ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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蜜月

 光が影を纏い始める、夕暮れ時。
 朔夜が目を閉じていると、額にそっと触れる手があった。とうの昔に目覚めていたが、もっと触れて欲しくて寝たふりを続ける。
 横臥した頬の下に、張袴に包まれたやわらかな腿の感触がある。視覚を閉ざしているからか、他の感覚が鋭敏になって気配すら際立つ。
 きっと自分を見下ろす鈴音の口もとには、淡く穏やかな笑みが浮かんでいることだろう。
 朔夜の瞼の裏側には、そんな鈴音の姿がありありと浮かぶ。
 細く華奢な指は寝ている者を起こすまいとしてか、遠慮がちに髪と地肌のあいだに差し込まれ、ゆるゆると髪を梳かした。そんな些細な仕草ひとつにひとつに、朔夜を想う愛情が感じられる。
 こんなふうに大切に扱ってもらうのは、生まれて初めてのことかもしれない。
 朔夜はこそばゆいような幸福感を覚えると同時にひどい不安にも襲われた。
 もしかしたらこれは夢で、瞼を開ければたちまち、誰からも愛されずただ利用されるだけの空しい日々に戻ってしまうかもしれない。
 願いが叶わないことに慣れきった身は、素直に幸福を受け入れることができなくなっていた。誰かに深く愛されたいと強く期待しながら、いざ鈴音のように無条件な愛情を差し出されると尻込みしてしまう。
 朔夜にとって、誰かの歓心を得るには常になにか見返りが必要だった。人の世に生きている限り、それは当然のことなのかもしれない。
 現に自分もそうやって、鈴音を利用しようと近づいたのだから。
「……私は幸せ者ですね」
 小さな呟きが耳に届き、朔夜ははっと息を呑む。
「こんなにも満ち足りた日々を送れるのは、朔夜様のおかげです」
 それは違う。
 朔夜は胸に痛みを覚えた。確かに鈴音を助けたいと思ったが、それは同時に自分の益になると踏んだからだ。
 瞼を開くと、頭に置かれた手を取った。たおやかな手は、力を込めれば簡単に折れてしまいそうなほど細く頼りない。
「手が熱い。まだ熱があるようですね。薬湯を呑まれますか?」
 朔夜は褥の上に手をつくと、傷ついた体を庇うようにして膝から身を起こした。
 癒え始めた皮膚と肉は、引き攣れた痛みと熱を呼ぶ。傷口は塞がっても肌の下にくすぶる違和感はまだ消えない。朔夜は頬に手を当てて、わずかに眉を曇らせた。
「無理をなさってはいけません。まだ横になっていてください。いま松尾を呼んで、薬湯をお持ちしますから」
 女房を呼ぼうと鈴音が腰を浮かしかけたのを見て、朔夜は静かに首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。ですから、このまま私の傍にいてください」
「でも……」
自分の身を案じて、不安げに揺れる瞳が愛おしい。
 朔夜は鈴音の肩を引き寄せると、傷口を避けるようにして狩衣の胸に抱き締めた。
「こうして貴女といることが、時々、夢ではないかと思ってしまう。目覚めるたびに、貴女がいなくなるのではないかと不安になる」
 すると、まだ少し幼さが残る表情に昂然とした意思が浮かび上がる。
「私はここにおります。たとえ何があろうと、もう二度と朔夜様のお傍からは離れません」
「鈴音……」
 端から見ればか弱く、すぐになびくような儚い印象があるのに、実際の鈴音には頑な面があった。それも自分自身にではなく、相手のためにそれを覗かせるので時々手に負えなくなる。
 こうした一途さは、正しく愛され育ってきた者だけが持ちうる自負のようなものなのだろうか。
 朔夜は腕の中の温もりを感じながら、胸の奥底で凍る昏い影のようなものが少しずつ溶かされていくのを感じた。鈴音といると自然と笑みが零れる。
 何の見返りも求めず、朔夜の傍に留まって微笑んでくれるのは彼女だけだ。日増しに鈴音なしではいられなくなっている。
これまで朔夜は己のためだけに生きてきたが、いまは鈴音と出逢い、初めて誰かのために生きたいと願うようになっていた。奪うのではなく、与える愛もあるのだと、鈴音は身を以て朔夜に教えてくれた。
「朔夜様……苦しい……」
 気づかぬうちに強く抱きすぎていたらしい。上に向けられた愛らしい唇が小さな息を吐く。朔夜は腕の力をゆるめながら、口もとに穏やかな笑みを刻んだ。
「この傷を早く癒やして、思う存分、貴女を可愛がって差し上げたい。そう思ったら、つい力がこもってしまったのです」
 それを聞いた鈴音が頬を赤く染めていく。恥ずかしそうに俯く背中には、艶やかに流れる髪がある。そのひと房を手に取ると、朔夜はそっと口づけた。
「貴女が許してくれるなら、いますぐにでも愛し合いたいのですが」
「い、いけません……まだ熱が……」
「では、熱が下がったら応じていただけるのですね?」
「それは……」
 困った顔が愛らしくて、からかわずにはいられない。朔夜は彼女の耳に唇を寄せると、ねだるように低い声で囁いた。
「堪らなく貴女が欲しいのです。貴女さえ協力していただけるなら、私の体に負担なくひとつにつながることができるのですよ」
「本当に?」
「ええ」
 朔夜は鮮やかに微笑むと、暮色の迫る褥の上で淫らな願いを口にした。

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