ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

金の魚

 最近、アマーリエがおかしい。
 心ここにあらずで、僕が話しかけても「え? ごめん、エリク。なんて言ったの?」と訊き返してくることも度々だ。あの村から助け出されてここで暮らすようになって一年ぐらい経つが、僕と一緒にいるときにそんなふうに上の空になってしまうことは今までなかったから、妙に心配になってしまう。
 今だって、ほら。
 楽しみにしているお茶の時間に、大好物の甘いお菓子を片手にぼんやりと手を止めている。
「アマーリエ、紅茶が冷めちゃうよ」
 指摘すれば、アマーリエはハッとして翠の眼をパチパチと瞬いた。
「あっ、本当ね」
「なんだかこの頃、ぼぅっとしてるみたいだね。どうしたの?」
「えっ、そう? えっと、きっとローレンツ先生の授業がおもしろかったから、その内容を思い出してて、そのせいかもしれないわ」
 取り繕うみたいにして慌てて紅茶を飲む様子に、僕は胸の中にザワザワとしたものが込み上げてくるのを感じた。
 ローレンツ先生とは、最近新たにアマーリエの家庭教師に加わった青年教師のことだ。アマーリエは次期ニュンベルグ辺境伯としてたくさんの家庭教師をつけられていて、政治や歴史、古代語などいろんなことを学んでいる。アマーリエの父君であるギルベルトさまに引き取られてから、僕もその授業を一緒に受けさせていただいている。
 ローレンツ先生はこのニュンベルグの気候や風土、そしてここに生息する動物や植物について教えてくれる先生だ。ニュンベルグを治める領主として、当然知っておかねばならない多くを、冗談を交えながらおもしろおかしく教えてくれるから、アマーリエも僕もこの先生の授業がだいすきだ。
 でもひとつ気になっていることがある。他の先生たちはもうお爺さんといってもおかしくない年頃なのに、この地方の牧師さんであるローレンツ先生はまだ二十代だ。なんでも先生のお父さんである先代の牧師さまが急死して、跡を継いだばかりなんだそうだ。
 威厳あるお爺さん先生よりも、明るく優しいローレンツ先生の方がとっつきやすいのは僕にも分かるんだけど、なんだかアマーリエはずいぶんと懐いているように見える。
 この間なんか、僕のいないところで内緒話のようなことをしていた。
 それがおもしろくない、と思ってしまう僕は、きっと贅沢者なんだろう。
 そもそも僕はアマーリエとは身分が違う。
僕は孤児同然だ。もしかしたらそれ以下かもしれない。ある村で虐待され迫害されていた僕を、視察に来たアマーリエが見つけてくれて、救い出してくれた。そしてそれを憐れに思ったギルベルトさまが引き取ってくださった。
その恩に報いるならともかく、やきもちを焼くなんて、そんな権利、端から僕にはないのに。
 そう自嘲しながら俯けば、ティーカップの紅茶の中に自分の歪んだ顔が映って、更に嫌な気持ちになった。
 そんな僕の憂鬱さに気づかなかったのか、まだなにか別のことに気を取られているようなぼんやりとした顔で、アマーリエがポツリと言った。
「エリクは、魚がすきよね」
「魚?」
 いきなり脈絡のないことを訊かれて、僕は面喰いながら首を傾げた。
「魚って、泳いでる方? 食べる方?」
「食べる方。魚料理だと、モリモリ食べるでしょう?」
「ああ……うん、まぁ」
 僕はこのお邸に引き取られるまで肉や魚といった動物をあまり食べたことがなかった。というより、まともな食事を与えられなかった。そのせいか、肉特有の獣臭さがどうにも苦手で、どちらかといえば魚の方がまだ食べやすい。
「料理長のモーリッツさんの腕がいいんだよ。モーリッツさんのお肉料理は、ちゃんと食べられるようになったもの。そういえば、この間の、アマーリエの誕生日のお祝いに出た、ニジマスのパイはすごくおいしかったよね」
 僕は他を知らないけど、この邸の料理人はとても腕がいいのだと言う。アマーリエの誕生日にはたくさんの御馳走が出て、その中でもそのパイは魚の臭みがほとんどなくて、本当においしかった。食が細いとギルベルトさまに心配される僕でも、おかわりをしたくらいだ。
 すると僕の言葉にアマーリエは顔を輝かせた。
「そうよね! きっとモーリッツなら、ちょっと変わった食材でもすっごくおいしく料理してくれるわ!」
 ちょっと変わった食材ってなんだろう……。
 若干の当惑と嫌な予感を抱えながらも、僕は目の前のキラキラしたアマーリエの笑顔に気持ちが一気に高揚して頷いた。
 それまでやきもちでモヤモヤしていたくせに、アマーリエの笑顔ひとつで吹き飛んでしまうのだから、我ながら簡単だなぁと思うけれど。

***

 その日の夕方、いつの間にかどこかへ姿が見えなくなったアマーリエを捜していた僕は、心配になってギルベルトさまの腹心であるブルーノさまに報告に行った。ギルベルトさまが王都へ行かれて不在の今、実質この邸はブルーノさまが取り仕切っている。
 ブルーノさまは眉間に皺を寄せて唸った。
「誰にも告げずにどこかへ行かれるなど……アマーリエさまらしくないですね」
 僕はこくりと首を上下に動かした。アマーリエは幼い頃から厳しいしつけと教育を施された少女で、自分の行動によって誰かに心配や迷惑をかけるような逸脱行為を滅多にすることはない。
 だからこそ、なにかあったのではないかと思ってしまう。
「国境警備軍の連中にも声をかけて、捜索を開始しましょう。大勢の方が早い」
 軍用地ニュンベルグを護る国境警備軍まで動員するなど大袈裟だと言われそうだが、主人の不在中にその令嬢になにかあっては一大事だ。
 僕もブルーノさまの意見に賛成だった。
 アマーリエになにかあったら、きっと僕はおかしくなってしまうだろう。
 アマーリエは僕の命より大切なひとだ。
 彼女がいなくなったら、僕は生きていけない。
 そう拳を固めたとき、ホールから庭師のオットマーさんの大声が響いた。
「おーい! 誰か来てくれ! お嬢様がずぶ濡れだ!」
 僕とブルーノさまは顔を見合わせて、ホールへと駆け出した。
 
 オットマーさんに抱えられるように立っていたアマーリエは、まさに濡れ鼠だった。急な雨でも降っていただろうかと窓の外を見ても、鮮やかな秋の夕焼けが見えるだけで雲ひとつない。アマーリエはなぜかニジマスを一匹、ハンカチーフに包んで持っていて、それを「料理長に渡して」とオットマーさんに渡していた。
 アマーリエは乳母によってすぐさま浴室へと連行された。その後、清潔な身なりに整えられた状態で、アマーリエは腰に手を当て仁王立ちになったブルーノさまの前に突き出された。
「それで? どうして誰にも告げず、そしてどこへ行かれたのか、あげくずぶ濡れになっておいでだったのか、教えていただけますかな?」
 にっこりと微笑んではいるが、怒りを隠そうともしないブルーノさまに、アマーリエは唇を尖らせたものの「心配かけてごめんなさい」とまずは謝った。
「魚を探していたの」
「魚? あのニジマスですか?」
「やだ、ニジマスは違うわよ。たまたま獲れただけ。私が探してたのは、金の魚。東の方の国には金色の魚がいるんですって。幸福の証だそうよ。淡水魚だってローレンツ先生は言ってたから、ユーリア湖にももしかしたらいるかもしれないと思って。湖の中をじっと目を凝らして探していたら、バランスを崩して落ちちゃったのよ」
 僕とブルーノさまはあんぐりと口を開けた。
 金の魚だって? そんなもの、ユーリア湖で見たことがない。そもそもそんな魚がいるだなんて、お伽話かもしれないのに。
「そんなばかげた話のために、お一人でユーリア湖に行き、そして溺れたと?」
「溺れてないわよ、失礼ね。落ちちゃったけど、ちゃんと泳いで岸に上がったわ。ちょっとドレスが重かったけど。水を吸うと布ってすごく重くなるのね。ちゃんと手足が動かなくて、驚いたわ」
 のんびりとした口調で話すアマーリエに、とうとうブルーノさまの怒声が上がった。
「それを溺れかけているというのです! まったく、助かったからよかったようなものを、なんだってそんな危険なことを! ユーリア湖に行くのなら、せめてエリクを連れて行けばよかったでしょう!」
 その通りだと思ったので、僕は口を挟まずじっとアマーリエを見つめた。いつもなら絶対に一緒に行こうと誘われたはずだ。なぜ今回に限って、僕を連れて行かなかったのだろう。
 ――ローレンツ先生と、なにか関係があるんじゃ……?
 そんな邪推に、胸の中が黒くなるのが分かった。
 アマーリエは金の魚の話をローレンツ先生から聞いたと言っていた。その話は僕も一緒に聞いていたので知っている。でも淡水魚だという話は覚えがないので、僕のいないところで先生に聞いたのだろう。
 今回僕を一緒に連れて行かなかったのは、もしかしたら先生と一緒だったのでは?
 イヤだ、と僕の全身が叫んだ。
 アマーリエの隣は、僕のものだ!
 誰にも渡したくない……!
 そんなことを思う資格などない。分かっていても、心のざわつきは止められない。
 アマーリエはそんな僕の心のうちを知ってか知らずか、ちら、とこちらに視線を投げて、すぐにそれを逸らした。なんだかモジモジとらしくなく手を組み替えている。
「……エリクには、内緒にしたかったんですもん」
 アマーリエから放たれた言葉に、僕は目の前が真っ暗になった。
 そうじゃないかとは思ったが、実際に彼女から直接下される拒絶に、心が悲鳴を上げた。
 だがすぐに、続けられた言葉にその闇はあっさりと塗り替えられた。
「だって誕生日の贈り物をその本人と探しに行くなんて、無粋じゃないの!」
 目を瞬いた。
 誕生日? 思いもよらなかった言葉に呆然とした。
 僕は自分の誕生日を知らない。誕生日どころか、名前すら与えられなかった。いつ生まれたのか、母親は誰なのか、なぜ僕は生まれたのか、なにも知らされず、家畜のように飼われていたからだ。
「誕生日ですって? エリクの、ということですか?」
 ブルーノさまにとっても意外だったのか、はて、という顔で首を捻っている。
「そうよ! だってエリクにも誕生日はあるはずでしょう? それが分からないのなら、私が決めてあげようって思ったの! エリクの誕生日の贈り物には特別な物をあげたかったから、幸福の金の魚を探してたの。金の魚を捕まえた日を、エリクの誕生日にしようって。でもなかなかいないから焦ってたのよ。このままじゃ冬が来て、今年中にエリクの誕生日を祝えなくなっちゃうもの」
「それにしても、魚とは……もっとなにかなかったんですか?」
 呆れたように嘆息するブルーノさまに、アマーリエもまた溜息を吐いた。
「だってエリク、なにかすきなものは? って訊いても、『アマーリエ』としか答えないんだもの。だからすきな食べ物くらいしか思い浮かばなかったのよ。それに、金の魚なら特別感があるじゃない? 幸福の印だって言うし、食べればきっと幸せになれるわ」
「そんな存在するかも分からないものを」
「だって東の国にはいるんでしょう? ここと同じ寒い気候だって先生が言ってたわ。ユーリア湖には銀色のニジマスがいるくらいだから、金の魚がいたっておかしくないじゃない?」
 湧き上げるこの感情を、僕はなんと言えばいいのかを知らない。
 嬉しくて嬉しくて、どうしようもなく泣きたい――――嬉しいのに、泣きたいだなんて、変だ。でもどうしようもない。
「金の魚なんて、要らない。僕には君がいるから」
 震える声でそう言えば、アマーリエが目を丸くして僕を見た。
「エリク。やだ、どうして泣くの」
 僕は泣いているのだろう。目から熱いものが零れ落ちている。
 アマーリエは僕の傍に駆け寄り、オロオロと僕の両手を取った。
「金の魚なんて要らない。君がいてくれれば、僕は幸せだから……!」
「エリク……!」
 アマーリエはボロボロと泣く僕を、ぎゅっと抱きしめてくれた。
 華奢で小さなアマーリエの身体。でも僕の身体は、それよりも二回りも小さい。これまでの栄養失調のせいだろうと、ブルーノさまに言われたことがある。
 ――でも、いつかきっと、君を護れるようになるから。
 君のために、強くなる。
 僕は君のために生きよう。君のためならなんでもしよう。
 ――だから、傍にいさせて。
 君を想い続けることを、どうか赦して。
 たとえ、いつか離れなくてはいけないとしても。


 そしてこの秋の日が、僕の生まれて初めての誕生日となった。
 その日の晩餐に金の魚はなかったけれど、代わりに出た銀のニジマスのパイの味は、きっと一生忘れられないだろう。

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