ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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彼女はまだ知らない

「何だこれは……」
 執務室に入るなり目についた釣書の山に、レオハルトは溜め息を漏らした。
 机からこぼれんばかりに積み上げられた紙の束。そのどれもが金糸銀糸の刺繍を施されていたり、繊細な彫金による細工で豪奢に彩られている。それぞれは、美しい。が、大量に煌びやかな物が纏められていると、全て同じに見えてしまうのも残念な事実だ。
 実際、中身にそう大差はない。
 様々な修正と脚色が加えられ、最早創作と化した姿絵と美辞麗句が空々しく並べ立てられているだけ。
「適当に処分してくれ。見たくもない……」
 レオハルトは丸一日かけて頭の凝り固まった年寄りを相手に、税を上げるよりもするべきことが先にあると長時間をかけ説得してきたところで、体も精神も疲れきっていた。最早日課になりつつあるやり取りだが、それが不毛な時間に終わったとなれば尚更疲労感が拭えない。
「そういう訳には参りません」
「今はそんな気分じゃない」
 大国の皇帝という椅子に座る自分には、妻を娶り跡継ぎを残すことが義務であるのは承知している。だからこそ渋々ではあるが、押し付けられた後宮も解散だけはさせていない。
 だが、正妃となれば話は別だ。
 後ろに権力と金が欲しくて堪らない者たちがひしめき合っていると分かっていて、その中から選ぶ気になどなる筈もないではないか。いずれは受け入れなければと理解していても、今はまだあと一歩が踏み出せなかった。
「ではいつならば、ご気分が乗るとおっしゃるのですか。そもそも陛下が身を固めてくださらないから、皆必死に美姫を勧めて来るのですよ」
 信頼する側近からやんわりと諌められ、レオハルトは低く唸った。
 簡単に決められるものならば、とっくにそうしている。けれど、どうしても心が動かないのだ。
 この道を進むと決意してから、愛する者と結ばれるなどという幻想は捨てている。だが、見かけだけ美しい中身の無い女を傍に置く気もなれない。そんなもの、今いる側室だけで充分だ。
「……黙れ」
「そうおっしゃらず。ほら、ラズリオの第一王女様などいかがですか? 美の女神も裸足で逃げ出す程の美女だと専らの噂ですが」
「……物凄い厚化粧だな」
 どうせ素顔など他とさほどの差異はないだろうに。それに面の皮一枚の価値に、どれ程の意味があるというのか。
 レオハルトは深く椅子に腰掛けると、ウンザリして目を閉じた。
 どれもこれも申し合わせたように取り澄ました顔か、作り物の微笑。立ち姿に至っては、それが決まりなのか腰を捻りこちらを振り返った体勢だ。違いを探す方が、難しい。
 並ぶ言葉も『才色兼備、清廉潔白、高貴な血筋』と代わり映えしない。
 売り込みに必死過ぎて、現実との乖離に気付いていないのか。
 ケントルムには優秀な間諜が数多くいる。めぼしい国にはとっくに送り込まれ、情勢や他国との繋がりなど、レオハルトの耳に入らぬことは無い。勿論、王族の人となりだって例外ではない。釣書に書かれたことが真実かそうでないかなど、とうの昔に知っている。
 ーーーそれでも、いつかは条件だけを基準に、誰かを選ばなければならないのだろう。
 ズシリとした重みが、胸にのし掛かった。この先もずっと続く、独りきりで歩まねばならない道には一筋の光も見出せない。
「おや、これは随分……」
 感嘆ではなく戸惑う側近の声に僅かながら興味を引かれ、レオハルトは目蓋を押し上げた。
 傍に立つ彼が手にしていたのは、よく言えば質素、控え目に言うなら地味な装丁の姿絵だった。
 まず、紙質が低い。滑らかさの無い表面は、色味もまだらにくすんでいる。装飾は一切施されず、大きさも小振りだ。
 けれど、それ故に異彩を放っていた。
「……何と申しますか、変わっていらっしゃいますね。ああ、珍しく陛下が取り寄せろとおっしゃった、オールロの姫君ですか……」
「……! 貸せ!」
 随分時間が掛かっていたため、送る気がないのかと諦めていた。
 ジワリと汗ばむ手の平。高鳴る鼓動。はやる気持ちを抑えきれず、奪い取るようにして目を走らせれば、そこには春の陽だまりが描かれていた。
 通常、身分の高い女は、感情を表に出すのを良しとしない。それはとても下品な行為で、恥ずべきことだとされている。
 だから送られて来る姿絵は皆、精々が微かに口角を上げているだけだ。
 だが彼女はーーーシシーナは、大口を開けた満面の笑みで、そこに居た。
 絢爛豪華な調度品に囲まれるでもなく、華美な衣装と宝石に埋れるでもなく、おそらくは初めて会ったあの森の中、座り込んで笑っている。
 およそ王族の姫が身に付けるとは思えない簡素な普段着で、汚れることも厭わず地べたに直接腰を下ろすとは、眉を顰められても仕方ない行為だ。
 けれど、目を奪われ逸らせない。
 その屈託のない笑顔から。溢れ出る温もりから。
 オールロの王バレシウスは、末姫であるシシーナを溺愛しているという。ならば、この到底やる気があるとは思えない姿絵は……
「牽制、か」
 娘を売り込む気など、はなからないに違いない。本来ならば釣書自体、矢のような勢いで届いてもおかしくないのに、要望を口にしてから驚くほど待たされた。その結果、手間暇掛けた姿絵を仕上げたならば話は分かるが、これである。明らかにこちらの関心を削ごうとしている。
 だが、逆効果だ。
 今までは単純な興味に過ぎなかった感情が、明確な形を持ってしまった。
 ーーーこの女が欲しい。
 呆れるほど貪欲な、己の性。理性よりも本能が暴れ出す。
 シシーナは幼い頃に出会った、血生臭い男のことを覚えているだろうか。……いや、出来れば忘れていて欲しい。新しい関係を築く為にも。
  顔を上げた時には、心は決まっていた。
「オールロに使者を送れ」
「陛下……!? それは……」
 何か言いたげな側近を手を振って退け、再びシシーナの姿に視線を落とす。
 愛らしい丸い瞳。柔らかそうな唇。薄紅に染まった頬。
 フワフワと広がる髪は日差しに透けて、煌めく羽根のようにも見える。
 昔のままの清らかさを残しながら、彼女は確実に大人の女へ変わっていた。
 指でシシーナの輪郭をなぞり、高揚する気分を抑えられずに笑みを浮かべる。 
 所詮紙に描かれた物からは、その質感までは伝わってこない。実際の彼女はどれだけ柔らかく温かいのだろう。声は甘く響くのか。匂いや味は?
 ……どんな風に、乱れるのか。
 ゾクゾクと背筋が震え、下腹部に熱が溜まる。その心地良い酩酊感に、久しく忘れていた感覚を思い出す。
 渇望。生きているが故の飢え。
 シシーナさえ居れば。彼女さえ傍に居てくれたら、自分はまだ人で居られる。絶対に誰にも渡したくない。
 漏らした吐息には、熱い劣情が混じっていた。
「……君の為に、最高の檻を用意するよ。国一番の名工を呼び寄せて枷も作らせよう。きっとこの細い足首に、よく映える」
 無防備に垣間見える白い肌を指先で嬲り、レオハルトは碧い瞳を暗く細めた。

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