ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

情けない英雄

 大きく跳ねた馬車の中、アンは隣に置いたキャンバスに慌てて手を伸ばす。
 馬車の振動でキャンバスは傾き、布に覆われたその表面が僅かに顔をのぞかせた。
 布の下から現れたのは、先日アンが仕上げた一枚の肖像画だ。
 描かれているのはレナード=ケインズ侯爵。この国の英雄でありアンの最愛の人だが……。
「やはり少し、美化しすぎたかしら」
 布の間からのぞく凛々しい顔立ちに、アンは僅かに眉をひそめる。
 四十近い年の割に若々しい顔立ちも、英雄としての威厳をたたえた鋭い眼光も、本物のレナードと瓜二つで、屋敷の使用人や侍女達も『レナード様にそっくりだ』と口々に褒めてくれた。
 だからこそ、日ごろの感謝を込めてこの絵画を贈ろうと、わざわざ綺麗な額を買いに街まで出たのだけれど……。
(やはり改めてみると、美化しすぎている気がする。本当のレナード様はもっとこう……)
 情けなくて馬鹿っぽい。
 思わず浮かんだそんな感想に、アンは申し訳なくなる。
 失礼極まりない感想を抱いてはいたが、アンにとってレナードは初恋の相手であり、命の恩人でもある。
 事情があって一時は距離を置いていたが、先日起こったとある騒動を経て、アンは彼との初恋を成就させたのだ。
 以来二人の関係は良好だったし、彼との生活に不満はないけれど、一緒にいるときのレナードに『英雄』とまで呼ばれた軍人時代の面影はなく、凛々しい顔を崩していることがほとんどだ。
 唯一、体を重ねるときはその情けない雰囲気も影を潜めるけれど、その姿は見惚れるほど色気に溢れていて、さすがに絵には出来なかった。
 昨晩も交わした甘いやり取りを思い出しながら、アンは頬を染めつつレナードの表情と声を頭から振り払う。
 それから彼女はキャンバスにもう一度布をかけ、本当にこの絵で良かっただろうかと改めて悩んだ。
 とはいえ、先ほど絵に合わせて注文した額も、店の人に勧められるがまま金縁の豪華な物にしてしまったので、今更情けない顔に描き直す事も出来ない。
 さてどうしたものかとため息を重ねていると、突然馬がいななき馬車が停まった。
 何事かと外を窺うと、御者として付いてきてくれたレナードの副官フレンの謝罪が聞こえてくる。
「何かあったんですか?」
「この先の通りで、海賊が暴れてるみたいで……」
 窓から外を見ると、アン達の乗っている馬車は海沿いの通りの中程で立ち往生していた。
 その少し先にある酒場の前で、どうやら酔った海賊達が暴れているらしい。
(あと少しなのに……)
 船着き場までは目と鼻の先だが、暴れる海賊達を突っ切って進むわけにはいかない。
「迂回しましょうか。ここにいて、下手に目をつけられても困りますし」
「お任せするわ。最悪、降りて歩いても良いし」
「お嬢さんをこんなところで歩かせちゃ、おやっさんにどやされちまう。それに……」
 と何か言いかけて、フレンがふと口をつぐむ。
「どうしたの?」
「迂回、する必要なさそうです」
 なぜと問いかけた直後、海に何かを投げ込むような音が立て続けに響く。
 気になって馬車から身を乗り出したアンは、そこで息をのんだ。
「次に投げられたい奴はどいつだ!」
 海賊達の騒がしい声を切り裂く低い声はアンに馴染みのもので、暴れる海賊達の方に目をこらすと、土煙の向こうに最愛の人の姿が見える。
 けれど、普段の馬鹿っぽい、情けないと思っていたその姿は、そこにはなかった。
 海賊達を畏怖させ、先ほどまでの騒ぎが嘘のような静けさをもたらしたのは、英雄の名にふさわしい雄々しい顔で立つ、レナードだった。
「あと五分もすれば、片づきますよ」
 フレンの声のすぐ後に、海賊達がレナードに殴りかかるのをアンは見た。
 その手には、物騒にも銃や剣が握られていたけれど、レナードが臆する気配はみじんもない。
 そしてそれを見つめるアンも、彼の危機に動揺する事はなかった。
(不思議だけど、レナード様なら大丈夫だって気がする)
 彼の戦いをちゃんと見たことはなかったけれど、アンは確信していた。
 それを証明するように、また一人海賊が海へと投げられる。
 武器を持つ海賊達と違い、レナードは腰にさした船剣を抜くことすらしない。
 だがレナードは、その巨躯からは想像もつかないほど動きが速い。
 彼は海賊達の攻撃をかわした端から、鋭い蹴りで海賊達を次々海へと落としていくのだ。
 その動きや表情には余裕すら見られ、圧倒的な力の差に逃げ出す海賊達も現れるほどだ。
「おやっさん、喧嘩になると人が変わるんですよねぇ」
 のんきな声に御者台を見ると、フレンがレナードを見て笑っている。
「でも本当に残念ですよね。戦ってる時はあんなにかっこいいのに」
 あと黙ってるときもかっこいいか、とフレンは好き勝手なことを言う。
「それはさすがに……」
 失礼だろうという言葉を、アンは呑み込んだ。
 全く同じ事を、自分も考えていたからである。
(けれど、確かにかっこいい……)
 初めて見るレナードの大立ち回りは、荒々しいのに目が逸らせない。
(これなら、この絵でもおかしくはないかしら)
 海賊達をなぎ倒すレナードの姿を見て、ようやくアンはこの絵を贈る決心がつく。
 すると騒ぎの方もようやく静まり、気がつけば十数人ほどいた海賊達は路上から姿を消していた。
 アンがほっと胸を撫でおろしていると、遠くにいたレナードがこちらに気づく。
「アン!」
 とたんにそれまでの格好よさは鳴りを潜め、子供のような無邪気な笑顔でレナードが馬車まで駆けてくる。
「遅いから迎えに来た」
 そう言うと、何事もなかったかのような顔で埃を払い、馬車に乗り込んできた。
「別に迎えはいらないと言いたいところですが、助かりました」
「もしかして、見ていたのか?」
「あれだけ派手に暴れれば目に入りますよ」
 格好よかったと思っていたはずなのに、本人を前にするとアンはどうにもそれが言えない。
(こういうところ、直さなければと思うのだけど……)
 気持ちに蓋をするクセは相変わらずで、想いを言葉にするのにはまだまだ時間がかかりそうだ。
(でも、絵なら……)
 ドレスの裾に隠したキャンバスに目をやり、アンはそこに描いたレナードの顔を思い出す。
(もう少し、凛々しくしても良いかもしれない)
 格好いいと言えないかわりに、気持ちは絵に込めよう。
 それを受け取ったレナードは、きっと絵とはかけ離れた情けない顔で喜ぶのだろうけど、その笑顔もいつか違う形で描ければとアンは思う。
 情けなくて、馬鹿っぽくて、でも時々格好いい。
 そんな英雄を誰よりも愛していると、アンは彼に伝えたかった。

 【了】

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