ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

優しい束縛

 結婚式の二週間後――。
 サディアスとアシュリーは、高原に遠乗りに来ていた。
 アシュリーはこれまでのことを思い返しながら、流氷の溶けた湖の方へと目を細めた。
 初夏を迎えたベーゲングラード王国は、至るところで色とりどりの花が咲き乱れ、湖の周りでもたくさんの花が風にゆらゆらと揺れている。清涼な風が頬を撫でるのが心地よい。
「この辺で降りようか」
「ええ」
 サディアスに声をかけられ、アシュリーが馬から下りた途端、束ねて鞄の中に入れていた羊皮紙が突風に煽られぱらぱらと宙に舞った。
「待って!」
 アシュリーは慌てて両手を伸ばして掴もうとした。だが風の悪戯でどこまでも空に舞い上がっていってしまう。
 馬を木に繋げていたサディアスが、アシュリーの代わりに手を伸ばした。
「あ、それは……見ないで。読んだら……だめ」
 それはただの紙ではない。大切な人に宛てた恋文だ。
 雛鳥がぱたぱたと空を仰ぐかのように慌てているアシュリーを見て、サディアスは遠くから目を細めて笑った。
 読んだらダメだと言ったのにサディアスは紙を一枚ずつ拾い上げてしまう。そればかりか、アシュリーの身体はほどなく彼の腕の中に囚われた。
「あっ……」
「これは僕に?」
 サディアスの心地のよい低い声が、甘やかに耳を濡らす。それは高原にそよぐ風よりもずっと優しい。力強い腕の中にすっぽりと包まれ、彼らしい清廉な香りが漂った。
 その瞬間、アシュリーの雪のように白い肌が、薔薇色の水を流し込んだかのように紅く染まっていく。
 なぜ、こんなに胸がざわついてしまうのだろう。
 幸せと思えば思うほど、儚いもののような気がして、時々怖くなる。
「アシュリー?」
「ごめんなさい。何でもないの」
 胸が押さえつけられているかのように苦しい。心臓がどきどきと早鐘を打っている。
「最近は、あまり僕に気持ちを言わなくなったね。おまえは何でも僕に話してくれたのに、こうして手紙に綴っているなんて……少し寂しいような気がするよ」
「……でも、手紙なら前にも……書いていたことがあるわ。離れ離れになってから、これまでもずっと……」
 自分は変わらないのだとアシュリーは主張したつもりだった。だが内心はサディアスに本音を知られたくなくて焦っていた。
 彼がこれまで与えてきた激情よりもずっと強く身を焦がすものが、アシュリーの内側に根付いてしまったことを。
「うん。そうだったね。でも今は、何も秘めておくことはないだろう。言いたいことがあるのなら、隠さないで素直に言ってごらん」
 アシュリーは風にさやさやと揺れる琥珀色のブロンドをそっと頬に垂らすように俯いてから、腹部に回ってきたサディアスの逞しい腕に手を添えた。
 背中越しのサディアスの感触や、耳や手に伝う彼の温もりが、とても愛おしい。指先が冷たい頬を掠め、彼の穏やかな緑がかった茶色の瞳がゆるりと細められるだけで、胸が熱くなる。
 それはサディアスが兄であった時よりもずっと強い感情だ。
 高原に谷間から吹き付ける冷たい風がいっそ心地よいと感じるほどに、全身が火照ってしまっていた。
 ずっとこのまま寄り添って、いっそ溶けてしまえたら楽なのに。
 そんな激情が湧き上がり、同時に安堵に包まれる。不思議な感情がアシュリーを追い立てた。
 結婚式を終えた二人の間にはこうしてゆっくり過ごせるほどの穏やかな時間が流れていた。
 背徳や絶望に苦しんだ日々は霧が晴れるように消えていき、誰かの視線が気になっていた冷たい過去が流氷の如く季節を越えて清らかに流れていく。
 アシュリーの胸の中は、兄をようやく一人の男性として愛せるのだという喜びで満ちていた。
 それと同時に、兄を憧憬の対象として見つめ、箱庭の中にいた二人の関係から一変した今、どう接していいのか分からないところもあった。
 想いが溢れるあまり、以前は簡単に伝えられた何気ない言葉でさえも喉に絡んで出てこないのだ。そんなアシュリーの様子を見守りながら、サディアスは優しく微笑んだ。
「僕は変わっていないよ、アシュリー」
 お兄様、と彼を呼ぼうとしてた言葉が、喉の奥で留まった。
「おまえが困った顔をして、僕を好きな気持ちを押し隠しているところ。そういうところを見るのが好きなんだ」
 サディアスは喉の奥でくすくすと笑う。
 揶揄されたのだと分かって、アシュリーは碧氷色《アイスブルー》の瞳を揺るがし、雪のように白い頬をますます真っ赤な薔薇色に染める。
「ひどいわ。からかうなんて……」
「本当に、おまえは可愛いね。自慢の妹だ」
 こめかみに、頬に、耳朶に、唇を寄せながら、慈しむようにサディアスが囁く。その間にもくすくすと漏れる声がくすぐったい。
「もう私は妹じゃないのよ?」
 アシュリーがむくれると、サディアスはますます屈託なく笑う。
「ごめん。つい言ってしまうんだよ。だっておまえが僕の可愛い妹だったことは事実だろう。それは消せない。それがあるからこそ……僕の人生をかけておまえを愛してると言えるのだからね」
 サディアスはそう言って、アシュリーの唇を優しく攫った。
 アシュリーはもっと口づけをして欲しくて、サディアスの頬に手を伸ばす。
「愛しい妻《ひと》。誰の目にも触れずに、ずっと閉じこめておきたい気分になるよ」
 アシュリーもサディアスと同じ気持ちだった。その想いを手紙にして綴っていたのだ。
「いいわ。ずっと……束縛されていたいの」
「それはおまえからの誘いだと思っていいのかな?」
 アシュリーが顔を真っ赤にしたままこくりと頷くと、サディアスが優しく瞼にキスをする。目尻に、頬に、そして唇に。
 アシュリーはその口づけに身を委ねながら、サディアスの背中にしがみついた。
 ずっと束縛されていたい。彼だけの特別でいたい。ずっとずっと――。

***

 結婚式を迎えてから、そしてその後もずっと、サディアスはアシュリーとの交わりを控えていた。その理由は、サディアスがこれまでにアシュリーを虐げるように抱いてきたことへの後悔があるからだ。
 サディアスが直接そう言ったわけではないけれど、実際に彼は今、アシュリーのことをみだりに求めたりしない。アシュリーも二人の在り方についてたくさん考えた。
 けれどサディアスのように、自分を抑えることはとてもできなかった。彼を男性として欲した時から、もっと特別な存在になりたいという想いが、堰を切ったように溢れていくのだから。
 王宮に戻ってから、それじゃあ……と、つれなく政務に戻ろうとするサディアスの背に、アシュリーは自分からぎゅっと抱きついた。
「アシュリー」
 サディアスは振り返らずに、名を呼んでアシュリーを諭す。
「……ちゃんと夫婦になりたいの。形だけじゃなくて……」
 この気持ちをどうしたら伝えられるのか、言葉にすれば何かの拍子に泡沫のように消えてしまいそうで、アシュリーは怖かった。心の中でずっと煮詰めていたけれど、もう隠しきれないほどに昂ってしまっている。
 結婚式を終え、二人は夫婦になれた。
 けれど、寄り添い合う毎日は、兄妹だったこれまでと何が違うのかと考えてしまう。
 きっと二人には特別な結びつきが必要なのだ。もうけして揺らぎようのない真実が――。
「そう言ってくれるのを待ってた」
 サディアスは、アシュリーの手に自分の手をそっと重ね、ゆっくり振り返る。
 彼が本当に繊細で優しい人なのだということを、アシュリーは日々気づかされる。
 大切に想っているからこそ、これまでとは違う愛情で包みたい……そう願っていることも伝わってくる。それはアシュリーも同じだった。けれど、アシュリーの場合はサディアスと真逆だ。
 もっと激しく求めたい。遠慮などせずに愛し合いたい。
 こんな激情が自分の中に存在することなど、知らなかった。
「いいよ。今夜はおまえが望むように、抱いてあげる」
 力強い男の腕に抱かれて、アシュリーは潤んだ瞳でサディアスを見つめ、こくりと頷いた。
 早くこの人のものになりたい。
 形だけじゃなくて、本当の意味での夫婦になりたい。
 そんな感情があとからあとから溢れだして止まらなかった。

***

 二人の閨室に、甘やかな蜜の香りが漂う。
 天蓋付きベッドの金糸銀糸の刺繍が施されたカーテンが下ろされ、二人は素肌を重ね合わせ、互いの温もりを感じ合った。
 アシュリーはサディアスの重みを感じながら、彼の筋骨の感触を味わうように指を這わせ、肌を滑る彼の髪を掻き撫ぜ、いくつもの甘い声を漏らした。
 泣きたいような感情が胸に溢れて、吐息一つ落ちるだけで濡れてしまう。
 もっともっと隙間なく愛してほしいと魂が叫んでいる。
 まろやかな胸の先にぷつりと浮かぶ薄紅色の花にゆったりと舌を這わせながら、サディアスは甘い吐息を零すアシュリーを見上げた。
「アシュリー、言ってごらん。おまえがしてほしいことを、ちゃんと言葉で」
 アシュリーはサディアスの髪を掻き撫ぜながら、潤んだ瞳で懇願する。
「……早く、もう、一つになりたいの……」
 もどかしさで身体が火照る。早く身体をつなげたい衝動に駆られる。それは兄と妹としてそうしていたときよりもずっと強い気持ちかもしれない。
「僕も同じ気持ちだよ。おまえとの未来が欲しい。前のような刹那を悲観する気持ちではなくて、希望の気持ちで……ずっとおまえを束縛したい」
 サディアスの燃えるような熱が、アシュリーの最奥へと届けられる。
「……あっ……っ……」
 奥に穿たれるたび、愛おしさで涙が溢れてくる。それは苦しい気持ちではなくて、喜びの気持ちで。
「……私も、……欲しいの。もっと……ずっと」
 汗ばんだ肌を重ね合わせながら、最奥に注ぎ込まれてくる情熱の証を感じ、ゆっくりと身体が弛緩していく。
 アシュリーの中に放たれた熱が、全身を支配する。細胞の隅々までもが満たされるほどに、染みわたっていく。
 それは優しい束縛――。
「アシュリー、愛しているよ」
「私も、愛してる……ずっとずっと……」
 これから二人で未来を見たい。
 二人が永遠に続いていきますようにと願い……アシュリーはそっと目を閉じた。
 瞼の裏であたたかな光を感じながら。


(了)

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