ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

ペットの首輪

 デュロンの女王は、麗しいペットを飼っている。
 それは最近、周辺国で広まりつつある噂だった。
 しかしながら、ペットの飼い主である女王はまだその噂を知らないでいた。


 ひと騒動あったものの無事婚礼を終え、日常に戻ったアリシュは、以前よりも政務に励んでいた。セチャンをはじめ大臣や華族の長たち、それにチジュも加わり、アリシュの女王としての政務は一層厳しく、しかし実りあるものに変わっていった。
 これまでの甘さをアリシュの周囲も認め、女王への考え方を改めた結果でもある。
 考えることは多くても、充実している毎日にアリシュは満足していた。それは、傍らにいつもイヴェルがいてくれるからというのが大きい。
 王配となっても、イヴェルの言動はあまり変わらない。
 サリークの王子としての確かな地位を持っているというのに、イヴェルはその影響力を行使しようとは思わないらしい。毎日、アリシュの傍に控えているだけなのだ。
 その様子はやはりペットそのもので、オグム家を筆頭とした謀反者たちを捕らえたときの鋭さは見当たらない。いや、そもそもあの時も、鋭さを見せたというより、底知れぬ何かが漏れ出していたというほうが合っていた気がする。
 それは人を裁くようなものではなく、暗闇で一歩先に何があるのか解らない恐怖を与えるようなものだった。
 そんな気性を確かに持ち合わせているくせに、あの後もイヴェルは相変わらずアリシュのペットでしかないという態度を崩さない。
 本当に愛玩物以外にはなれないのではないか、という嘲りすらアリシュの耳に届くようになっている。
 確かに権力を求めない王配を望んだとはいえ、サリークの王子ともあろう者がそんな扱いで不満はないのだろうかという疑問も浮かび上がる。
 ただ、アリシュがその疑問をイヴェルにぶつけたところで、にっこり笑って肯定される結果が目に見えてしまうので、アリシュは今のところそれらを聞き流し、自分も気にしないでいるようにするしかなかった。
 しかし一方で、結婚してからのアリシュの私生活は濃密なものになっていた。
 これまでは暗闇の中、ひっそりと入り込んで来ていたイヴェルだが、部屋が同じになってからは、私室に帰るなりひと時もアリシュから離れない。
 私室の前までアリシュの傍に控えているダルファンは、結婚後はイヴェルの言動にあまり口を挟まなくなったが、相変わらずの不機嫌顔で何を考えているのかはよく解る。イヴェルはそのダルファンの感情を弄ぶことすら楽しんでいるようで、厳めしい顔の護衛に睨まれたところで何かを遠慮するわけでもなかった。
 イヴェルに触れられてから、その身体と、抱擁と愛撫の心地良さを知った日から、アリシュはどんどんイヴェルにのめり込んでいった。誰に憚る必要もなくなった今は、さらにイヴェルを求めてしまっている。
 イヴェルはいつもアリシュの欲しいものをくれる。
 傍にいるだけでアリシュの総てを奪うような存在なのに、その身体に触れるだけで逆に総てを与えられるのだ。
 毎夜、それが楽しみでならないことは、アリシュの秘密である。
 私室を一歩出ればアリシュは女王だ。
 国中から敬われ、国を導く存在でいなければならない。寝台の上での劣情を持ち続けていてはまともに歩くことすら出来ない。
 公私の区別ははっきりと、と思っているのに、それがなかなか難しいことであるというのが、最近のアリシュの大きな悩みでもあった。


 日々のほとんどをアリシュの傍で過ごすイヴェルだが、時折、ふらっと姿を消すことがある。あれだけの存在感を持っているのに、気付くと姿が見えないのだ。
 以前、深夜に部屋へ潜り込んできたときも思ったが、いったいどうやっているのかアリシュは未だに疑問だった。
 しかしイヴェルがいないときは、必ずアハルが控えている。
 イヴェルの代わりのようなのだが、ダルファンはアハルとは仲良くしているようだ。
 仕事中でも、ぽつりぽつりと会話をしているところを見かける。アリシュを守るという使命を強く持ちすぎるあまり、仲の良い相手は幼馴染でもあるセチャンしかいなかったことを考えると、良い傾向だった。
 仕事中でも構わずアリシュにぴたりとくっつき手を伸ばし、可愛がられようとするイヴェルの行動を睨みつけ、いつも怒っているダルファンからすると、穏やかでいられるアハルが傍にいるほうがいいようだ。
 ダルファンが一方的にでも怒っているような状況よりは、安心していられるとアリシュも思うのだが、女王としてではないアリシュの心を占めるのはやはりイヴェルだ。
 いないとなると、その姿を探してしまうのは、無意識でのことだった。
 そしてそれが何度も続くと、イヴェルが姿を消すタイミングがなんとなくわかり始めてくるものである。
 それはアリシュが政務において、イヴェルに意見を求めようとするときだ。
 デュロンの国で、最終決定を下すのは女王のアリシュであるし、政務に携わる者たちの意見も大いに取り入れる。王配であるイヴェルの意見を聞いたところで、何かが大きく変わるわけではないのだが、それでもアリシュとはものの見方が違うイヴェルの言葉が欲しいときもあった。
 だがそんなときに限って、イヴェルは傍にいないのだ。
 自然とアリシュの口から吐息が漏れると、アハルが珍しく声をかけてくる。
「イヴェル様は、働くことを出来るだけ避けていらっしゃいますので……」
 これはそういう問題だろうか?
 権力は与えられないのだから、仕事をしろというほうがおかしいのかもしれない。しかしながら、仕事が嫌いというだけで逃げ回るのはどうなのだろうとアリシュは頭を抱えたくなってしまう。
 そしてその行動こそが、やはりアリシュのペットにすぎないと周囲に見られている原因でもあるのだ。
 ペットで構わない。
 あれはアリシュだけのもの。一生アリシュのものだ。
 だからペットという存在でいて貰っても構わないはずなのだが、イヴェルの存在はただのペットというにはあまりに美しすぎる。
 アリシュは少し眉根を寄せ、嘆息した。
 考えても仕方がない。
 今すぐに彼の行動の結果が見えるわけでも、この先自分がどうするかという答えが見つかるわけでもないのだ。それこそ、一生かけて彼の落ち着く場所を決めてもいいはずだ。
 この先ずっと、イヴェルといられる。
 そう思うだけでアリシュの胸は高鳴る。この感情をアリシュに抱かせるだけで、イヴェルはもう充分役目を果たしているとも言える。
 そうして今日の政務が一段落した頃、華やかな雰囲気を隠すこともなく、執務室にイヴェルが現れた。
「アリシュ!」
 結婚してから、アリシュを名前で呼ぶのはイヴェルだけだ。
 それがイヴェルに許された特権でもある。しかし、態度はまったく変わっていない。
「アリシュ見て? ようやく完成したんだよ」
「なにを……というより、どこへ行っていたの?」
 イヴェルの今の衣装はデュロンの服だ。形としては男性用の官服であるにもかかわらず、城の衣装係は腕によりをかけてイヴェルの衣装を作り上げている。
 色合いや飾りも華やかで、細かな刺繍は一流の職人が手掛けているはずだ。
 今日の衣装も恐ろしく似合っている。
 襟元は生成りの色に近いが、裾に向かうにつれて藍色が濃くなっている。踝のあたりでは完全に群青色だ。それに白と銀の糸で刺繍が施され、女王であるアリシュ本人より着飾っているのではと思うほど煌びやかだった。
 その眩しい存在から嬉しそうに微笑まれても、アリシュはこれまで傍にいなかった理由の方が気にかかり、少し眉根を寄せる。
 イヴェルはアリシュの表情を気にすることなく、長い足であっという間にアリシュの傍に近寄って来たかと思うと、完成したという何かを見せた。
「装飾士のセゼンのところだよ」
 それは国一番の装飾士と言われるセゼン・ロカのことだろうか、と考えながら、アリシュは同時に目の前に見せつけられた装飾品に目を奪われ言葉を失くした。
「注文してから時間がかかって、さっき出来上がったばかりなんだ」
「これは……」
「さすがデュロンの職人だね、妥協することもなく、注文通りに仕上げてくれたよ」
「イヴェル、これは……」
 なに?
 アリシュはその先を問いたいのに声が喉元で絡まっていた。
 声と同じく表情も固まり、動きすら止まってしまったほどだった。
「首輪だよ」
「………………」
 やっぱり、そうなのか。
 当然のように答えられ、アリシュは納得しながらも反応出来なかった。
 それは整ったイヴェルの顔の下、首回りに収まっていたが、たかが首輪というには豪奢すぎるものだった。
 縁どる金具もイヴェルの髪と同じ色に光り、白地に金と赤の糸で刺された刺繍の模様は王族にのみ許された祝いのものだ。
 アリシュにだけ許された柄の施された首輪に繋がれたイヴェル。
 それは、彼がアリシュの所有物であることを周囲にはっきりと知らしめている。しかしそれを、首輪をつけた本人が望んでしているという事実を、アリシュはすぐに呑み込むことが出来なかった。
 アリシュの耳には届かなかったが、動揺とざわめきが広がった執務室で、いち早く我に返ったのはセチャンだった。
「イヴェル様……お首のそれは、いつご注文なさったのですか?」
「ん? いつだったかな……確かダルファンが、首輪でもつけろって言ったときだよ。ダルファンっていいこと言うよねぇ」
「き、貴様……っ私のせいだと言うのか?!」
 イヴェルののんびりとした返答に、同じように息を吹き返し怒りを露わにしたダルファンが怒鳴り返すものの、いつものようにイヴェルは軽く受けるだけだ。
「ダルファンのおかげだって言っているんだけど」
「人をおちょくるのもいい加減にしろ!」
「おちょくってないよー。ねぇアリシュ、似合ってるよね?」
 問いかけられたものの、アリシュはまだ上手く声が出せなかった。
 首輪が似合うかなどと、いい年をした青年が、しかもサリークの王子ともあろう者が、胸を張って言うことではない。
 しかし、この首輪が似合うのはきっとイヴェルだけだろう。
 それを認めないわけにはいかなかった。
 似合うかどうかの問いについてのみならば、アリシュは頷くしかない。
 アリシュは一度目を伏せ、深く息を吐いて冷静さを取り戻し、女王としての意思を働かせ始めた。
「……イヴェル、似合っているとは思いますが、人に首輪をつけるなどということは許されません。我が国では人民が誰かに隷属することはないからです。美しい装飾品なら、他のものもあったはず」
 なのにどうしてそれなの。
 アリシュは冷静になろうと努めながらも、溜め息を吐きたくなっていた。
 どう言ったら外してくれるのか、思案していると、イヴェルがいつもの顔で何でもないように笑った。
「だって僕はアリシュのペットでしょう? ペットらしくしただけだよ。せっかくだから似合うものをつけたいなと思って、今日まで完成を待ってたんだ」
「……そうではなく、イヴェルは私の伴侶であって、決してペットなどというものでは……」
 ないはずだが、ペットであればいいとアリシュも考えていることは事実だ。
 そしてイヴェル本人が、それを周囲に知らしめてしまっていることも確かだ。
 女王としてのアリシュは、それを否定しなければならないのに、あまりに似合い過ぎていて上手く言葉が出てこない。
 そしてイヴェルは、その恐ろしく整った笑顔で、今日もアリシュを魅了するのだ。
「大丈夫だよ。この首輪の先は、アリシュにだけ繋がっているんだから」
「……えっ?」
 アリシュがその笑顔に目を奪われている間に、イヴェルはアリシュの手を取り、かちりと何かを嵌めた。
 よく見れば、イヴェルの首輪からは細い金の鎖が伸びていて、それがアリシュの右手に止められた腕輪と繋がっていた。
「……え?」
 もう一度この状況の意味を問うてみても、答えは誰も返してくれない。
 唖然となった周囲の空気など気にすることなく、イヴェルは満足したように微笑み、アリシュを立ち上がらせた。
「今日はもう終わりでしょう? さぁ部屋に帰ろう。そこで僕を可愛がって」
「え……っは、え!?」
 あまりにも自然に促されて歩き出したものの、アリシュはまだ何が起こったのか理解しきれていなかった。
 イヴェルが何を考えているのかとか、今日は今までどこにいたのだとか、本気で何も仕事をしないつもりかとか、いなかったくせにどうして仕事が終わったことを知っているのかとか、聞きたいことはたくさんあったものの、混乱と困惑でアリシュの口から言葉が出てくることはなく、気付けば私室の前に辿り着いていて、それでも一言だけ声に出せた。
「イ、イヴェル、これの鍵は……」
「ないよ」
イヴェルは駄目押しとばかりにもう一度微笑んだ。
「さぁアリシュ、いっぱい可愛がってね」
 麗しいペットのおねだりに、アリシュは今日も敵うはずがなかった。



 私室で出向えたリュンへの挨拶もそこそこに、イヴェルとアリシュは寝室に篭り、繋がった鎖のせいで脱ぐことも出来なかった服を身体に絡ませたまま、官能に溺れていた。
 イヴェルの願い通り、アリシュは彼を可愛がり、そして可愛がられて、理性もなくなってぼんやりとしていた頃、首に重みを感じて少し意識を取り戻した。
「……なに?」
「……やっぱり、似合うねアリシュ」
「え……」
 寝台に倒れたアリシュに覆いかぶさるイヴェルはその肢体も美しい。しかし褐色の肌の、その首にさっきまであったものが見当たらないことに気付いた。
 アリシュは自分の身体を確かめ、重さを感じた首に手を当てて、考えたくないものがそこにあることを知る。
「……な……ッな、なん、で!? だって鍵はないって……!」
 人前では取り外しが出来ないと知って狼狽えたものの、アリシュのものだとはっきりと解るものを身につけているイヴェルに満足してしまったのも確かだ。
 後でどうにかしようと考えていたが、まさか簡単に取れるとは思ってもいなかった。そしてそれが自分の首に付けられようとは想像もしていなかったのである。
 イヴェルは、嘘は言ってない、と笑った。
「アリシュの腕輪に鍵はないよ」
「――――」
 つまり、腕輪は取れないが首輪は取り外せるということだ。
 アリシュが驚いている間に、イヴェルは体勢を変えた。
 自分が寝台に転がり、アリシュに跨がらせたのだ。
「イヴェル……ッ」
「動いて、アリシュ……僕のものだって、もっと見せつけてよ」
「あ、あ……っ」
 腰を掴んでアリシュを強制的に揺らしたイヴェルが深く貫き、アリシュの意識を惑わせる。
 首に感じる重みなど、次第に気にならなくなっていた。
 首と腕を繋がれたまま、イヴェルにも繋がる。
 イヴェルと離れないでいられるのであれば、もうこれでいいのではないかとアリシュの意識はどうしようもない方向へと向かい、イヴェルの笑みには気付かなかった。
 企みが成功したというような、その昏い笑みは、アリシュが一生気付かなくていいものなのだということを、この日もアリシュは知らないままだった。


 翌日、アリシュの頬が紅潮していたことについて、若き女王を慕う臣下たちは、敢えて触れずにいたが、未だ取り外せずにいる腕輪がアリシュの長い袖口に隠されているということには気付いていないようだった。
 どうか誰にも気付かれませんようにと、別の意味でアリシュが緊張しきった一日であったことは、イヴェルだけが知っていた。
 そして今日も、女王のペットは麗しい笑みを見せて不穏な噂を広めていくのである。

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