ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

偽りの主従関係

 そろそろ茶の時間だ。セルマは服の整理をしていた手を止めた。
 そのまま部屋から出ようとすると、居間で花を活けていた侍女が慌てたように声を掛けてくる。
「セルマさま、どちらに?」
「そろそろシャルロットさまのお茶の時間だと思って……」
「それならば私が。それとも、セルマさまがお誘いしているとシャルロットさまにお伝えしましょうか?」
 当然のように言われてしまい、セルマは戸惑ったがすぐに頷いた。
「そ、そうね」
「それでは、さっそく行ってまいります」
 普段あまり頼みごとをしないせいか、セルマの侍女であるリーズは見るからに嬉しそうに部屋を出て行く。その姿を見送ったセルマは、改めて深い息をついた。世話をされることに慣れなくてはいけないのに、いまだその立場になっていることを受け入れられない自分がいるのだ。
(誰も側に付けなくても構わないと言いたいけれど……)
 幼いころは、母と普通に二人暮らしをしていた。その母が亡くなり、貴族である父のバークス家に引き取られたが、自分のことは自分でするようにと厳しく躾けられた。その後フレインと結婚した後は世話をされる側になったものの、高齢のフレインの身の回りの世話を積極的にしていたせいか、自身が仕えられる側だという意識は希薄だった。
 王城に上がってからは王妃シャルロットの侍女として生活していたので、ライナスと結婚して《殿下》と呼ばれる身分になった現状にセルマはまだ戸惑っていた。
 それを口にした時、ライナスは、
「いずれ慣れるよ」
 と言ったが、正式に結婚式を挙げてからもう半月が経とうとしているのに、どうしても素直に己の立場を受け入れられない。
(こんなことではライナスさまにも迷惑をかけてしまうかも……)
 セルマのことを第一に考えてくれているライナスの意向で、セルマはまだ公の行事に参加をしていない。それこそ、慣れた時にと言ってくれているが、王位継承権を放棄したとはいえオルグレイン王国第一王子の妃として、他国から様々な祝いの言葉や贈り物が届いている。それらの使者にきちんと挨拶もできないというのは、ライナスの立場を貶めていることになるのではないだろうかと不安だった。
 セルマはまた溜め息をつく。こうなることは覚悟していたつもりだったが、想像していた以上の重圧にすっかり委縮してしまっているようだ。
 それでも、ライナスの側から離れることなど考えられない以上、どうにかするしかないのはわかっている。次期王にならないとはいえ、ライナスは王となる弟のアレクシスを支えることを決めているし、もちろんセルマも微力ながら協力するつもりだ。
 ただ、誰もいない部屋で一人になると、少しばかりの弱音を吐くことは許してほしい。
「……あのころは良かった……」
 ライナスとの関係を悩んで王城を辞し、フレインの屋敷に行ったセルマを追いかけてきてくれた彼と過ごした日々。あの時は揺れる気持ちを持て余していたものの、今から思えばずいぶん気楽な生活だった。
(少しだけ戻りたいって思うけれど……)
「もう、戻れないもの」
 小さく呟いたセルマは、
「どこに戻る気?」
「!」
 突然聞こえてきた声に肩を大きく揺らしてしまった。
「あ……」
 慌てて振り返ると、居間の入口にライナスが立っている。扉が開く音に気づかなかったことに驚いたと同時に、今の自分の言葉を誤解してはいないだろうかと焦った。
 しかし、ライナスの眼差しはいつものように優しく、口元には笑みが湛えられている。どうやら気分を害してはいないことに安堵したが、近づいてきたライナスが顔を覗き込むように身を屈め、気づかわしげに聞いてきた。
「何かあった?」
 もしかしたら、陰口をたたかれたと心配しているのかもしれない。
 自身の王位継承にまつわり、セルマの立場が一時嫌厭されたことにライナスの方がより深く傷ついていた。終始、彼からの愛情を感じていたセルマにとって、あの日々はもう過ぎたことであるし、本当のことなので気にしていなかったが、ライナスは今も警戒を怠ることはない。
 自分の不甲斐なさを情けなく思うことはあっても、周りに対しては感謝しかないセルマは、ライナスの誤解を解こうとすぐに首を横に振った。
「何もありません」
「……本当に?」
「ええ。ただ、私が世話をしてもらうことに慣れなくて……戸惑っていることを情けなく思っているだけです」
 ライナスに言うほどのことではないと考えていたが、夫婦の間ではどんな小さな秘密もない方がいい。
 そう思い直したセルマが素直に内心を吐露すると、黙って最後まで聞いていたライナスが「それなら」とにこやかに笑いながら言い出した。
「君が世話をされることに慣れたら良いんだね?」
「え、ええ。でも、もう少し時間がかかりそうだけれど……」
「簡単だよ、セルマ」
「? …………あっ」
 唐突にライナスに抱き上げられてしまい、慌てたセルマが身じろぎをする前に近くの椅子に下ろされた。てっきり、このままベッドに連れていかれると焦ってしまった自分が考え過ぎていたことに赤面したセルマだったが、おもむろに自分の前に跪いたライナスの姿に今度は戸惑ってしまう。
「ライナスさま?」
「君の一番側にいる私が、君が早く慣れるように手助けするよ」
「手助け?」
 いったい何をするつもりだろうと不安に思っていると、
「セルマさま」
「……っ」
 いつもとは違った呼び方でセルマの名を呼んだライナスが手を取り、その甲に恭しく唇を押し当てるのを見て息をのんだ。
「私は、生涯の忠誠をあなたさまに捧げます」
「ラ、ライナスさま、やめてください。早く立ち上がって……」
「お気づかいなく。なんなりと私に命じてください」
「ライナスさま」
「セルマさま、どうぞ」
(こ、これって……)
 世話をされることに慣れないと言った自分の言葉に、ライナスは己がセルマに仕えるという手段を思いついたらしい。
 涼やかで誠実な雰囲気の容貌と接見の後の正装のせいか、なんだか自分が騎士に仕えられる姫になったような錯覚さえした。もちろん、その考えはすぐに消える。ライナスは本当の王子さまで、自分は―――。
「セルマさま」
「え……んっ」
 名前を呼ばれたセルマが伏せていた目を上げると、下からすくい上げるようにライナスにくちづけられていた。軽く押し当てられたそれはすぐに離れ、再び重なってきた時には舌で唇を舐められた。
 それが開くようにとの合図だと当然のように受け取ったセルマが薄く口を開くと、すぐにライナスの舌が入り込んでくる。積極的に絡められ、口中の唾液をすくい取られている間に身体の力が抜けてしまい、セルマは椅子から崩れ落ちないように必死にライナスの肩を掴んだ。
「ふ……んぅ」
 くちづけは長く、セルマを味わうように丁寧に舌で弄られる。もう慣れてもいいはずなのに、やはりいまだに恥ずかしくて、セルマは頬だけでなく全身に熱が走るような気がしていた。
「……セルマさま」
 やがて、ようやく唇を離したライナスが再び名前を呼んだ。もう仮初めの主従関係など続けなくてもいいのに、彼はもう一度セルマの手の甲にくちづけをして言う。
「ご命令を」
「……」
「……」
 綺麗な青い瞳の中にはからかうような色と共に、それ以上のセルマへの愛が溢れている。方法は少しばかり子供っぽいが、今は自分も少しだけ、そのお遊びに乗ってもいいのだろうか。
「……何でも、良いのですか?」
 セルマの言葉に、青い目が細められた。
「なんなりと」
「では…………」
 どんなことを命じたら、ライナスは喜んでくれるだろうか。激務があるというのに、いつだってセルマのことを第一に考えてくれる彼のことを、セルマだって喜ばせたいと思っている。
「……」
 セルマはライナスの頬に唇を寄せた。
「セルマ?」
 普段から、あまりセルマの方からくちづけなどしないせいか、ライナスはよほど驚いたらしくあっけないほど簡単に従者の役を降りてしまった。それが少しばかり残念だと思いながら、セルマは真っ直ぐに彼の目を見つめて言う。
「私を、ずっと愛してください」
「……」
「私より先に……死なないで」
 冗談めかして言うつもりが、声が少しだけ震えてしまった。
 大切な人を見送るのは一度だけでたくさんだ。心の中には常にあった思いだが、セルマを守ろうと思ってくれているライナスには言いにくかった。
 しかし、今はセルマの方が命じてもいいのだ。そう思うと、これだけは伝えたかった。
 ライナスは驚いたようにセルマの顔を見つめていたが、やがてその頬には不敵な笑みが浮かんだ。
「セルマさまの、お心のままに」
「……約束ですよ?」
「ええ。あなたとの約束は必ず守ります。だからあなたも、約束をしてくれますか? 私が死ぬ時に、あなたも一緒にその命の炎を消してください。あなたを置いて天に帰るのは絶対にごめんですから」
 セルマが考えた以上の熱烈な愛を感じる言葉に、ライナスの自分への想いの強さを確信する。本当にそうなればどんなに嬉しいだろう。いや、ライナスならば、きっとその言葉を違えることはないはずだ。
 嬉しくて何度も頷くと、不意にライナスが立ち上がり、再び身体を抱き上げられた。
「ですが、私もあなたも、多分ずっと長生きしますよ。子や孫に囲まれ、もうこの世に未練などないと思うその瞬間まで、二人手を携えて生きていきましょう」
「ライナスさま……」
「その前に、セルマさまのご命令はその一つだけではありませんね? 先ほどから愛らしく熱っぽい眼差しで私を見つめていますよ」
「え? ね、熱っぽいって、ライナスさま?」
 急に彼の声の中に、二人だけの時に聞く艶っぽい響きが含まれた。
「私が欲しいのなら、素直にそう言ってくださればいいのに」
 胸の中がじんわりと温かく、泣きそうに嬉しい思いでいっぱいになっていたセルマは、ライナスの楽しげな声に焦ってしまった。彼の向かう先が夫婦の寝所だということに気づいたからだ。
「お、お仕事はどうされたのですか? まだ夕刻にも間があるというのにっ」
「おや、セルマさまはいったい何時間私を離さないおつもりですか? ご心配なく、今の私の最優先事項はあなたの命令に従うことですから」
「す、すぐにリーズが戻ってきますっ」
「大丈夫。先ほど会った時、しばらく席を外すように伝えました」
「そんな、勝手にっ」
「いくら侍女とはいえ、主人の閨を覗かせるのは感心しませんよ。それに、私も可愛らしいあなたを他の誰にも見せたくない」
 何だかそれだけ聞けばセルマの方が我が儘を言っているようだが、ベッドに仰向けに寝かされ、身を重ねてくるライナスの方がどう見たって主導権を握っている。
「セルマさま、ご命令を」
「……っ」
(ま、まだそんなことを……)
 いったい何時まで主従遊びを続けるつもりなのかと呆れるが、ここで強引に突き放せない自分がいる。傍から見れば、どちらもどちらかもしれない。
「……くちづけを、ください」
 それならば、セルマも自分の気持ちに素直になりたい。
 恥ずかしくて少し赤くなりながら言うと、ライナスはすぐに叶えてくれる。そればかりではない。悪戯な唇はそのまま首筋に降り、強く吸われて愛の証を刻み付けてきた。
「んっ」
「他に、望むことはありませんか?」
 まさか、一つ一つセルマに言わせる気だろうか。
 とてもできないと思っていたが、結局ライナスに促されるまま、セルマは恥ずかしい要求を口にすることになった。


END

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