ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

背徳の晩餐

 それは、ある冬の日の夜のこと。
 ハインツとマリアを乗せた四頭立ての馬車は、雪のちらつく街路を抜け、ある大きなホテルの前で止まった。
「マリア、手を」
 支配人自らの出迎えを受けながら、ハインツはマリアの手を取り、堂々とした足取りで屋内に入った。マリアは年上の夫のたくましい腕に身を委ね、ゆっくりと廊下を進んでゆく。
 ハインツにこうして守られていると、いつでも、どんな場所にいても、マリアは深く安心することができた。一年前までは全く知らなかった感覚だけれど、マリアは側を離れては生きていけないのではないかと思うほど夫を頼り、信じていた。
 今日は、マリアの十八の誕生日だった。
 ハインツは、彼に嫁いでから初めて迎える記念日を、ホテルで過ごそうとマリアに提案してくれたのだ。
 ハインツは黒の略装姿で、マリアは今日のためにハインツがあつらえてくれた肩のあいた深緑色のドレスを着ていた。蝶の形の髪飾りは、金と金剛石、それから結婚指輪と同じ緑柱石があしらわれていて、これもハインツがドレスに合わせて誕生日の贈り物として作らせたものだ。
 二人は、三階にあるレストランの最奥の個室に案内された。大きな窓の向こうに夜景を臨む広々とした部屋だった。
 マリアは外套を支配人に預けると、椅子を引いてもらい、席に着く。ハインツもそれを待ってマリアの左斜め向かいに腰かけた。
 円卓の上には晩餐の支度が整っている。
 純銀製のカトラリーは、豪奢なシャンデリアに照らされて眩しいほど美しい。
 マリアはふと卓上に用意されたその数を確認して、首を傾げた。
「お連れ様が、まだお見えになっていませんが……」
 支配人の言葉に、ハインツは上着から取り出した懐中時計を見ながら頷いた。時計は、マリアが毎晩螺子を巻いているものだ。
「このままもう一人を待つよ」
 そう、この部屋には、ハインツとマリアの分に加えて、もう一人分の席が用意されていたのだ。ハインツは、今日、『外でお祝いをしよう』とだけマリアに伝えていた。他の誰かが同席することは教えてくれなかった。
 ハインツが支配人を個室から下がらせようとしたとき、他の給仕に導かれ、黒く長い人影が姿を現す。
 マリアは自分の胸が音を立てて跳ねるのを感じた。
 入ってきたのは、ハインツの実子でマリアの義理の息子でもある、マクシミリアンだったのだ。
「すみません。遅れましたか」
 灰色の外套を脱いで給仕に預けながら、マクシミリアンがハインツに尋ねる。
 ハインツはゆったりとした声でそれに答えた。
「いや、私たちの到着が少し早かったようだ。仕事の方は落ち着いたのかね」
「ええ」
 平然と会話する父子の様子からして、どうやら、今晩、三人で食事をする約束はあらかじめ取り交わされていたようだ。マリアにはこの瞬間まで内緒にされたまま。
「旦那さま、あの、どうして……」
 うろたえた声でマリアは問うた。ハインツの真意がわからなかったのだ。
 マクシミリアンは、人妻であるマリアの恋人でもあった。
 彼は、半年ほど前からハインツとマリアとは別に生活している。マリアとは週に一、二度の頻度で逢瀬を重ねているものの、ハインツとはマリアをめぐって険悪な仲で、仕事以外ではめったに顔を合わせることはない。
「今日が何の日か忘れたのかい?」
 ハインツが微笑みながら問いかけてくる。
 その後を引き取ってマクシミリアンが口を開いた。
「初めてのあなたの誕生日なので、ぜひともお祝いをしたいと思って来たのですが」
「まあ、マリアがどうしても夫婦水入らずで過ごしたいと言うのなら、間男には今すぐ退散してもらってもかまわないが……」
 と、ハインツは緑柱石の色の目で挑発的にマクシミリアンを流し見る。マクシミリアンは眉ひとつ動かさずに父の言葉を受け流す。
「父さん、マリアが困るのでからかうのはやめてください。マリア、今日は父さんが俺を呼んだんですよ。ここの手配は押し付けられましたがね」
 マリアは驚いて声もなかった。
 まさか、ハインツが誕生日の晩餐の席にマクシミリアンを招くとは思わなかったのだ。
「そういうわけですから」
 マクシミリアンはゆっくりと右斜め向かいの席に着く。
「父さんより少し遅れましたが、マリア、誕生日おめでとう」
 彼はそう言って、手にしていた平たい包みをマリアに差し出した。普段は冷たい水色の瞳が、優しい光を宿して見つめてくる。マリアは我知らず頬を染めていた。
 マクシミリアンに促されて、白いリボンと青い包装紙を解くと、中から黒い天鷲絨の箱が現れる。
 その蓋を開いたマリアは、思わず感嘆のため息を零した。
「きれい……」
 白いサテンの上に、レースのように繊細な白金の首飾りが横たわっていた。その縁に大小幾つも連なった雫型の藍玉は、清らかな朝露を思わせる。マクシミリアンの瞳の色の宝石だ。
 多忙な彼が、マリアのためにこれを選び、用意してくれたということだけで、心が浮き立つほど嬉しかった。
 マクシミリアンは立ち上がると、首飾りを手にマリアの背後に回った。そして、ごく自然な仕草で、マリアの首にその美しい贈り物を飾った。
「よく、似合います」
 マクシミリアンが満足げにそう漏らすと、マリアは首を巡らせて彼を見上げる。
「マックス、ありがとう」
 温かく大きなマクシミリアンの手が両肩を包む。
 ハインツはその様子を見て、不機嫌そうに腕を組んだ。
「今日のドレスと髪飾りには、あまり似合わないんじゃないかな」
 皮肉交じりの父の言葉を受けて、マクシミリアンはぴくりと片眉を上げた。
「では、次に会うときにでも、この首飾りに合うドレスを作りましょう」
 マリアが頷いてよいものか迷っているうちに、給仕が料理を運んできた。ハインツとマクシミリアンの舌戦はそこで一旦小休止となった。
 乾杯のあと、コース料理は順調に進み、最後の一皿を残すだけ。
 給仕が、金色のワゴンを押して個室に入ってくる。その上に積まれていたのは、焼き菓子、生菓子、チョコレートに飴細工。ソルベに果物。全てが宝石のように輝いている。
「全てシェフの特製です。お好きなものをお好きなだけどうぞ、奥さま」
 給仕に声をかけられ、マリアはびっくりして顔を上げた。オーダーを求められているのだとわかったが、すぐには決められない。
「わたしは決めるのに少し時間がかかりそうなので、二人からどうぞ」
 マリアはそう言って、ハインツとマクシミリアンに先を譲る。
「珈琲を頼む」
 甘いものを好まないハインツは即答する。
「こちらには、ソルベを全種盛り合わせで」
 マクシミリアンも続けて迷いなく注文した。
「奥さまは、いかがなさいますか?」
 再び給仕に尋ねられ、マリアはワゴンの上を見つめて困ってしまう。全部がとても美味しそうに見えるけれど、みんな食べたらお腹がいっぱいになって、コルセットを締めた身ではきっと苦しくなってしまうだろう。
 思案した結果のマリアの答えは、「おすすめのものを、少しずつ」というものだった。
「ふうん。おまかせというわけだ」
「あなたらしいですね」
 マリアの言葉を、二人は意味ありげにそう評した。
 芸術品のようなデセールが目の前に置かれても、マリアにその可愛らしさや美味しさに浸る時間は与えられなかった。
 マクシミリアンは一口ずつ違う味のソルベを食べさせようと匙を差し出してきたし、ハインツはテーブルクロスの下で結婚指輪を嵌めたマリアの左手を握ったまま放してくれなかったのだ。



 戸惑いに満ちた晩餐が終わると、ハインツはマリアを伴って、支配人の導くままにホテルの階段を昇って行った。マクシミリアンもその後ろに続いた。
 どこへ行くのか教えられないまま辿り着いたのは、最上階に一部屋だけのスイートルームだった。
 扉を開けると、むせ返るような芳香とともに、一面の薔薇の花がマリアを迎える。
「まあ……」
 季節は冬だというのに、いったいどこからこんなにもたくさんの花を持ってきたのだろう。
「こんなにたくさん、どうやって?」
 国中の温室からかき集めたような薔薇がそこかしこに生けられていた。全て今を盛りに花開いたものか、今にも綻びそうに色づいた蕾で、萎れたものは一輪もない。
「おまえのために用意したんだよ」
 ハインツが、マリアの腰を抱くようにして背後に立つ。
 リビングルームを見渡せば、薔薇に埋もれるようにして、マリアのドレスやハインツの服などが詰められた衣装箱が明日のために運び込まれているのがわかる。
 マクシミリアンが静かに部屋に入ってきた。
 マリアは、二つの鍵を手にした彼が、そのうち一つをハインツに手渡すのを見た。
 今晩、ハインツと二人でこの部屋で過ごすのは納得できる。
 しかし、マクシミリアンもここに居て、鍵を持っているとはどういうことなのか。
「旦那さま、マックスもここに泊まるのですか……?」
 不安げに尋ねるマリアに、ハインツは鷹揚に頷いた。
「そうだよ」
「でも、一緒になんて」
「マリア。これは、二人からの贈り物だ」
 ハインツが言うと、マクシミリアンが右手を開いて、手の中の鍵をマリアに見せる。
「この部屋には、寝室が二つあります。一つは俺の部屋、もう一つは父の部屋。あなたは今晩、どちらの部屋で寝てもいい」
 示し合わせたような二人の言葉に、マリアは視線をさまよわせる。
 その様子を見たマクシミリアンとハインツが声をかけてくる。
「決められませんか?」
「私たちは、選ばれなくても今日だけはお互いに恨みっこなしだ。おまえのためにここにいるのだからね」
 マリアは頬を真っ赤に染め、俯いた。
 どちらかを置いて、どちらかの寝室に行くなどできるはずがない。
 もう一人が壁一枚を隔てた向こうで休んでいると思えば、たとえ望んだ相手と一緒だとしても、その人のことを考えてしまって、眠ることなどできないだろう。いや、選んだ相手がマリアを安らかに寝かせてくれる可能性は限りなく低い。そして、その時の気配がもう一人にありありと伝わってしまうなんて――。
 マリアは体の前で両手をぎゅっと握り、目を閉じた。
 そして、勇気を出して瞼を開き、声を振り絞る。
「ど――、どちらでも、寝ません」
 このリビングルームで、一人で、カウチの上で寝る。
 マリアがひねり出した答えを聞いて、二人はあきれたようにため息をついた。
「そう。おまえは本当にわがままだね」
 ハインツが後ろから腰に手を回してくる。
「どちらも選べないというのが、一番欲張りな選択肢だということがわかりませんか?」
 一方、マクシミリアンは前からマリアの顔に左手を伸ばしてくる。てのひらで頬を包み、親指でマリアの目元をなぞる。
 マクシミリアンは水色の瞳を少し意地悪く細め、聞き惚れるような声で言った。
「どちらでも寝たくないと言うのなら、ずっと起きているといい」
「夜は長いから、何度でも私たちの部屋を行き来できるよ」
 背後から耳元に唇を寄せ、ハインツが囁く。
「鍵は二つとも、おまえだけのものだからね」
 マリアは言葉を紡ごうとして唇を開きかけ、声を飲み込んだ。
 そして、夫と恋人の間でそっとあえかな息をつき、目を閉じる。
 朝露を飾った蜘蛛の巣、その見えぬ糸に翅を絡め取られた蝶のように。

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