ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

執事の葛藤

 ──その日、マチルダとキースはエドワーズ家の主人クライヴに招待され、彼の屋敷へ迎え入れられていた。
「やぁ、二人とも待っていたよ」
 扉を開けるなり笑顔で出迎えるクライヴの両隣には、夫人のソフィアと一人娘のアンジェリカもいる。
 彼女たちもまたマチルダたちを温かく迎えてくれ、その服装には心なしか気合いが入っているように見えた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「ああ、堅苦しい挨拶なんていいんだよ。今日は君たちの友人として食事に招いたんだから、気楽にしてほしい」
 キースがかしこまって挨拶するとクライヴはそんなふうに言ってくれたが、それでもどうしても緊張を隠せない。
 普段は二人とも使用人としてここで働いているのだ。マチルダはアンジェリカの家庭教師、キースは執事として。
 友人として招待されることは非常に光栄なことだが、屋敷で働く面々は見知った顔ばかり。覚悟していたこととはいえ、注がれる視線の多さは予想以上だった。
「もう! いくら二人の関係にびっくりしたからって、みんな露骨に見すぎよ!」
 マチルダが顔を強張らせていると、アンジェリカが周囲に向けて一喝した。
 すると、フロアや階段の踊り場、廊下の向こうから見ていた使用人たちが、一斉に自分の持ち場へ散っていく。蜘蛛の子を散らすとはまさにこのことだと思った。
「ふふっ、ごめんなさいね。だけど許してあげて。これでもかなり落ちついたの。昨日、あなたたち二人が結婚するって伝えた時には、それはもう大変な騒ぎになってしまって」
「そうそう。お気に入りの花瓶は壊されるし、掃除用具は片付け忘れるし、どういうわけかそれにつまずいて転ぶ者が続出するし、おまけに酷い味付けの料理が出てくるしで……」
 夫人のソフィアがすかさずフォローをすると、アンジェリカがそれに同調して大きく頷いている。
 マチルダとキースは互いに顔を見合わせ、いくらなんでも誇張だろうと思いつつも、想像して笑ってしまった。
「さぁ、こんなところでいつまでも立ち話もなんだろう。早速食事にしようじゃないか。先ほど味見をしておいたから、今夜は美味しい料理を提供することを約束するよ」
「はい、とても楽しみです」
「マチルダ、キース、早く行きましょ!」
 クライヴの言葉に笑顔を浮かべると、マチルダとキースはアンジェリカに腕を引っ張られて食堂まで連れて行かれた。そして、そんな二人を待っていたのは、料理長渾身の出来映えの、見ているだけでお腹が鳴りそうな料理の数々だった。
 これが私たちのために用意されただなんて……。
 感激のあまり息を呑んでいると、隣に立つキースも驚いた様子で目を見張っていた。
「キース、今日はお腹いっぱいで動けなくなりそうね」
「はい…」
 こそっと耳打ちをするとキースは目を細めて頷く。
 この家の人々に出会えたことに感謝しなければ…。
 マチルダは改めてそんな思いに駆られながら席につき、隣に腰掛けたキースの横顔やこの家の人々を見つめ、本当に多くのことがあったと感慨にふける。
 胸につかえた思いはたくさんあるが、一番心苦しいのはこうして温かく出迎えてくれるエドワーズ家の人々に、自分たちの本当の素性を明かせずにいることかもしれなかった。
 いずれ言える日が来ればとは思うが、事が事だけに彼らを巻き込みかねないという懸念から告白にはなかなか踏み切れない。彼らも何らかの事情でマチルダたちが駆け落ちしてきたということは勘付いているようだが、『無理に聞き出すつもりはないから大丈夫』と、深く踏み込むことはせずに手を差し伸べてくれている。
 本当に感謝してもしきれない。こうして今日、わざわざ時間を作って招いてくれたのも、二人の関係が主人の公認だということを屋敷で働く皆に伝える意味合いもあるようだった。
「ワインもシャンパンも浴びるほど用意した。今夜は好きなだけ食べて飲んで楽しもう。キース、どうだ。君は酒は強いのか? よかったら飲み比べをしようじゃないか」
「お手柔らかにお願いします」
「さぁ、クリフォード、肉を取り分けてくれ。ワインもだ」
「承知しました」
 クライヴが命じると、古くから彼らに仕えている執事のクリフォードが持っていたワインを注いで回り、賑やかな食事が始まった。
 給仕たちも最初は若干の戸惑いを浮かべていたものの、徐々に笑顔を見せ始める。場が盛り上がっていくと、キースの肩を叩いて何やら捨て台詞を吐いて去っていく者、どうして今まで黙っていたのかと不満げに愚痴をこぼしながらも祝いの言葉をかける者など、多くの面々がそれぞれの方法で挨拶をしにやってくる。中には泣きはらした目をした侍女もいたので、密かにキースに想いを寄せていたのかもしれない。それに気づいたマチルダの胸は、微かに痛んだりもした。
 結局、その日はお酒も入って陽気になったクライヴやソフィアの昔話に付き合っているうちに夜が更けていき、「もう遅いから泊まっていきなさい」という好意に甘え、マチルダたちは初めてエドワーズ家に泊まることとなったのだった。


+  +  +


 深夜になって場がお開きとなり、それぞれが自室に戻っていくと、次第に屋敷の中は静けさを取り戻していった。
 しかし、用意された客室に案内されるや否や、マチルダは早々にベッドで横になって、先ほどからうんうんと唸っていた。美味しいからといって出されたものを次々平らげ、勧められるままにワインを飲んでいるうちに、お腹がパンパンになって動くのも苦しいほどになってしまったのだ。
「……ん。キース、どこ?」
 ところが、何気なく部屋を見回して、傍にいたはずのキースがいないことに気がつく。
 どこへ行ったのだろう。まさかクライヴの酒にまた付き合わされているのだろうか。
 マチルダはベッドから起き上がり、酔いが回った頭のまま彼を探しに行こうとした。
「マチルダ様、奥様に夜着を貸していただきました。こちらの方がずっと楽だと思うので、着替えて休みま……。ああ、だめですよ。そのような足取りで一人で動いては危険です。さぁ、ベッドに戻りましょうね」
 ベッドから下りて部屋を出ようとした矢先に、夜着を抱えたキースが戻ってくる。
 マチルダは彼に駆け寄ろうとしたが、それに気づいたキースは慌てて押し止めながら素早く戻ってきた。肩に腕が回され、ベッドに戻るよう促されると、マチルダは黙ってそれに従いながら彼をじっと見上げる。
「どうかされましたか?」
「キースの方がたくさん勧められて、飲んだり食べたりしていたのに全然平気みたい」
「ああ…、そうですね。ほどほどに食休みをしていましたから」
「そうだったの」
「ええ。それに私はいくら飲んでもあまり酔わない体質のようで」
 なるほどと、その言葉にマチルダは大きく頷いた。
 キースは滅多なことでは勧められた酒を断らないので、飲むときの酒量はそこそこ多い。しかし、思い起こしてみても彼が羽目を外して酔ったところなど見たことがない。そういう体質だったのか。これだけ長く一緒にいても、まだ知らないことがあったと新しい発見をした気分だった。
「では、服を脱がせますね」
 そう言ってキースは手慣れた様子で背中のボタンを外していく。いつものことなので、マチルダも彼に身を任せようとしていた。
 だが、そこではたと思い出す。
 今の自分は、お腹がはちきれそうだという現実を──。
「あっ! あの、キースありがとう。もう大丈夫、あとは自分で出来るから!」
 マチルダは急にアタフタして、サッと身体を離すと彼に背を向けた。このお腹を見られたら、幻滅されるかもしれないと焦ってのことだった。
「ですが…」
「キースだって着替えがあるでしょう? ほら、借りてきた夜着を持っているじゃない」
「私は上着を脱いでガウンを羽織るだけですし」
「だけど、その…。ええと、今日はあまりキースの手を煩わせたくない気分なのよ」
「そう、ですか」
 渋るキースを無理矢理納得させ、マチルダは自分の服を脱ぎ始める。
 こうして彼が世話を焼きたがるのは相変わらずだ。もはや生き甲斐のようなものらしいので、余程のことがない限り受け入れてはいるが、今日ばかりは女としてこのお腹を見せてはいけないという意地を張っていた。
 それから少しして、部屋に響く互いの衣擦れの音のなか、マチルダはさり気なく後ろを振り返る。白いシャツを脱ぎ、肌が露わになったキースの背中に一瞬で目が奪われた。腕を動かす度に肩甲骨が浮き上がり、しなやかな筋肉が曲線を描く。その引き締まった腰に釘付けになり、抱きつきたい衝動に駆られてハッと我に返った。
 やだ、私ったら何を考えているの…っ。
 ここが自分たちの家ではなかったことを思い出し、違うことを考えなければとマチルダは慌てて思考を巡らせた。
「ね、ねぇ、キース。私たちの関係を知って、皆、凄く驚いていたわね。しばらくは色々と聞かれそう」
「そうかもしれませんね。けれど私たちに出来ることは、旦那様が皆に説明したとおりに装うことだけです」
「……ええ。そう、よね」
 彼の冷静な答えにマチルダは俯き、脱いだ服の代わりに夜着を手に取りながら頷いた。
 クライヴが皆にした説明は、マチルダとキースの関係がこの町に来る以前からのものだと思われないためについた嘘でもあった。エドワーズ家で出会い、密かに愛を育み、二人が結婚することになったと。お互いに身よりがないため、エドワーズ家が後見人となり二人の助けになっていくと──。
 皆に嘘をつくのは心苦しいが、それが最善なのだとマチルダにも分かっている。機転を利かせてそんな表向きの説明まで用意してくれたクライヴたちには感謝の思いしかない。
 何かの形でいつか必ず恩返しをしよう。マチルダはそう心に誓い、ゆったりとした夜着に着替えた。
「喉は乾きませんか? 水をいただいてきましょうか」
「大丈夫よ。キースも着替え終わった?」
「はい」
「なら、もう休みましょう」
「そうですね。夜も遅いですから、そろそろ休みましょうか」
「ええ、おやすみなさい」
 互いに笑みを交わして、二つのベッドにそれぞれ横になる。
 キースがオイルランプの灯りを消すと、途端に部屋が暗闇に包まれた。
 マチルダは瞼を閉じてすぐにでも寝ようとしたが、この静けさがやけに寂しい。先ほどまでの賑やかさのせいだろうか。普段は同じベッドで眠るキースの温もりがないことも理由の一つなのかもしれない。
 マチルダが一人そんなことを考えていると、彼の穏やかな寝息が聞こえ始めた。
 ──キースってば、もう眠ってしまったのね。
 まだ灯りが消えてからさほど時間が経っていない。きっと凄く疲れていたのだろう。
 皆、かなり酔っていた。特にクライヴやソフィアはいつも以上に饒舌になって、自分たちの馴れ初めについて、同じ話を三回も繰り返すほどだった。それに気づきながらも、キースは何も言わずにニコニコしながら耳を傾けていた。マチルダは早々に眠くなってしまったアンジェリカを部屋に送ったりして途中席を立ったが、キースはそんな二人の話にずっと付き合っていたのだ。
 その光景を思い出して、マチルダは一人でクスクス笑う。
 彼を想うだけで胸の奥がぽかぽかしてきて、とても幸せだ。
 マチルダはほろ酔い気分が抜けないまま、よろよろと立ち上がり、彼の寝息を頼りに隣のベッドへ潜り込む。今日は二人きりになることがほとんどなかったから、彼の温もりが恋しかった。
「……ん、マチルダ、様?」
「あ、起こすつもりはなかったの。ごめんなさい。何だか一人で寝るのが寂しくて」
 そう言うと、キースは小さく笑って腕を広げ、マチルダの身体を抱き寄せてくれた。
「ええ…、そうですね。私も同じです。あなたに触れられないと、とても寂しい……」
 まどろみを帯びた声がマチルダの耳元で囁かれる。
 ただそれだけで得も言われぬ幸福に胸の奥まで満たされていく。すぐに眠りへと誘われ、マチルダが夢の中へ身を投じたのは、それから間もなくのことだった。


+  +  +


 一方、瞬く間に寝息を立て始めたマチルダを腕に抱き、キースはぼんやりしながら彼女の小さな呼吸に耳を傾けていた。
「眠ってしまったのですか…?」
 問いかけてみるが返事はない。
 徐々に暗闇に慣れて、その寝顔が見えてくる。瞼は閉じられたまま動かず、どうやら本当に眠ってしまったようだった。
 キースは力を入れすぎないよう柔らかな身体を抱きしめ、彼女のつむじに唇を押し当てる。寂しいからとベッドに潜り込んでくるなんて、何て可愛い人だろう。知らずに寝入っていたようで彼女の近づく気配に気づかなかったが、眠気などどこかへ消えていくほど胸が熱くなっていた。
 ──黙ってキスをするのは駄目だろうか?
 彼女が愛しすぎて何かせずにはいられない。少しだけだからと自分に言い聞かせて身を起こし、キースはその柔らかな唇に己の唇をそっと重ねた。
「……ぁ、…ふ」
 重ねた隙間から甘い吐息が漏れ、瞬時に頭の芯が溶けていく。
 薄く開かれた薔薇色の唇を突き出した舌で押し開き、若干強引な動きでその小さな舌を捉えた。
 あと少し、もう少しだけ……。
 そう思いながらも、キースの手はマチルダの腰のくびれを彷徨っていた。火がつくのは何て簡単なのだろう。こうして触れたら最後、彼女から離れられなくなるのはいつものことだ。
「ん、……くるしい」
「……ッ」
 だが、不意に彼女が身を捩ったことで、重ねた唇が離れていった。
 それを追いかけようとしたが、ふぅ…と息をつき、再び寝息を立て始めたマチルダの顔を見て徐々に冷静さを取り戻していく。
 ──こんなこと、よその家でしていい行為ではないだろう。
 今更ながらそこに気がつき、キースは慌てて身を起こして何事もなかったように装いながら横になった。
 危なかった。あと少しで夜着に手をかけるところだったと、ドクドクと騒ぐ胸に手を当て、つい今しがたの自身の行動を猛烈に反省する。
 意識のない相手に同意もなく手を出すなど駄目に決まっている。大体、寝具の乱れや情事の痕跡を残せば、あとで彼女に恥ずかしい思いをさせしまうではないか。今日ぐらい我慢出来なくてどうする。彼女と関係を結ぶ前は、ずっと堪えてきただろう?
 悶々としながらも、キースは自身を責め立てることで何とか身を静めようとしていた。
 けれど、熱を持ち始めた身体は思いのほか質が悪い。近くにいるだけで、その甘い香りに酔ってしまいそうになる。これでは一晩中同じことを繰り返しかねないと、キースはなるべく彼女に触れないようベッドの端の方まで移動して、熱が冷めるのを待つことにした。
「──……キース」
 ところが、ふとマチルダに呼ばれた気がして、キースは僅かに身を起こす。
 ベッドから落ちないギリギリの場所にいたが、腕の力だけで彼女の方へ前進してその顔を覗き込んだ。とても穏やかな寝顔だ。どうやら寝言で呼ばれたらしいと分かり、キースは唇を綻ばせる。
「私はここにいますよ」
 彼女の手を握り、指先に口づける。
 すると、マチルダが僅かに微笑を浮かべ、一度だけ頷いたような気がした。
 ──ああ、どうしてこの人はこんなに可愛いのだろう。
 キースの胸は熱くこみ上げるもので一杯になり、堪らなくなって彼女の身体をそっと抱きしめた。つい先ほどまで熱を冷まそうと躍起になっていたことも忘れ、今度は己の身体をマチルダに密着させる。
 この際、身体が反応してしまうのは仕方がない。朝まで眠れなくても、それが何だというのだ。せめて彼女を起こさぬよう細心の注意を払っていようと考えを改め、キースはマチルダを一晩中抱きしめていることにした。
「……だめ」
 と、そんな決意をした直後、マチルダがまたも呟く。
 寝言とは分かっているが、やけにはっきりとした拒絶だった。
「今日は、……お腹が……」
「お腹?」
「そう」
 問いかけたつもりはなかったが、マチルダはこくんと頷いている。
 夢に見るほど気になることがあるのだろうか。何だかキースも気になってきて、彼女の腹部に触れてみた。
「や…、お腹だけは……」
「だめなのですか?」
「ん、………ほかは、……好きにしていい、から。……お腹は…、だめ」
「どうしてお腹だけ?」
「……だって、……、……はちきれそう」
 思わぬ台詞にキースは目を丸くし、『ああ、そういうことか』と破顔した。
 今日のマチルダは本当によく食べ、よく飲み、お腹が苦しいと唸るほどだったことを思い出したのだ。
 そんなことを気にしていたのか。だから着替えを手伝わなくていいと断ったのか。こうして触れてみても、はち切れそうだなんて気づかなかったくらいなのだから、気にすることなど何もないと思うのに。
「……分かりました。大丈夫ですよ。今夜は、お腹には触りませんから」
 耳元で囁くとマチルダがほぅっと息をついて頷く。
 キースは腹部を撫でるのは止めて、彼女の背中に腕を回して自分の方へと引き寄せる。顔中にキスを降らせ、豊満な胸にも唇を寄せた。ここまでしても彼女が起きる気配は全くない。一旦眠ってしまうと滅多なことでは起きないほど眠りが深いようだった。
「私はどこまであなたに夢中になればいいのでしょう」
 キースは熱く潤んだ眼差しをマチルダに注ぎ、甘く切ない吐息をつく。
 それは幸せで、そして長い長い夜の始まりだった。お腹に触る以外は好きにしていいと言ったマチルダの言葉が頭の中で踊っている。彼女にとっては夢の中の出来事なのに、真に受けてしまいたいと身を焦がす。
 ──少しだけ、少しだけですから……。
 夜はさらに更けていく。その後は衣擦れの音と共に、時折マチルダの切ない喘ぎが部屋に響いたが、何があったのかはキースだけの秘密だ。
 翌朝はいつもの時間に起きたキースが、エドワーズ家で目覚ましの紅茶をマチルダに用意する爽やかな姿があったという。
 その代わり、マチルダの方は何故か眠った気がしないと言って、しばらく首を傾げていたのだった──。

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