ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

初めての王都

 初めての王都は、アンジェリーナにとって輝かしく賑やかな場所だった。
 侯爵領内にある大きな町を訪れたときも、何もかもが真新しくきょろきょろと見回したものだが、王都はさらに人通りが激しく建物も大きい。王都にある侯爵家の別邸の広さにも驚いたが、初めて目にした王宮の神々しさには目を何度も瞬かせた。

 アンジェリーナは長男のウィルフレドを出産してから、一年後に双子を身籠もった。
 二度目の妊娠はつわりもひどく、体調が崩れることが多かった。心配した侯爵が医師に詰め寄り、ほどなくして双子だとわかったのだ。
 稀に双子が産まれる話は聞いたことがあったけれど、まさか自分が二人も身籠もるとは。誰もが驚いていたのに、家令だけは相変わらず冷静な顔で淡々と告げた。
「お子様がたくさん欲しいという旦那様の執念でしょうね。三つ子でも不思議はなかったと思いますが」
 さすがにそれはどうだろう。
 アンジェリーナは絶句したものの、侯爵の子供好きはウィルフレドが産まれてからさらに強くなり、執着が増したのは確かだ。 
 領民の子供を屋敷へ呼ぶことも続けられていて、ウィルフレドより少し大きな子供たちは、ウィルフレドにとってもいい遊び相手になっている。
 相変わらず子供たちと一緒に遊びまわる侯爵だが、ひとつだけ、彼らしくないと思うところがあり、それがずっと気になっていたアンジェリーナは家令に尋ねてみたことがある。
 侯爵はもともと感情の豊かな人ではあるが、閨の中では不機嫌になったり言葉使いが乱れたり、舌打ちまですることがある。礼儀正しい家令が傍にいて目を光らせていただろうに、侯爵はいったいどこでそんな言動を覚えたのか不思議に思っていたのだ。
 答えはにこりとした笑顔とともに返って来た。
「もともとです」
「え?」
「生まれ持ったご性質です」
「……なんですって?」
 家令の冗談かとも思ったが、まったく崩れない笑顔には妙な迫力があり、アンジェリーナはたじろいだ。
「旦那様のお父上様も、高ぶると口が悪くなられる方でした。ですから遺伝でしょうね」
「遺伝……」
 この国の筆頭侯爵でありながら、口が悪くなる遺伝。
 それはまさか産まれたばかりの愛らしい息子にも引き継がれてしまっているのだろうか。
 それも嫌だな、と思わず顔を顰めてしまったのだが、家令が励ますように告げる。
「大丈夫です、奥様。旦那様の口調が乱れるのは、奥様に関してだけです。奥様のことになると、旦那様は少しも落ち着きがなくなってしまわれるのです。ですので、この先も旦那様の舌打ちをご覧になるのは奥様だけです」
 他の者にはバレません。
 さらりと言われても、いったいその事実をどう受け止めればいいのか。喜んでいいのか怒っていいのか。まさにアンジェリーナは動揺して声をなくしたのだが、家令は何故か満足そうに頷いていた。
「奥様にお会いになってから、旦那様は今でも奥様に夢中でございます。お子様がたくさんお産まれになるのも当然の結果かと。私どももお手伝いいたしますので、どうぞご安心を」
 侯爵の気持ちが自分に向かっているのだと言われると、恥ずかしさはあるが、確かに嬉しくもあった。しかしその結果がこれでは上手く喜べない。
 一度経験したものの、まだお産に慣れたとは言えない。なのに次は二人を一気に産まなければならないのだ。ちゃんと産まれるだろうかと心配が大きかったが、またもやアンジェリーナより狼狽える侯爵のおかげで、冷静さを取り戻し、二人の男の子を無事産むことができた。
 さすがに疲労は激しかったが、産まれたばかりの小さな二つの命を見ていると、それも吹き飛ぶほど嬉しかった。もちろん、侯爵が誰より喜んでくれていたのも大きい。
 しかし、産まれた子供たちと、最近すごい速さではいはいするようになった長男を見ていて、ふいに思い出した。
 侯爵は、女の子を望んでいるのだ。
 つまり、少なくともあともうひとり望んでいる。いや、ひとりで終わればいいが、本当に女の子が産まれるまでだとすると――考えるだけでアンジェリーナは背中が震えた。
 もともと、アンジェリーナは行き遅れの年齢で結婚したのだ。年を取ってからでも子供を望める環境ではあるが、アンジェリーナ自身の体力がもたないだろう。
 どうか、次は女の子が……!
 授かるようにと、そう心から願ったとしても、誰もアンジェリーナを責めなかったはずだ。
 そんなアンジェリーナが双子を産んで落ち着いてきた頃、侯爵は手紙を握りしめて王都へ行くと言い出した。
 その手に握られているのは、確か王からの親書のはず、とアンジェリーナは眉根を寄せるのだが、侯爵は家令に命じて、あっという間に王都へ行く準備を整えさせたのだった。

 そうして今、アンジェリーナは王都にいるわけだが、初めて見る何もかもに圧倒されている間に、気付くと侍女に装いを整えられて王宮へと足を踏み入れていた。
 侯爵にエスコートされて入った広間は、たくさんの人で溢れかえっていた。当たり前だが、誰もが正装をしていて、室内の豪華さともあいまった煌びやかな世界にアンジェリーナは絶句していた。
 そのアンジェリーナを支えている侯爵といえば、王都に行くと決めてから落ち着きがなく、今もそわそわとしていて許せばどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。
 それでもアンジェリーナの傍を離れないのは、決してアンジェリーナをひとりにさせないこと、と家令に言い含められているからだろう。慣れない場所で、初めて会う人たちばかりで戸惑うアンジェリーナには、その家令の言葉が有り難かった。侯爵も「当然ひとりになどさせない」と家令に頷いていたのだが、この落ち着きのなさに少し不安になる。
 侯爵夫人となったからには、こうした社交の場での付き合いも必要だろうが、何しろ侯爵本人が社交界に興味を持たないのだ。おかげで、結婚してから一度も貴族らしい集まりにも参加せずに済んだアンジェリーナは、実家の子爵家と同じような気楽な気持ちで過ごしていた。
 貴族の子女としての振る舞いは心得ていたつもりだが、侯爵夫人としての立場は、領地の屋敷の中でしか培っていない。
 侯爵とこの場に足を踏み入れたとたん、広間に居る全員の目が自分に集まった気がした。もしもこの中にひとりで放り込まれていたら、すぐさま逃げ出すことを考えていただろう。
 落ち着きはないものの、侯爵が傍に居てくれるから、アンジェリーナはどうにか留まれるのである。
「お久しぶりです、ルーツ侯爵。珍しいですね、貴方がここへいらっしゃるとは」
「ご結婚されたんでしたね。そちらが奥様?」
「初めてお目にかかるけど、どちらのご令嬢かしら?」
「美しい方ですね、侯爵。これほどの方を待っていたのなら、ご結婚が遅くなったのもわかります」
 注目されていた侯爵は、あっという間にたくさんの人に囲まれたが、侯爵は礼儀正しくひとりひとりと挨拶を交わし、アンジェリーナを紹介していく。
 初めての社交で緊張していたアンジェリーナだが、侯爵がゆっくりと言葉を交わしてくれるので、なんとか落ち着くことができた。
 しかし皆一様に、侯爵の隣に立つアンジェリーナを見て目を見開き、上から下までをじっくり観察してまた驚き、けれどその視線の意味を隠そうとしながらにこやかに声をかけるものだから、アンジェリーナの笑顔も引きつりそうになる。
 そんなに驚くほど、不自然なのかしら……
 もともと、侯爵家と子爵家の婚姻自体、不自然なのだ。
 こうなると、少しでも侯爵に恥をかかせないようにと、アンジェリーナは、さらに緊張感を持って気を抜かないように努める。しかしそれからすぐに、彼らの視線と言葉には隠しきれない本音が漏れていった。
「本当に……まさか侯爵様が、ご結婚されるなんて」
「しかも奥方は本当に大きくて……あ、いや、素晴らしい方で」
「侯爵様が小さなお子様を連れていらっしゃらないなんて……」
「いえ、もうお子様がお産まれになったとか? 本当におめでとうございます……」
「ええ、お子様のことには、侯爵様はさぞやお喜びでしょうね……」
 彼らの中にある戸惑いが、アンジェリーナにはわかってしまった。
 笑顔が違う意味で引きつってしまうのも仕方がない。
 こんな公の場所にすら、侯爵の嗜好が知れ渡っていたとは。これでは自分と結婚するまで相手がいなかったはずだと、妙に納得してしまった。
 しかし侯爵は、そんな人々との会話などどうでもいいのか、広間に王と王妃が現れるなり、適当に会話を切ってアンジェリーナを促し玉座へ向かった。
 侯爵は王とも知己の間柄である。真っ先に挨拶しても不思議はないし、しないことがおかしい。だがアンジェリーナは初めて対面する国王に、この広間に入って来たとき以上に緊張した。
 侯爵は、アンジェリーナの強張りには気付かないのか、軽い足取りで王のもとへ向かい、慣れた様子で挨拶をする。
「陛下、妃殿下。ご無沙汰しております。妻を紹介いたします」
「は……初めてお目にかかります。アンジェリーナでございます」
 アンジェリーナの声が震えても、無理もないはずだ。しかしどうにか粗相のないように礼をすると、予想以上に優しい声がかけられた。
「これは、デミオンが夢中になるのもわかる美しい奥方だな」
「本当に。ようやくお会いできましたね。侯爵様には何度もお願いしていたのに、まったく会わせていただけないのだもの」
 王は仲の良い王妃とにっこり笑い合い、王妃は笑顔でアンジェリーナに声をかける。
「初めまして。アンジェリーナ様。エリザです。これから仲良くしていただきたいわ。きっと、侯爵様より気が合うと思うの」
「そんな、王妃さま……」
「妃殿下、アンジーが私以外の誰かと仲良くすることはあり得ませんが」
 気やすく声をかけてくれる王妃に、アンジェリーナが緊張と喜びを混ぜて受け答えをしているというのに、隣からあっさりと侯爵が口を挟む。
 そしてそんなことは誰も訊いてはいない。
 そんなことをこんなところで、陛下と妃殿下に言うなんて! 
 いったい侯爵は何を考えているのか。アンジェリーナが鋭い視線を向けると、侯爵は真面目な顔を王へ向けていた。
「それより陛下。あのことですが」
「……お前、あっさり王宮へ来たと思ったら、それが一番か」
「侯爵様以外には通用しないお話でしょうけど……」
「まさか、狂言ではないでしょうね!?」
 アンジェリーナは目を瞬かせて驚くしかない。
 目の前では、呆れた顔をした王と、溜め息を吐きそうな王妃、そしてそれに食ってかかる侯爵が意味のわからない話をしていた。
話の内容がわからないだけに、不安が募る。
 侯爵様は何を言っているのかしら……
 その怪訝な顔に気付いたのか、王がアンジェリーナを気遣ってくれる。
「狂言ではないが、ここでは話せん。またあとで時間を取ろう。それより、王都に居る間は奥方をゆっくり労わってあげるといい。王宮にも自由に来て寛いで欲しい」
「そうね、領地にはないものが王都にはたくさんあるはずだから、観光もして楽しんでいって欲しいわ」
 続く王妃の言葉に侯爵は重要なことを思い出したようにアンジェリーナを振り返り、戸惑ったように頷いた。
「……そうか。そうだな。王都へ着いてまっすぐここへ来てしまったからな。二、三日はゆっくりして、好きなものを見て回ろう。どこへ行きたい?」
「侯爵様……」
 気遣ってくれる侯爵に嬉しくならないはずがない。ただ、どこへと言われても何があるのかわからないアンジェリーナは答えを持ち合わせていなかった。
「私は、どちらでも……侯爵様のお好きな場所へご一緒できれば」
「私の好きな場所に行くと君はどこにも行けなくなるが」
 それがどういうことなのか、アンジェリーナには言われなくてもわかった。
 そして会話の聞こえている王たちにもわかったはずだ。あまりの恥ずかしさにアンジェリーナは反論もできず赤い顔を俯かせてしまう。
「まったく……相変わらず直球だな、お前は。奥方が困っているだろう」
「そうね。侯爵様の良いところは正直なところだけれど、奥様を困らせては駄目よ」
 呆れた王たちの声が聞こえても、何も言えなかった。
「そもそも、すでに三人の子に恵まれているというのに……少しは奥方を労わってやれ」
「労わるために、その秘技とやらが必要なんですよ。効果は本当でしょうね?」
「いや、本当かどうかはわからぬ、と手紙にも書いただろう!? そういった噂があるというだけで……」
「噂でも、試してみて損はないでしょう」
「デミオン……」
「侯爵様……」
 趣旨のわからない会話が続いていたが、顔を赤くしたアンジェリーナはあまり聞いていなかった。
 羞恥心でいっぱいになり、早くここから下がりたいとしか考えていなかったからである。
 そしてそれを後悔するのは、やはり後になってからなのだ。

 侯爵はそれから、王との打ち合わせがあるからと一度アンジェリーナと離れたが、その後は決して離れることはなかった。
 さすがに王都に来て一番の思い出が寝台の上となってしまうのはどうかと思ったのか、連日連れ出し、新しいものを見せてくれた。
 大きな劇場のお芝居であるとか、アンジェリーナの故郷ではもちろん、侯爵領でもお目にかかったことがないような高級な店の数々。アンジェリーナにとっては、市場に人が行き交うだけでも、目に映るものすべてが素晴らしく楽しいものだった。
 なにより、侯爵がつきっきりでアンジェリーナの知らないことを丁寧に教えてくれることが嬉しかった。
 そうして、五日間の王都滞在を終え、アンジェリーナは期待以上に満足して領地に帰った。初めてのことばかりで疲労はあったものの、嬉しそうな侯爵が寝台へと誘うことに疑問はなかった。
 屋敷に帰るなり、馴染みの侍女たちにいつも以上に労わってもらったし、なにより愛らしい子供たちに出迎えられたことに安堵したこともある。
 しかしその寝台の上で、アンジェリーナはいつもより興奮している侯爵に戸惑った。
「あ、あの……デミオン様、ま、待ってくださ……ぁんっや、だめですっ」
「何が駄目なものか。こうして……」
「あっあっ、そんなこと……!」
 アンジェリーナの抵抗など、相変わらずないものとして扱ってしまう侯爵に勝てるはずがない。しかし初めてのことばかりで躊躇って動揺してしまったのも確かだ。
 三人も子供を産んでおいて今更だが、このときの侯爵の行為は普通ではなかった、とアンジェリーナは断言できる。
 恥じらうアンジェリーナに、侯爵はむしろ喜々として複雑に身体を絡めようとする。
「こうすると、女の子が産まれやすいと陛下が言っていたんだ」
「……!?」
 まさかこれを聞きに王都まで!?
 アンジェリーナは耳を疑ったが、侯爵を止められる術は持っていなかった。

 翌朝。結局、腰が立たなくなるまで責められたアンジェリーナは、女の子の誕生を心から願った。
 あんなことまでしたのに、効果がなかったと言われたら自分が可哀想すぎる。
 侯爵は嬉しさを隠しもしないで子供たちと笑っている。
 侍女の生温かい気遣いの視線を辛く感じ、その侯爵を睨みそうになる自分は決して悪くないだろう。しかし再び、侯爵は意気込んでアンジェリーナを寝台へ押し倒すのだ。
「ああ、アンジー、君は本当に素晴らしい……」
「で、デミオン様っ? もう、あんなことは駄目ですよ!?」
「あんなこととは?」
「…………っ!」
 侯爵の表情が、意地悪く変化したのをアンジェリーナは見逃さなかった。
 問われてもアンジェリーナが答えを返せるはずがないのを、誰より侯爵が一番知っているはずなのだ。答える代わりに睨んだとしても、アンジェリーナは悪くないはずだ。
 けれど、そんなアンジェリーナの表情に侯爵は眉根を寄せた。
「……君は本当に私の理性を奪い誘うのが好きだな」
「誘ってませ――」
 ん、という最後の言葉は侯爵の口の中へと消えた。
 舌打ちも隠さず、侯爵が突然不機嫌になり顔を顰めるのには、アンジェリーナの睨む顔に原因があるらしい。侯爵はアンジェリーナのその顔を、誘っていると受け取るらしいことはこれまでのことで理解したが、アンジェリーナを怒らせる侯爵に睨むなと言う方がおかしい。
 最近では、アンジェリーナが困るようなことをあえてするのが楽しいらしく、そんな侯爵を笑って受け入れろというのも無茶な話だ。キスだけでアンジェリーナから思考力を奪ってしまえる侯爵は、今日これからの睦み事を想像しているのか、満足そうに笑う。
「アンジー……きっと君に似た女の子は、とても可愛いだろうな」
 アンジェリーナが半分怯えた顔をしても、すでにうっとりとしている侯爵には、何も通じていないようだった。
 本当に本当に、次は女の子であって……!
 もう一度、心からそう願うアンジェリーナを責める者などいないだろう。

 願いは誰かに届いたのか、翌年、アンジェリーナは愛らしい赤毛の女の子を無事出産した。
 侯爵以上に喜ぶアンジェリーナの姿を見た使用人たちは、一緒に喜びながらも彼女よりも少しだけ侯爵のことを知っていた。女の子を産んだからといって、侯爵の愛情が子供だけに移るとは限らないのである。
 この先も続く侯爵夫人の苦労を想像しつつ、これからますます労わらねばと頷き合う。
 しかし今は、賑やかになった侯爵一家の幸せを全員で喜んだのだった。

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