ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

籠の中の小鳥

 エイドリック・サーステン子爵はふと何かを感じて目を覚ました。目を開けると同時にすぐに臨戦態勢に入ろうとした彼は、隣に寄り添うぬくもりとなじみのある気配に気づき、安堵の吐息ともに身体の力を抜いた。どうやら腕の中にいたミレイアが彼の方に寝返りを打ったようだった。
 エイドリックの眠りは浅い。もともと熟睡する方ではなかったが、マリウス王子の付き添いとして留学していた二年間、命を狙われ続ける生活をしていたせいで、何かの気配を感じただけですぐ目が覚めるようになってしまったのだ。祖国に帰ってきて、厳重に守られた屋敷で生活するようになってからは、少しはましになったが、それでも習い性というのは簡単に抜けるものではなくて、部屋の中はおろか外の廊下や隣の部屋で物音がするだけでも、すぐさま身体が反応してしまう。もう脅威はないのだと頭の中ではわかっているのに。
 エイドリックは小さくため息をついてから、傍らに寄り添うミレイアを薄明かりの中で見下ろした。
 彼女はエイドリックの腕の中に心地よさそうに収まり、目を閉じて静かに寝息を立てていた。あの個性的な宝石のような目を閉じている女はあどけなく、実際の年齢よりも幼く見える。留学していた二年間を除いて、彼女の成長をすぐ近くでつぶさに見てきた彼には、懐かしい面影だった。
 エイドリックの口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
 手を伸ばしてそっと顔にかかった髪を払うと、ゆるやかに波うつその金糸のひと房を持ち上げて、キスを落とす。
「……でも、この二年間の君の成長がこの目で見られなかったことは、やっぱり心残りだよ」
 エイドリックはそっとつぶやく。けれど、深く寝入っているミレイアはその声にも目を覚ますことはなかった。疲れさせてしまったのは自分だから、ゆっくり休ませてあげたい。そう思うものの、あのミレイアの翠色の瞳が閉じられたままであることが残念に思う気持ちもあった。
 ――その目に自分だけを映したい。他は何も映さないで、自分だけを見ていて。
 そう思うのは何も今に始まったことではない。
 
 
 ***


「エイドリック兄様……!」
 花壇にかがみ込んでいたミレイアは、振り返ってエイドリックの姿を認めたとたん、喜色を浮かべてこちらに走り寄ってきた。
「ミレイア、走ると危ないよ」
 エイドリックはそう言ったが、ミレイアの足は止まることなくまっすぐ彼のもとに向かってくる。そのことに彼は満足感と喜びを覚えた。
「兄様! 兄様!」
 胸に飛び込んできた小さな身体を抱き上げると、エイドリックは腕の中の少女に笑いかけた。
「僕の小さな姫君。元気だったかい?」
「はい!」
 ミレイアは元気に頷いた後、ふいに顔をくしゃっと歪ませると、エイドリックの首にその小さな手を回しながら抱きついてきた。
「エイドリック兄様、会いたかった……! どうしてしばらく来てくれなかったの?」
 エイドリックは自分の首にすがりつくミレイアの頭をなだめるように優しく撫でた。
「すまない。父と母の要請で王都に行っていたんだ」
 この時彼は十七歳になっていて、アルデバルト侯爵家の跡継ぎとして社交界の催しにもたびたび参加していた。これも義務だと思い、エイドリックはイヤイヤながらも笑顔をはりつけて、人々が「アルデバルト侯爵の長男」として求める姿を演じている。けれどそのためにミレイアに会いにいけない期間が増えるのは彼の本意ではなかった。ミレイアを傍に置くために父親と交わした条件の中に、「侯爵家の跡取りとしての責任はきっちり果たすこと」という項目が入ってなかったら、彼はとっくにその義務を放棄していただろう。
「兄様に会えなくて寂しかった……」
「僕もだよ、ミレイア。君に会えないのは寂しい」
 彼はミレイアの頭のてっぺんにキスを落としてささやく。その際、彼女の身体から香る仄かに甘い匂いが鼻をくすぐった。王都の貴族令嬢が好んで使う香水とはまるで違う、自然で優しい香りだ。キツイ香りを身に纏い、侯爵家の跡取りだということでまとわりついてくる彼女たちをエイドリックは好きではなかった。笑顔で愛想よく応じるものの、本心では、傍に寄りつかれることさえ厭わしい。まして触れられるなど論外だ。傍にいて欲しいと思うのも、自分に触れていいのも、ミレイアだけだ。
「さぁ、僕にその可愛い顔を見せて、ミレイア? 君にプレゼントがあるんだ」
「プレゼント……?」
 ミレイアはそろそろと顔を上げて、エイドリックを見た。少しだけ潤んだ青とも緑ともつかない不思議な色合いの目がエイドリックを見返す。その瞳に自分が映っていることに悦びを覚えながら、エイドリックは微笑んだ。
「そうだよ。少し早いけど、誕生日のお祝いだ。君の部屋に届けてもらっているから、一緒に見に行こう」
「うん」
 こくんと頷くミレイアにふたたび微笑みかけると、エイドリックは彼女を抱きかかえたまま、屋敷に向かった。

 美しい装飾がほどこされた金色の鳥籠が、ミレイアの部屋の丸いテーブルの上に置かれていた。
「綺麗……!」
 顔を近づけたミレイアが感嘆の声をあげる。鳥籠の中にいるのは、一羽の小鳥だった。ミレイアの瞳と同じ翠色のその鳥は、エイドリックが偶然立ち寄った王都の店で売られていたものだ。最愛の少女を思わせるその鳥を、彼は迷うことなく鳥籠ごと購入した。
「人にとても慣れているんだよ」
 エイドリックが鳥籠の扉を開けて手を差し入れると、その小鳥はすぐさま彼の指に留まる。そのままそっと籠から出し、ミレイアの小さくかわいらしい手を取って近づけると、小鳥は心得たように彼の手からミレイアの指に移動した。
「わぁ、可愛い……!」
 ミレイアは目を輝かせて自分の手に止まった小鳥を見下ろした後、エイドリックに笑顔を向けた。
「ありがとう、エイドリック兄様! この子大切にするわ!」
「気に入ってもらえたようだね」
 エイドリックはミレイアを見下ろして微笑んだ。それは円満な対人関係を築くために作られた笑顔ではなく、本当の心からの笑みだった。ミレイアだけにしか向けないそれを彼は惜しみなく与え続ける。彼女の中が自分の存在でいっぱいになるように。
「うん!」
 嬉しそうに頷く少女にエイドリックは更に笑みを深くした。
 よほど気に入ったのか、やがて小鳥が鳥籠に戻された後も、ミレイアはテーブルの上の鳥籠から離れようとしなかった。金色の籠の中で小鳥は餌を啄み、水を浴び、くちばしで毛づくろいをしている。その様子をミレイアはあの印象的な翠色の瞳を大きく見開いて魅了されたように見続けていた。
 エイドリックはくすっと笑うと、後ろからその小さな身体を腕の中に囲いながらミレイアの頭のてっぺんにそっとキスを落とした。けれど、ミレイアはそれを気にすることなく目の前の小鳥に夢中になっている。彼女にとってはエイドリックに抱きしめられることもキスをされることも、息をするように当たり前のことなのだ。
 エイドリックの口元に愉悦の笑みが浮かぶ。 
 ――僕の大切な、小鳥。そうやって自分を閉じ込める籠を、そうとは意識しないまま、この腕の中に溺れていけばいい。
 エイドリックはミレイアの髪に口を押し当てながらそっとつぶやく。
「早く大きくおなり、ミレイア」
 そうしたら、自分という存在をその身に刻み、翼を切り取って、見えない枷で繋いでしまおう。その瞳に映るのはエイドリックだけになり、やがて彼女は自らの意思で鳥籠の中に留まることを望むようになるだろう。なぜならそれしかミレイアは知らないのだから。
 ――だから、早く大人になって。僕の籠の鳥。
 後ろの男にそんな思惑があることなど知るよしもないミレイアは、一心に籠の中の小鳥を見つめ続けていた――。
 
 ***
 
 エイドリックは傍らに横たわる、すっかり大人になったミレイアを見下ろして笑みを刻んだ。彼を一瞬で虜にしたあの大きな翠の瞳は閉じたままだ。けれど彼はそれで構わなかった。
 ミレイアのあらわになった首筋や肩、背中にかけて、その白く柔らかな肌には、エイドリックがつけた赤い所有の印がいたるところに散っている。それは、上掛けに隠された部分も同様で、彼に深く愛された名残をその身に留めていた。
 それは眺めるだけでゾクゾクとした悦びをエイドリックにもたらした。 
 ――籠の小鳥は自分だけのもの。そして、自分はミレイアだけのもの。
 自ら彼の傍にいることを選んだミレイアの、あの穢れのない瞳は、もう彼しか映さない。エイドリックがミレイアしか見ていないように。
 必要なのはお互いだけ。彼らは見えない枷で互いを繋ぎ合い、自ら鳥籠の虜囚となる。
 ――そこは隔離された二人だけの閉じられた世界。そしてそれこそが自分が真に望んだものだ。 
 エイドリックはうっとりとした笑みをもらし、ミレイアをそっと腕の中に抱き込んで目を閉じた。

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