スティラは笑顔で手を振り返した。
 ペルディン伯爵家の城館がある敷地は広大で、幼い子どもにとっては格好の遊び場だ。
 迷子にならぬよう共についている乳母の姿も丘の上に現れ、スティラに深々と一礼した。
 本来ならば簡単な読み書きを学んでいる時間だが、この陽気に子どもの集中力は奪われてしまったのだろう。
 乳母は申し訳なさそうな顔をしていたが、スティラは構わないと仕草で伝えた。
 まだ幼いのだし、落ち着かないまま机に付かせるよりは、気晴らしをさせてやったほうがいいだろう。
「イヴァン、お散歩していたの?」
 スティラは声を張り上げたつもりだったが、届かなかったらしい。イヴァンの「なぁに?」という声はこちらに届いたので、風向きと位置が関係しているのだろう。
 仕方がなく手振りで招くと、小さな体は転がるように丘を駆け下りだした。
 それほど急な勾配ではないが、転びやしないかと僅かに焦る。
 そんな心配を余所に、イヴァンは無事にスティラの胸に飛び込んできた。
 幼子とはいえ勢いづいたまま突進されては、座り込んでいるスティラでは受け止めきれない。
 そのまま芝生の上に倒れ込むと、乳母が急いた顔で足を速めた。
「坊ちゃま、いけません。奥様、大丈夫でございますか」
「平気よ。このくらいで怪我をしたりはしないわ」
「おかあさま、いいにおい」
 乳母の心配を余所に、満面の笑みを浮かべたイヴァンが胸元に顔を埋めてくる。
 柔らかな黒髪をスティラが優しく撫でると、イヴァンは猫のように目を細めた。
 黙っていれば幼い頃のフレイと瓜二つな顔が、満面の笑みを向けてくれている。
 それは見たことのなかったフレイの顔も見せてもらっているようで、スティラはイヴァンが愛しくて仕方がなかった。
「イヴァンからはお日様の匂いがするわね。どこまでお散歩に行ってきたの?」
「おさんぽではなく、ぼうけんです!」
 男の子も五つになれば大人ぶりたいのか、物言いを訂正される。それを笑顔で受け止めて、スティラは頷いた。
「それは有意義な時間だったわね。冒険の成果はあったのかしら?」
「もちろんです!」
 頷くと、イヴァンがスティラの上から起き上がり、ズボンのポケットを探り始める。
 その間にスティラも起き上がり、乱れた髪を梳き直した。
 ちょうどランチにしてもいい頃合いだったので、乳母に準備を頼む。その背中を見送ったところで、スティラの眼前に小さな手のひらが差し出された。
 そこには小粒のベリーが数粒乗っており、瑞々しい輝きを放っている。庭園に植えられていたものから、摘んできたらしい。
「美味しそうな実ね。お母様にもくれる?」
「はい」
 笑顔で一粒摘んで差し出されたので、スティラは薄く口を開いた。
 幼い指先が、不器用に一粒押し込んでくれる。舌で転がしてから噛み潰すと、甘酸っぱい味が口内に広がった。
「美味しいわ。ありがとう」
 スティラが微笑むと、イヴァンもにこっと笑ってから、ぱかりと口を開けた。
 イヴァンも食べさせて欲しいらしい。
 目を閉じ、雛のように待ち受ける姿の可愛らしさに絆されて、スティラがイヴァンの手のひらから実を一粒摘もうとしたところで、視界が翳った。
 見上げるよりも先に、背後から伸びてきた指先がベリーを摘む。イヴァンの口に、それがひょいと放り込まれた。
「んっ」
 勢いよく飛び込んできた粒に驚いたイヴァンが、瞠目して口を閉じる。
 二度、三度と目を瞬かせてから、ぱっと瞳の奥を輝かせた。
「おとうさま!」
「口に物を入れたまま喋るんじゃない。お行儀が悪いよ」
 声音は厳しかったが、飛びついたイヴァンを受け止める手は優しい。
 フレイはそのままイヴァンを膝に抱きかかえるようにして、スティラの隣に座った。
 父親の登場に存在を忘れ去られてしまったベリーを拾ってから、スティラはフレイを見上げた。
「どうしたの、こんな時間に。今日はオリーブ畑を視察に行っていたのではなくて?」
「比較的近い場所だったからね。午後からは執務室で書類と睨めっこだよ。馬車からちょうど君が見えたから、降りて歩いてきたんだ」
「そう。お疲れ様」
 スティラが労うと、フレイの指先がスティラの前髪を梳いた。優しい指先に頬を撫でられて、思わず目を細めてしまう。
 先ほどのイヴァンと同じ顔をしているのだろうと想像したら、少し恥ずかしくなってスティラは俯いた。
 だがすぐに、意地悪な指先が顎を持ち上げてくる。
「どうして視線を逸らそうとするの?」
「逸らしてないわ」
「嘘つきだね、スティラは。久しぶりにランチを一緒に出来ると思って喜んでいたんだけど、お邪魔だったかな?」
「そんなことないわ。ねえ、イヴァン」
「はい。うれしいです」
 スティラの問いかけに、イヴァンが満面の笑みを返してくる。
「さ、こちらにいらっしゃい。そこにいては、お父様のお食事の邪魔だわ」
 結婚して何年も経つのに小娘のような反応をしてしまった羞恥を誤魔化したくて、スティラはイヴァンを自分の膝に招いた。
 イヴァンは素直に移動しようとしたが、立ち上がろうとした腰をフレイの腕が抱き留める。
「フレイ?」
 戸惑ったイヴァンの代わりにスティラが問うと、フレイは年を経て精悍さの増した美貌を優雅に笑ませた。
「ここで構わないよ。僕は君に食べさせてもらうから」
「え――」
 思わぬ言葉にきょとんとしたスティラの唇が、まるで息を吸うようにフレイに奪われる。
「甘酸っぱい味がする」
 間近に無垢な眼差しがあるというのに、フレイは淫靡ささえ感じさせる仕草で己の唇を舐めた。
 間近でそんなことをされて、平静を保てるほどスティラは冷めてはいない。
 愛しい相手の思わぬ色仕掛けに、さっと耳まで赤く染めた。
「お、おやめになって。イヴァンもいるのよ」
「なぜ? 親の仲睦まじい姿が、子どもに悪影響なわけがない。ねえ?」
 不意に話を振られたイヴァンが、父親の笑顔に気圧されてこくりと頷く。
「大人げないわよ、フレイ」
 横目で睨んだが、フレイは意に介した様子もなくスティラの髪を弄んだ。
「そうかな? 僕はよく我慢しているほうだと思うよ?」
「え?」
「本当はもの凄く嫉妬しているけど、表には出してなかったし」
 すぐには意味がわからなかったが、その手がイヴァンの頭を撫でたことで、スティラははっと息を呑んだ。
 思わずフレイを見つめると、深く青い瞳が柔らかく笑む。その眼差しから向けられる底の知れない感情に、スティラはひやりと背筋が冷たくなるのを感じた。
「ご飯、食べさせてね?」
 念を押すように再び願われ、思わず頷く。
 この男がスティラを奪われることに、どれほど仄暗い感情を抱くかを、忘れたわけではない。ただ、まさか自分の子どもまでその対象だとは、今の今まで表に出されなかったことで考えもしなかった。
 フレイなりに、子どもがある程度大きくなるのを待ってくれていたのかもしれない。
 その程度には、父親としての愛情があるのだと言えなくもないが、今後は態度に出すと言外に宣言されてしまった今、スティラは動揺した。
 動揺したが、間違いなく高揚もしている。そのことを隠したくても、真っ直ぐに射貫いてくる青い瞳にはお見通しだろう。
 久しく向けられていなかった痛いほどの独占欲に、体の奥が熱くなった。
 すっかり身も心も母親になっていた筈なのに、思いがけず女である自分を意識させられる。
 スティラは高鳴り始めた心臓を押さえるように、胸元に手のひらを押し当てた。

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