ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

花の番人

 ひどく冷える朝、ドラークは寝台のなかでひとり目を覚ました。
 この肌寒さは、昨晩から降りしきる雪のせいだけではない。
 隣で眠っているはずの人が、敷布の上に消えかけの温もりだけを残して姿を消していたからだ。
 ドラークとソフィアが僅かばかりの供を連れて城を旅立ってから、はや一年近く。長くひとところには留まらず、貴族の若夫婦の道楽旅行を装って各地を渡り歩いている最中だ。
 旅のあいだは必ず毎晩同じ寝台で抱き合って眠っているが、先に起きたドラークが腕の中のソフィアの寝顔を見つめているのが常だった。
 しかし、今日は違う。
 ドラークは素早く身を起こし、ガウンを肩に引っかけて室内を窺う。ソフィアの気配はどこにもなく、彼女の外套や長靴もあるべき場所から消え失せていた。
 それに、寝室の窓の外から、なにやら賑やかな、無邪気な声がいくつも聞こえてくる。何人かの子どもの声に混じる、聞き慣れた澄んだ声。
 カーテンを上げて外を見れば、一面の銀世界だった。
 ドラークは硝子窓の向こうの光景に一瞬だけ呆けてしまう。
 ソフィアが、窓の真下の路地で、何人もの子どもとともに雪玉を投げ合って遊んでいた。
 一緒にいるのが旅籠で働く者の子どもなのか、はたまた旅籠の客の子どもなのかはわからないが、彼らは何の隔てもなく、容赦もなく、互いの頭や顔にも遠慮なく雪玉を投げあっていた。
 ソフィアは手袋を嵌めてはいるが、地面の雪を丸めて固めるのはさぞ冷たいだろうし、雪玉をぶつけられるのも痛くないはずがない。
 ドラークはぐっと拳を握りしめる。
 けしからん無礼だと、子どもたちを咎めることは簡単だ。
 しかし、ソフィアは絶対にそれを望まない。
 ドラークはこの旅を通して痛切にそれを実感していた。
 城を出てすぐの一月は海の向こうの異国で過ごしていたふたりだったが、すぐに揃って密かに帰国し、公国の西方を皮切りに見聞を広める旅を始めた。
 最初に西の辺境を訪れたのは、ソフィアが強く望んだからだ。ソフィアは、辺境伯が治める城下町だけではなく、ドラークが十四まで過ごした僧院にも行きたいと強く希望した。ドラークの父親代わりともいえる僧院の院長と対面し、彼がかつてドラークにも話した赤毛の先祖返りに関する話に聞き入っていた。
 そうして西方、南方、東方をと国内をぐるりと一周し、ふたりは今、公国の北の街にある大きな旅籠に滞在している。
 この旅はソフィアが、ドラークを水先案内人として、ネルドラン公爵から餞に贈られた注釈つきの地図を片手に、これまで書物で学んできたことをその目で確かめるためのものだった。
 ソフィアと会えなかった六年のあいだ、ドラークはさまざまな任務のために国中に赴き、そこで見聞きしたことをいつかきっと余さずソフィアに話してやろうと胸に秘めていた。
 道中を片時も離れず過ごしているというのに、語らう時間が足りないと感じられるほどに、ソフィアはこれまでの反動なのか、物怖じせずいろんなところに行きたがり、寸暇を惜しんで人と話したがり、新しい何かを体験したがった。
 また、ソフィアはいつも、人々が行く先々でドラークの赤毛を見てぎょっとした顔を見せるのを気に病んでいた。道中で立ち寄った孤児院に赤毛の子どもがいるのに気づけば、一番に駆け寄って声をかけていた。
 宿で羽を休めているあいだも、出会った人たちに何通も手紙を書き送っていたかと思えば、どこかから手に入れた本を読みふけっていたりする。
 よくよく考えれば、好奇心の強さの片鱗は昔からあった。
 グライス号と初めて対面したときもは危険なほど無防備に馬に近づいていったし、ドラークの騎馬試合を見るためにひとりで廃宮を抜け出したこともあった。
 今、雪遊びに興じているのもそうだ。
 ソフィアは十八歳まで、ほとんど城の廃宮から出る事なく育った。接する相手は、ドラークの他には、ばあやと口の利けないじいやだけで、年下どころか同年代の子どもと会う機会すらなかったのだ。
 日の光を浴びられないために朝昼に出歩くこともなく、病がちだったので雪に触ったこともなかったに違いない。
 ひょっとしてソフィアは昨晩のうちから、こっそりと早起きをして雪を見に行くつもりでいたのだろうか。
(お止めすることはないから、せめて、話してくださってもよかったのに――)
 ドラークは複雑な思いで窓の外を見下ろしていた。



 ソフィアが戻ってきたのはそれから半時ほど経ってから。
 部屋に朝食が運ばれてきたのとほぼ同時だった。
「ドラーク、起きていたの」
 静かに出迎えたドラークに向かって、ソフィアは弾む息で言った。いつもは透けるほど白い頬、耳、鼻までも真っ赤になっていた。その目は潤んできらきらと輝いている。
「ひょっとして、窓から見ていた?」
 頷いてやると、彼女はいっそう赤く頬を染めた。
「昨日の夜から、雪が積もったらきっと見に行こうと思っていたのよ。見るだけのつもりだったのに、誘われて子どもと一緒に雪遊びまでしてしまったわ……」
 小さな両手を両頬に当てる仕草も愛らしい。
 ドラークはただ、ソフィアが昨晩から小さな企みを胸に抱いていたのに気づけなかったことが少し悔しかった。
 そして、彼女が小さいくしゃみを繰り返しているのと、軽く洟をすすっているのも気に掛かる。
「寒かったでしょう。朝食を食べて、暖炉で暖まってください」
 ドラークがそう促すと、ソフィアは素直に頷いた。
 部屋着に着替え、温かい朝食を食べても、ソフィアの頬から赤みはひかず、くしゃみもなかなか収まらなかった。
 幸いに今日は雪のために動けなかったので、一行は旅籠でゆっくりと過ごすことにした。
 昼を過ぎる頃になると、本の頁をめくるソフィアの手が止まりがちになってきた。
 眠そうにしている彼女に気づいたドラークは、その額に手を当ててみて驚いた。
「熱が出ているではないですか」
 ソフィアは黙って小さく頷いた。
「すぐに横になってください。ほら」
 と、ドラークは供の者に飲み物の用意を命じながら、ソフィアを抱き上げ、寝台まで運んだ。
 ソフィアはおとなしくされるがままに寝台に横たわった。
「どうしてこんなになるまで誰にも言わなかったのです?」
 ドラークは彼女に毛布をかけてやりながら、我知らぬうちに、少し険しい声音で言ってしまっていた。自分でもわかっているが、置いて行かれたことに少し苛立っていたせいでもあった。
「……子どもみたいで恥ずかしかったんだもの。雪で遊んで熱を出すなんて……」
 ソフィアはばつが悪そうに目を逸らす。
 しかし、すぐにその表情があどけないものになった。
「でも、ドラークにこうやって心配してもらうのは、久しぶり」
 恥じらうようにそう言って、ソフィアが頭まで毛布を被ってしまう。
 ドラークは思わずその仕草に苦笑した。
 ふたりはそのあと、この旅でほとんど初めてといっていいほどにゆったりと過ごした。
 ソフィアは毛布にくるまってうつらうつら眠り、ときどき目覚めてはまた無心に休んだ。ドラークはソフィアの額に固く水を絞った手巾をのせてやったり、飲み物を飲ませてやったりした。
 まるで、七年前の幼い日、廃宮で過ごしたときのようだった。
 ソフィアとドラークがふたりきりだと錯覚してしまうほどだった。
 冬が終われば、この旅も終わる。
 城に戻った彼女は、名実ともに大公の世継ぎとして人前に立つことになる。
 ソフィアがこれから背負わねばならないものは果てしなく大きく、重い。ドラークとネルドラン公爵が力を尽くしてソフィアを支えることは言うまでもないが、彼女がそれに重圧感を覚えて、少し無理をしてしまっているのではないかと心配にもなる。
 いや、そんな考えはおためごかしにすぎない。ソフィアが本来の地位を取り戻すことは、ドラークにとって何よりも誇らしいが、猛烈に寂しいことでもある。
 ドラークはソフィアを独占していたいのだ。
 いつまでも、ドラークに守られるか弱い姫でいてほしいだけだ。
 そんなつまらぬ邪念が浮かび、ドラークは自分の狭量さに気づかされて自己嫌悪に陥ってしまっていた。



 夕食の時間が近づいたころ、外から軽く扉が叩かれた。
 ソフィアに手紙が届いたというのだ。
 代わりに書簡を受け取ったドラークは、その差出人の名を見て驚いた。
 僧院の院長からソフィア宛ての手紙だったのだ。
 手紙を手にしたまま立ち尽くしているドラークに気づいて、寝台のなかのソフィアが声をかけてきた。敷布に手をついて半身を起こしかけている。
「もしかして、院長先生からの手紙なの?」
 ドラークが頷くと、ソフィアはぼんやりとしながらも微笑んだ。
「よかった。ずっと待ってたの」
 いつの間に、何のために、手紙をもらう約束をしていたのだろうか。
 ドラークの心に、驚きと、僅かばかりの嫉妬がわき起こる。
「もう、起き上がって大丈夫なのですか。――差し支えなければ、読んで差し上げましょうか」
 正直に言うと、中身を知りたいという思いがあった。ソフィアが旅の初めの地にあの場所を選んだことも気になっていたからだ。
「じゃあ、お願いするわ」
 ソフィアは安心したようにそう言って、枕に頭を預けた。
 ドラークは少し緊張しながら書簡の封を切り、分厚い便せんを開く。
 先日の訪問の礼から始まった手紙の本題は、ドラークが思いもかけないものだった。
 僧院の院長は、先祖返りによって希に生まれる、赤毛の存在について記していた。聖教の教えで語られているような、前世での罪業によって生まれるものでは決してないのだと。長年の研究について、院長自身の立場を気にすることなく、発表してもらってもかまわないとまで書かれていた。
 最後まで聞き終えたソフィアは、ほっとしたように目を閉じた。
「よかった。僧院で話を聞いたあと、何度もお願いの手紙を書いていたの。いつになるかは約束できないけれど、必ずわたしが責任を持って公表するから、研究の成果を預けてくださいって」
 きっとこれが、彼女が一番に西の辺境に行くことを望み、僧院の院長に会いたがった理由だったのだろう。
「院長先生にもお立場があるから、決断していただくのはとても勇気のいることだったと思うの。ほんとうに嬉しいわ……」
 彼女の行動は、ドラークのためだ。
 そしてきっと、この国のすべての赤毛の人のため。そして、いつかソフィアとドラークのあいだに生まれるかもしれない子どものためでもある。
 ソフィアの心は強い。おそらく、ドラークが推し量れるよりもずっと。
 ドラークは胸が詰まって言葉にならなかった。
 あまりに手に力が入りすぎ、手紙に皺が寄ってしまったのにも気がつかなかったほどだ。
「ソフィアさま――」
 ドラークは手紙を枕元に置いて、横たわるソフィアを壊れもののように抱きしめた。
 いつもより体温の高いソフィアの手が、確かな力で抱きしめ返してくる。
 ドラークは、ソフィアに初めて会った日のことを思い出していた。
 彼女が最初に自分に与えてくれた務めは、鉢植えの花を庭の日の当たる場所に動かしてやることだった。
 何ともあっけない、容易すぎて仕事とも呼べないような仕事だった。
 今、ドラークはあれと寸分違わぬ、しかし、何よりも重要な務めを与えられている。
 ドラークは、世継ぎでありながらこの国のなかで最も外の世界を知らなかった彼女に、この国を見せて回っている。
 ソフィアという花をひなたに連れて行き、そして城に連れ帰るという、自分以外の他の誰にもできない番人の役目だ。
 その役目の大きさと誇らしさに、胸が高鳴る。
 ドラークはソフィアの髪を撫で、その熱い額にくちづけた。
 勢いのままに唇を合わせると、彼女はくすぐったそうに身をよじり、くすくすと笑った。
「風邪を移しちゃうわ」
「……望むところです。そうしたら、もう一日こうしてあなたとゆっくり過ごせる――」
 ドラークは高揚に掠れる声で囁きながら、ためらうことなくくちづけを深めていった。

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