ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

繋いだ手

 寄港した港で船から降り、フェリシアは数日振りに大地を踏み締めた。
 豪華客船での旅は趣向を凝らしたパーティーや演奏会などがあって飽きることはなかったけれども、それでも地面が恋しかったのだと思い知る。思わずほっと息を吐き、背筋を伸ばした。
「疲れたかい? フェリシア。少し休もうか?」
 隣に立ったエセルバートに気遣われ、慌てて頭を振る。今日の彼は普段よりも軽装で、青天の下、白いシャツとグレーのベストがフェリシアの眼に眩しく映った。
「いいえ、大丈夫です。せっかく来たのですもの、色々見たいです」
 吸いこんだ空気は故国のものよりも少し熱く、スパイシーな香りが混じっている。香辛料か植物か、何かは分からないけれども生まれてから一度も国を出たことがなかったフェリシアの好奇心を刺激するには充分だ。疲れたなどと言ってはいられない。
 新婚旅行で旅立って、行程は半分を過ぎていた。まだまだ残りの日数はあるけれども、既に折り返し地点かと思えば寂寥も募る。しかしいつもは仕事で忙しいエセルバートが、この旅の間はフェリシアだけのものだ。朝から晩までいつも傍にいてくれて、優しく気遣ってくれる二人きりの世界。まるでお姫様になったかのような心地に酔いしれつつ、この旅のあとちゃんと常に戻れるのかと危惧していた。
 ずっと一緒にいられ、甘やかされることに慣れてしまえば、いざ一人にされたときに耐えられないかもしれない。そんなことを恐れつつ、フェリシアはエセルバートの腕を取った。
「行きましょう。ここは珍しい果物が有名だと聞きました。私とても楽しみにしていたんです。是非食べてみたいので、購入してもよろしいでしょうか……?」
 強請るように見上げれば、彼は柔らかく微笑んでくれた。フェリシアが大好きな優しく包み込んでくれる表情で、受けとめてくれる。
「ええ、お好きなだけ買って差し上げますよ。でも、お腹を壊さないでくださいね」
「酷いわ、エセルバート様。私、食べすぎたりしません」
「どうですかね? 昔はお菓子を食べすぎて食事がとれなくなったことがあるとアレンから聞いていますよ」
「それは……っ、い、一度だけですよ」
 フェリシアが真っ赤になって抗議すれば、「一度はあるのですね」と返された。どうやらかまをかけられたらしい。
「もう……! どうしてそんな意地悪をおっしゃるのですか」
 悔しくて握り締めた拳を、上からそっと握られた。そして尖らせそうになってしまった唇へ啄むキスを贈られる。
「すみません。貴女があんまり可愛らしいから、からかいたくなってしまいました。でも嘘ではありませんよ? 昔アレンに聞いていて、食卓で困っているフェリシアを僕も見てみたいと思っていたのです。きっととても愛らしかったでしょうね。今みたいに」
 そう言われてしまえば、いつまでも膨れているのは躊躇われる。むしろ温かな気持ちになって、フェリシアはエセルバートに身を摺り寄せた。
「今はそんな真似はいたしません。だって、エセルバート様と一緒にとる食事の方がずっと大切ですもの。お菓子とは、比べものになりません」
 分かって欲しいことはきちんと言葉にしなければ伝わらない。そのことをよく知っているフェリシアは、彼の耳へと息を吹きかけた。
「貴方を、誰よりも大切に想っているから」
 結婚して、一番変わったのはフェリシアかもしれない。それまでは、自分の意思や希望を言葉にするのが苦手だった。ましてや、「これが欲しい」なんて口が裂けても言えやしない。いや、言ってはいけないと思っていたのだ。誰にも、迷惑をかけたくなかったから。
 年を経るにつれ本心を押し殺すことが上手くなり、やがては黙って耐えていれば嵐は過ぎると姑息なことさえ考えるようになっていた。けれどそれは間違いだったと思い知り―――今は、むしろフェリシアの我が儘を喜んで聞いてくれる人が隣にいる。それがどれだけ心強く、また奇跡に等しいことか。
 愛しい夫の手を取って、フェリシアは歩き始めた。
「早くしなければ、あっという間に出航の時刻になってしまいます。行きましょう、エセルバート様。楽しみですね」
「貴女に手を引かれて歩くのは、初めてですね」
 以前は逆だった。暗闇の中、道標はいつだってエセルバートの存在だった。彼が寄り添い、手を引いてくれたから、今のフェリシアがここにいる。とても辛いことだってあったけれど、いつの間にか離れてしまっていた手を繋ぎなおしてくれたのだから、もう恨むことはしていない。いや、最初からエセルバートに負の感情など抱いてはいなかった。今ならば、それがはっきり分かる。
 フェリシアはいつだって、彼を嫌わなくていい理由を探していたのだから。酷い言葉や態度の裏に優しいエセルバートを探し、沢山の思い出を大切に抱き締めていた。そこまでして守りたかった気持ちの名は、問われるまでもなく分かっている。
 その後約束通り市場へ行き、フェリシアは思う存分目的の果物を食べた。とくに酸味の強いものが美味しくて、慣れない船旅のせいかここ数日食欲は落ちていたのに、自分でも驚くほど口にしてしまった。大満足で船へ帰る途中、神妙な面持ちのエセルバートが何故か不安げにこちらを窺ってくる。
「……大丈夫ですか?」
「少しお腹が苦しいですけれど、お夕食が食べられないほどではないですよ?」
 やはり食べすぎだと呆れられてしまったのだろうか。若干焦りながらフェリシアが言えば、彼の顔色がさっと青ざめた。
「お腹が……苦しいですって?」
「え、大丈夫です……きゃあッ!」
 言い終る前にフェリシアはエセルバートに横抱きにされていた。突然の浮遊感に慄いて彼の首に抱きつけば、真剣な眼差しを返される。
「すぐに船医に診てもらいましょう。気分は悪くありませんか?」
「ほ、ほんの少しだけ……」
 嘘は言えないので正直に答えれば、ますますエセルバートの表情は険しくなった。それはもう、二人がすれ違っていたあの頃よりも怖い顔だ。
「え、エセルバート様?」
「今すぐこのまま帰りましょう。一刻の猶予もありません」
「このままって……」
 船が停泊している港から市場は大した距離ではないにもかかわらず、エセルバートはフェリシアを抱いたまま大通りに出て素早く馬車を手配した。そうして乗り込んだ後も、腕に抱えて放そうとはしない。自らに寄りかからせ、頭を起こすことさえ許そうとはしなかった。
「あの……エセルバート様……」
「どうしました? まさか体調がもっと悪くなったのですか? この揺れがよくないのですか?」
 市場へ来るときもあちこち冷やかしながら歩いてきたのだから、当然帰りもそうだと思っていた。それなのに僅かばかりの距離をどうして馬車に乗っているのか。そうフェリシアは問いたかったのだが、彼の剣幕に押され口を噤むしかなかった。どうやら自分の身体を心配してくれているようだが、ただならぬ気配を感じる。いったいどうしたのだろう。正直に言えば、少し怖い。
 そのまま何も聞けぬまま港へと到着し、エセルバートは相場よりもかなり多めに料金を支払ったらしい。近距離で無愛想になるかと思っていた御者はホクホク顔で去っていった。残されたフェリシアは再びエセルバートに抱き上げられて、自らの脚で歩くことなく客室へと戻ることになる。壊れ物を扱う慎重さでベッドに寝かされ、恭しく掛布に包まれた。
「このまま安静にしていてください。すぐ医師を呼んできます」
「え、そこまでしていただくほどではありません」
 彼から見て、そんなに尋常ではない量を食べてしまったのだろうか。大喰らいの妻だと思われたら恥ずかしくて死んでしまう。ましてお医者様など大袈裟だ。
「も、もうお腹もだいぶ楽になりましたから!」
 そう主張しても、エセルバートの憂いは払拭できなかったらしい。しばらく医師を呼ぶ呼ばないで押し問答していると、唐突に彼が叫んだ。
「そんなことを言って、万が一お腹に子供がいたら、どうするのですか!」
「……え?」
 想像もしていなかった台詞にフェリシアは眼を見開いた。そしてその可能性が皆無ではないどころか、限りなく高いことに気がついて言葉を失う。無意識のまま触れた下腹部は平らなままだが、急にその奥にある場所を意識してしまった。そこは、新しい命を宿す部屋。神聖なそこに、もしかしたら……
「私は、二度と貴女を失う恐怖に耐えることはできません」
 握られた手が、微かに震えていた。眉間に寄せられた皺は一見不機嫌にも見えるが、今のエセルバートは不安に耐えているだけだとフェリシアには分かる。だから大丈夫だという意味を込めて、心の底から微笑みを浮かべた。
「私も、同じ想いです。私にとってエセルバート様は光そのものですもの。貴方がいれば、漆黒の闇も怖くはない。ですから、私はどこにもいきませんよ? 安心してください」
 力の抜けた彼の拳を裏返し、手の平を上向かせた。そこへ二人だけに通じる合図をおくる。綴られたのは文字ではない。ただの一本の線で、心を繋げるは充分だった。
「お医者様を呼んできてもらえますか? 念のため確かめてもらうことにします。でも、慌てて怪我などしないでくださいね」
 エセルバートが慌てふためいて失敗をおかす姿は想像できないけれども、フェリシアのことに関してだけ彼は我を忘れてしまう。それは長年にわたってエセルバートを傷つけ続けた鈍感な自分のせいではあるが、一応は釘をさしておく。すると彼は、少しだけ冷静さを取り戻してくれたらしい。照れた頬が赤らみ、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……私の妻は時折予想外の反撃をしてきますね」
「だって、夫婦ですもの」
 これから先の一生を共に生きてゆくと決めた相手だから、誰よりも心を許せる。他の誰にも見せられない一面だって、晒すことができる。そう言外に込めれば、漸くエセルバートは強張った表情を和らげてくれた。そして、恐る恐るフェリシアの下腹部へと触れる。
「……仮にここに、私たちの子供が宿っていたら、フェリシアは喜んでくれますか?」
「当たり前です。エセルバート様の子供なら可愛いに決まっています。叔父様とリースリア様との間に赤ちゃんが生まれて以来、ずっと羨ましくて堪らなかったんです」
 いつかは自分もと羨望をもって眺めていたのを打ち明けて、フェリシアはお腹にあてられたままの彼の手に自分の手を重ねた。もしかしたらと思えば、途端に己の身体が愛おしいものへと感じられる。
「私も同じです。けれど、もう少し二人だけの生活を味わいたかったという贅沢な悩みもあります」
「エセルバート様ったら……」
 苦笑しつつ、フェリシアも全く同感だった。相反する未来を予想しつつ、溢れる幸福感を噛み締める。幸せすぎる我が身に感謝して、彼と額を合わせて笑った。
 きっとどちらの結果が出ても、長い目で見れば何も変わらない。フェリシアはずっとエセルバートとの隣にいるし、いつかは家族が増えてゆく。子供は沢山欲しいし、いずれは孫にも囲まれるかもしれない。大勢の人たちに見守られ、彼と共に老いてゆく。
「……愛しています」
船室の中にはエセルバートが手配してくれた黄色い薔薇が飾られている。香しい香りの中で、フェリシアとエセルバートはどちらからともなく口づけを交わした。

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