ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

聖なる名前

 この氷の刃で尚子を斬ったらどうなるだろうか。
 皓紀は抜き払った日本刀の切っ先を目の前の女に突きつけながら、酒の濁った酔いの淵で妄想に耽った。
 斬る場所によっては、あっさりと死ぬだろう。どこを斬ったとしても、肉が裂け血が噴き出て、その肌には一生残る傷ができる。
 尚子の体に自分が刻んだ傷が永遠に残る──その甘美な空想に、皮膚の下の血管が膨れ上がり、己の肌があかあかと火照るのがわかった。
 尚子は痛い思いをするだろう。生涯忘れられぬほどの恐怖を覚えるだろう。よしんば死んでしまったとしても、尚子が最後に見つめていたのは自分なのだ。尚子という魂は、最後に向き合った人物をその網膜に焼き付けたまま、活動を停止する。彼女の最後の記憶には、自分しか残らない。どう足掻いても、その映像を消すことはできないのだ。
 けれど死んでしまわずとも、それほどの深い衝撃を刻み込まれれば、もう二度と、忘れることなどないに違いない。心まで食い込む傷となって、それは彼女を蝕み、彼女の中で永遠に生きてゆく。
(いや──俺は、忘れて欲しかったんじゃないのか。尚子がすべてを忘れていて、誰より安堵したのは、他でもない俺ではないのか)
 アルコールで輪郭を失った理性が、己の矛盾を把握し切れず混乱する。
 自分は、どうしたいのか。忘れていて欲しいのか、思い出して欲しいのか、それとも。
 はたと我に返ると、目の前の女は凍りついたように微動だにせず、ただ皓紀を凝然と見上げている。
 一瞬、死んでしまったのではないかと思うほどの蒼白い顔で、呼吸をしていないかのように硬直していたので、皓紀は自分がすでに尚子を斬ってしまったのではないかと錯覚した。
 だが、刀はただ、冴え冴えと月光の滴るが如くに輝き、そこに血潮の色はない。
 尚子は、生きているのだ。
 命を落とさず、傷もなく、ただ生きて、呼吸をしているのだ。
(そうだった……)
 酔いが静かにさめていく。
(俺は、尚子を殺すことなどできない……)
 皓紀は刀を鞘に納め、冗談だと言って部屋を後にした。途中で使用人とすれ違ったが、彼らは用を言いつけない限り主人に干渉することはない。この屋敷にいる人間たちは皆透明人間だ。ただ尚子一人だけは、鮮やかな色彩にいろどられている。彼女だけは自分にとって特別な存在なのであり、たとえどのような状況になっても無色透明になることはないのだろう。
 水を飲んでシャワーを浴び、着物を引っ掛けてベッドに仰臥する。まだ手に刀を抜いたときの、鞘から刀身を抜き放つあの感触が残っている。
(あのときに、尚子を斬っていたらどうなっていたんだろう)
 それは夢想の中でのみ許される問答だ。実際、皓紀は尚子を斬ることはできなかった。尚子を殺せば自分も死ぬ。だが、それはそれで幸福な結末だったのかもしれない。この先満たされない想いを抱えながら、ただ徒に時を重ねて行くよりは。
 けれど、皓紀には予感があった。この息詰まる状況が永遠に続くことはない。それはいずれかの方向に向かうことで終わりを告げる──その一方に、今夜皓紀は傾きかけていたのだ。
 皓紀は己の衝動を止めることができない。これは昔からの傾向で、周囲には宝来家にかけられた呪いゆえなどと吹聴する者もある。それを否定する気はない。確かに、記憶にある限り、祖父も、父も、呪われているとしか思えない恐ろしい所業に手を染めてきた。
 今夜皓紀が握ったあの日本刀は、すでに清い体ではない。かつて、真紅の血を幾度となく吸った業物なのである。
 この呪われた衝動をすんでのところでこらえられたのは、なぜなのだろうか。皓紀の瞼の裏には、青ざめた顔の尚子が浮かび上がっている。
「尚子……」
 口にしてみれば、先ほどの行為を裏切るように、なんという甘さに満ちていることか。皓紀は尚子を失えない。手放せない。生まれたときから常に傍らにあり、すでにこの身の半身となっているのだから。
 それにもかかわらず、どうしてこの衝動を、尚子を傷つけたいという欲望を、どうしようもできないのか。
 皓紀にはわからない。愛おしいものを破壊した後に訪れる絶望は、どれほどこの心を抉るのかということを確かめてみたいのだろうか? その後には確実に自分自身の死が待っているのだから、それは自殺行為に他ならない。自分は、死にたいと思っているのだろうか。尚子を殺して、自分も死んでしまいたいと──。
 気がつけば、皓紀は頬を涙で濡らしながら自らを慰めている。こんな妄想に耽りながらこんなに硬くしてしまうとは、やはり自分は呪われているのだ。
 心中は甘美な終着点だ。完全なる二人の世界。今生での苦しみを強制的に終わらせ、尚子と二人で別世界に旅立つ──それは理想的でもあり、また逃避でもあった。
「尚子……」
 再びその名を口にする。紛れもない愛おしさに満ちた声。
 そう、本当は二人で生きていきたい。生きて幸福に微笑んでいる尚子が見たいのだ。
 けれど、現実の尚子は皓紀を見て怯えた顔をする。やがてその感情すらも消え失せ、以前のように無表情になってゆくのだろう。
 皓紀にはそれが耐えられない。耐えられないからこそ──。
「っ……」
 手の中で、欲望が爆ぜる。浅ましく濡れた手の平を眺めながら、皓紀は薄く笑う。
 溜まっているものはこうして抜いてやらなければいつか勝手にあふれ出す。だから自分は尚子を虐げているのだろうか。彼女を殺してしまわないように。生きていてくれるように。
 それでも、心に漂う霧は晴れない。この息苦しさをどうしようもない。
 尚子、尚子──。
 皓紀は幾度も呟き続ける。自分を苦しめるこの名前が、また同時に、自分を救ってくれるのだと信じ込んでいるかのように。

一覧へ戻る