ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

側室の新しい日常

「今日からレイスリーネ様の侍女が一人増えることになっております」
 レイスリーネが、年配の侍女であるセラから聞かされたのは、お茶会の折に庭でグレイシスに剣の相手をしてもらってから一週間後のことだった。
「侍女が? でも私は自分のことは自分で一通りできるから……」
 暗に必要ないと告げたのだが、セラは首を横に振った。
「レイスリーネ様。確かにレイスリーネ様は何でもお一人でやってしまわれますが、お忘れですか? 陛下の御子を身ごもっておられるのですよ。今はまだ動けても、これから先は一人で支度するのは困難になると思います」
「セラたちがいるから大丈夫よ。動けなくなったら人手を借りればいいのだし」
 レイスリーネの住むアデラ宮は規模に比べて働いている人間の数が極端に少ない。元々は前国王の側室だったレスリーを殺害した犯人を突き止めるために、容疑者となる人間だけをレイスリーネの周辺に配置させていたからだ。かつてレスリーに仕えていた者以外にも使用人はいたが、犯人を油断させるためにその人数は極度に抑えられていたのだ。
 今は犯人が捕まり、アデラ宮の使用人を増やさない理由はなくなったのだが、レイスリーネ自身がその必要性を感じていなかった。
 軍隊にいたこともあり、レイスリーネは自分の世話は自分でできるし、必要になったらなったで今まで通り他の部署から人員を借りればいいと考えていたからだ。
 ところがセラはまた首を横に振った。
「レイスリーネ様が私たちを信頼してくださっているのは嬉しいのですが、私たちももう年ですわ。若い時のように俊敏に動けるわけではありません。もしレイスリーネ様が突然倒れたりしても、とっさに受け止められないかもしれない――それで万一のことがあれば、私たちは陛下や亡きレスリー様に申し訳が立ちません」
 それに、とセラは厳かな口調で続けた。
「レイスリーネ様に新しい侍女をつけることは陛下のご命令なのです」
「陛下の?」
 レイスリーネは目を見張った。イライアスとは毎日のように顔を合わせているが、彼はそんなことを一言も言わなかったからだ。
「新しい侍女はレイスリーネ様の護衛も兼ねているそうです。私たちの安心のためにも、ぜひともお傍に置いてくださいませ」
「分かったわ。セラ、あなたがそう言うのなら……」
 それでセラや他の者たちも安心できるのなら、そう思いながらレイスリーネは頷いた。セラはホッとしたように笑う。
「よかった。では呼んで参りますね」


 やってきたのは二十歳くらいの若い女性だった。青い目をした、すっきりとした顔だちの美人で、こげ茶色の髪をきりっと結い上げた姿はとても有能そうに見えた。
「初めまして、レイスリーネ様。アンと申します。これからよろしくお願いいたします」
 ハキハキとした口調でアンはそう言うと、頭を下げる。その所作は完璧だった。
「アンはフェイマール宰相様の親戚筋の者だそうですよ」
 横からセラが説明を加えた。
「まぁ、テオバルト宰相の?」
 なるほどとレイスリーネは思う。イライアスの懐刀とも呼ばれるあの宰相の親戚ならば、この落ち着いた立居振る舞いも納得だ。アンは外見だけでなくきっと中身もかなり優秀なのだろう。
 レイスリーネはにっこり笑いながら朗らかに言った。
「アン、これからよろしく頼みますね」
「はい。誠心誠意をこめてお仕えいたします」
 生真面目に答えるアンを見ながらレイスリーネは不思議な既視感を覚えていた。宰相の親戚には会ったことがないのは確かなのに、どうにも見覚えある気がしたのだ。
「以前どこかで……」
 言いかけた時、控えめなノックの音がレイスリーネの自室に響いた。
「申し訳ありません、レイスリーネ様。そこにセラはおりますか? ローレンが今晩のメニューについて相談したいと申しておりますが……」
「いけない。相談に乗ると約束していたんでした」
 セラは慌てたように言うと、レイスリーネに頭を下げる。
「しばし席を外しますが、よろしいですか? レイスリーネ様」
「もちろんよ」
 以前ここの使用人の頭をつとめていたティーゼがいなくなり、その役目を引き継いだセラは、かなり多忙になっていた。そのこともあって、アンをレイスリーネの侍女として雇うことにも積極的なのだろう。 
 他の使用人も、そのセラを補助しながらこの広い屋敷を維持するためにいつも忙しく働いている。レイスリーネが使用人の補充は必要ないと思っていても、他の使用人はそう思っていないのだ。
「すぐに行ってあげて。私のことは大丈夫だから」
「申し訳ありません。アン、レイスリーネ様のこと頼みましたよ」
「はい」
 セラはアンが頷くのを確認すると、もう一度レイスリーネに頭を下げて部屋から慌ただしく出て行った。
 ――だめな主人だわ、私は。忙しいのは分かっていたのに、皆の負担のことを考えずにいたなんて。
 扉を見つめながら猛反省していると、アンがくすっと笑いながら口を開いた。けれど、そこから出てきた言葉も声も「アン」のものとは異なっていた。
「すっかり側室しているじゃないの、レイス」
「え!?」
 レイスリーネはその声と口調に聞き覚えがあった。パッと振り返ると、そこにいるのはアンだけ。神妙な顔つきで立っている。でも、その生真面目そうな表情の中で、青い目だけが面白そうに煌めいていた。
「アン……? まさか……」
 その楽しそうに煌めく青色に覚えがあった。つい三か月前まではいつも間近にあった瞳だ。
「まさか……アンジェラ?」
 アンはレイスリーネの言葉ににっこり笑う。
「そうよ。久しぶりね、レイス。元気だった?」
「やっぱり、アンジェラなのね!」
 紅蓮隊の同僚だったアンジェラ――楽しそうな光を放つ青い目も、声も口調もレイスリーネの知っている友人のものだった。
「な、なんでここに……。それにその姿……」
 捕まったはずの友人がこんなところにまったく異なる名前と姿でいれば誰だって驚くだろう。レイスリーネも口をポカンとあけて、かつて左翼軍の訓練所で剣を交えたこともあるアンジェラを……いや、アンを見つめた。
 アンは片目をパチッと瞑る。顔は「アン」なのに、その表情はレイスリーネのよく知っているアンジェラのものだった。
「これがあたしの新しい仕事というわけ。側室の侍女兼護衛というのが」
「……それって紅蓮隊の任務ではないわよね? それに、アン? 宰相の親戚?」
 怪訝そうに眉を顰めると、アンジェラは朗らかに笑う。
「そういう触れ込みなのよ。新しいあたしの身分はアン・フェイマール。宰相の従姉妹ということになっているの。レイスもそのつもりでいてちょうだい。そして仕事の件だけど、確かにこれは紅蓮隊の任務じゃないわ。本当の仕事の方の任務よ」
「カルデアの?」
 アンジェラの正体はカルデアと呼ばれる犯罪組織の一員だ。依頼主の要望どおりに人を殺す役目――つまり、暗殺を主に請け負っていて、アンジェラ・バウマンを騙って紅蓮隊に入っていたのもその暗殺の仕事の一環だったという。それが判明して、というより自分から暴露してイライアスたちに捕まり、身の安全の保障と引き換えにガードナ国の密偵の情報を売りたいと取引を持ちかけたのだった。
「どうしてここに……?」
「あなたの夫に雇われたのよ」
「陛下があなたを雇った?」
 そういえば以前宰相が言っていたではないか。イライアスはアンジェラとの取引に応じ、更に彼女を雇うことにしたと。
「それが私の護衛の仕事だったわけね……」
 納得しながら言うと、アンジェラは肩を竦めた。
「ええ、まぁ、そういうことね。そういうわけでしばらくよろしく頼むわね、レイス」
 明るく言うと、アンジェラは「アン」の顔になって口調を変えた。
「誠心誠意お仕えしますね、レイスリーネ様」
 真面目そうなその様子はとてもアンジェラのものとは思えなかった。
「……よく化けたものだわね」
 潜入して標的の懐に潜り込むのがアンジェラの本来の仕事とはいえ、その変わりっぷりにレイスリーネはただただ唖然とするばかりだ。
 ……もっとも、アンジェラ・バウマンだった時も彼女は「アンジェラ」の演技をしていただけなのだろうが。
 アンジェラの本当の姿も性格も、そして本来の名前も、レイスリーネは知らない。きっと宰相もイライアスも知らないだろう。レイスリーネも尋ねるつもりはなかった。そのくらいは弁えている。
「それが仕事ですから」
 澄ました顔で答えると、アンジェラは元の口調に戻してにやりと笑う。
「紅蓮隊の時は警護の仕事がまだるっこすぎて仕方なかったものけれど、レイスに会いたかったし、今回ばっかりはイライアス坊やに感謝だわね」
「イライアス……坊や……」
 レイスリーネは顔を引きつらせる。臣下や貴族たちには「鮮血の王」として恐れられているイライアスを、坊や呼ばわりするとは。そんな恐ろしいことができる人間が、老イリス師以外にいたとは驚きだ。
 アンジェラは悪びれもせず笑った。
「あたしにとっては坊や同然よ。このアデラ宮に通っていた小さい頃の国王を知っているんだからね」
 言いながらアンジェラは手のひらでちょうど腰くらいの高さを示す。
 かつてアンジェラはアウラという人物に成りすましてこのアデラ宮で、前の側室でレイスリーネの叔母であるレスリーに仕えていた。レスリーに会いにこのアデラ宮に通っていた幼い頃のイライアスをアウラは見ていただろうから、そう思うのも無理はないのかもしれない。だが……。
「ね、ねぇ、アンジェラ。あなたの本当の年っていくつなの?」
 目の前にいるアンジェラは二十歳前後にしか見えないが、二十三年前アウラとしてレスリーに仕えていた頃、すでに大人だったのなら、レイスリーネの両親と同年代でもおかしくない。
「陛下が子どもの頃を知っているってことは、その……」
「レイス」
 にっこりとアンジェラは笑いながら手を伸ばし、レイスリーネの頬をきゅっと摘まんだ。
「女性に年を聞くのはタブーよ?」
「……はい」
 しばらくして、容赦なくつねられた頬を庇いながらレイスリーネは呟く。
「それにしてもアンジェラに会えるのは嬉しいけれど、護衛なんて必要なのかしら」
 レスリーを殺した犯人はすでに捕らえられている。ここでレイスリーネを害そうとする人間などもういないだろうに。
 そう口にすると、アンジェラは腰に手をやってやれやれという調子で説明した。
「平和ボケしちゃったの、レイス? まぁ、確かにこのアデラ宮は働いている人数こそ少ないけれど、警備だけは厳重だし、あなたに害をなそうとする者は国王が面会を許可しないから実感がないのも無理はないけれど。いい? あのね、ここから一歩出たらあなたはとても危険な立場なのよ?」
「え?」
「あなたは国王の唯一の側室よ。あなたのその立場に成り代わりたい、あるいは娘を側室にして権力を握りたいという人間は大勢いるのよ。でもあの王はあなたが側室になる前も後も持ち込まれる縁談すべてを突っぱねている。一人いれば十分だとね。……となると、連中は思うわけよ。あなたを消さないと自分の番が回ってこないとね。あなたが国王の子どもを身ごもったことで、その動きは加速しているわ」
「なんとまぁ……」
 レイスリーネはため息をつく。貴族の中にはレイスリーネが側室になったことを歓迎しない者がいるとは分かっていたが、彼女を消せばイライアスが他の女性を受け入れると考えるほど愚かではないと高をくくっていたのだ。
「あの国王が許すわけないのにね。でも欲の張った連中というのは、自分たちに都合がいいことしか考えられないもので……レイスリーネ様、お茶をお入れしましょうか?」
 会話の途中で突然アンジェラは「アン」の声と口調に戻って唐突に言いだした。
 レイスリーネが「え?」と思う間もなくその理由が知れる。扉の外に人の気配がして、次いでノックの音が響いたからだ。アンジェラは誰かが部屋に近づいていることに気づいて、「アン」に切り替えたに違いない。
「どうぞ」
 変わり身の早いアンジェラに感心しながらレイスリーネは扉に向かって返事をした。入ってきたのは驚いたことにイライアスだった。
「陛下!?」
 先触れもなくイライアスがやってきたことにびっくりしていると、彼は笑いながらレイスリーネの腰に手をまわして抱き寄せた。
「驚かせてすまない。先触れを出すより自分で来た方が早かったんでね」
 それからイライアスは、澄ました顔でレイスリーネの後ろに控えていたアンジェラこと「アン」に視線を向け、上から下まで眺めると口元を綻ばせた。
「化けたな。そして相変わらずの若作り、見事なものだ」
「へ、陛下」
 レイスリーネが焦っていると、アンジェラは「アン」を崩すことなく余裕の微笑を浮かべて言った。
「お褒めの言葉として受け止めますわ。でも、イライアス坊やは女性に対する気遣いをどなたにも教わらなかったようですね」
「そんなことはない。ちゃんと気遣っている。ただ、お前はその範疇に入らないだけだ」
「まぁ、それで気遣っているつもりだなんて、片腹痛いですこと」
 互いに顔だけは笑いながら、交わす言葉は妙に辛辣だった。レイスリーネは困惑しながらも、二人の間に入る。
「あ、あの、陛下。アンジェラのことありがとうございます。でも、侍女として雇うつもりならそうだと言ってくださればよかったのに」
 イライアスはアンジェラからレイスリーネに視線を戻すと、本物の笑顔を浮かべて彼女の額にキスを落とした。
「お前を驚かせたくて。それに、この女を今か今かと待ちわびるお前を見るのも癪なのでね。黙っていることにしたんだ。お前は私のことだけ考えていればいい」
「……陛下ったら」
 ずいぶんな話だが、その言葉にはレイスリーネに対する独占欲が滲み出ていて、嬉しさを感じずにはいられなかった。
「呆れた。本当に子どもかっていうの」
 アンジェラはすっかり元の口調に戻って言ったが、イライアスはその言葉を綺麗さっぱり無視して顔をあげると意味ありげにレイスリーネを、そしてアンジェラを見た。
「さて、着任早々だが、仕事だ」
「……は? 仕事?」
 レイスリーネとアンジェラはポカンと口を開けた。

 ***
 
「まったく信じられない! 身重の妻を囮に使うなんて! レイス、あなたの夫は頭どうかしているんじゃない?」
 アデラ宮から主居館へ通じる通路を歩きながらアンジェラは盛大に文句を言った。
 通路にはレイスリーネたちの姿しかないため、すっかり元の「アンジェラ」の口調に戻っている。どうやらアンジェラの方が本来の性格に近いようだ。
「ア、アンジェラ……、その……」
 レイスリーネはアンジェラと並んで歩きながら冷や汗をかいていた。なぜならここには二人きりではなくて、もう一人いるからだ。
 反対隣りにいる黒い髪の男にちらっと視線を向けながら、レイスリーネは顔を引きつらせる。もっとも、その当の本人は気にしていないようで、笑みすら浮かべていたが。
「ちょうどいいタイミングでお前が着任してきたんだ。使わない手はないだろう」
 長めの黒髪と地味な文官の服を身に着けた男が、低音を響かせて笑う。左翼軍情報局の特殊部隊の一員である「バード」だ。もっとも、その「バード」の正体はイライアスが変装した姿なのだが。
 つまり、アンジェラは本人がいるのがわかってわざとイライアスの悪口を言っているのだ。
「だからといって自分の子どもを身ごもっているレイスを囮に使うなんて信じられないわ。鬼畜かっていうの」
「仕方あるまい。レイスリーネしかやつらを釣れないのだから」
 バード――イライアスは肩を竦めた。
「それにレイスリーネも動ける今が一番いい機会なんだ。災いの種は早めに摘み取っておくに限るしな」
「どうせ仕向けたくせに。見せしめにでもするつもり?」
 レイスリーネはこれから主居館でイライアスと重臣たちとの食事会に出席する予定になっている。お付きは侍女と護衛の二人だけ。中庭のある回廊を通って主居館にやってくる――そういうことになっている。
 もちろんそんな予定は存在していない。食事会自体ついさっきいきなり言われてびっくりしたくらいだ。けれど、そういうふうになっていると相手方に伝わっているのだそうだ。
 当然相手方というのは、レイスリーネの命を狙っている貴族のことだ。娘を側室の座に据えることに熱心な貴族で、レイスリーネが側室になったことに対して最後まで難癖をつけていた相手だった。
 その貴族がレイスリーネの懐妊を知っていよいよ強硬手段に出るつもりでいるらしい。人を雇って城に潜り込ませて、レイスリーネ殺害の機会をずっと窺っているのだという。……もちろん、イライアスの手のひらの上で。
「同じことを考えている貴族どもには大いなる牽制になるだろうな」
 イライアスの口元に酷薄な笑みが浮かぶ。
 その貴族の動向をイライアスにとっくに把握していた。しかも彼らの行動は筒抜けになっているだけではなく、得られる情報すら操作されている。そしてわざと与えられた情報により、その貴族は今日、通り道である中庭でレイスリーネを待ち伏せて襲わせる計画を立てている。
 すべてイライアスが画策したことだと知らないままに。
 余談だが、それらの情報攪乱作戦の指揮を執ったのは、かつて右翼軍の情報機関にいた男だが、レイスリーネがそれを知るのはずっと後のことだった。
「見せしめにするのはいいけど、レイスを囮にするのはいただけないわ」
「レイスリーネには指一本触れさせやしないさ。それに、そもそもレイスリーネ自身おとなしく殺られるつもりはないだろう?」
「もちろんですとも」
 レイスリーネが力強く頷いた直後、イライアスは目を細めて小さく囁いた。
「そろそろ回廊に差し掛かるぞ」
 イライアスが画策した通りになった。レイスリーネたちが回廊に出たとたん、中庭の植木に身を隠していた男たちが一斉に飛び出して彼女たちを取り囲んだのだ。
 およそ八人ほどだろうか。全員手に抜き身の剣を持っている。
「あなた方はなんです?」
 驚いたようにレイスリーネは尋ねる。もちろん本当に驚いてはいないので、振りをしただけだ。本音ではむしろ呆れていた。
 男たちは無言だった。ただ、リーダーと思われる男が短く一言だけ口にした。
「行け」
 その言葉の直後、男の中の一人がレイスリーネめがけて襲い掛かる。ところがその剣が届く前に男は「うっ」と声を出して突然倒れこんだ。
「まったく。こんな隙だらけで襲い掛かるなんて、刺客としてどうかしら?」
「なっ……!」
 倒れこんだ男の傍らに立ち、その背中――それも心臓の裏側の場所にめり込んだナイフを見おろして笑うのは侍女姿の女性――アンジェラだった。
「二流。いや三流だな」
 イライアスが剣を抜きながら笑う。レイスリーネもドレスの中に隠し持っていた短剣を手にしていた。
「知ってそうな人間は殺すな。証言させる必要があるから生かしておけ」
 アンジェラにそう命令すると、イライアスは近くの男をあっと言う間に切り伏せる。イライアスが戦うのは初めて見たが、グリーンフィールド将軍の特別特訓に参加していたというのは本当らしく、かなりの腕前だった。
「バカにしないで! もちろん承知しているわ!」
 両手にナイフを持ち、素早い動きで男たちの急所を突きながら、アンジェラが叫ぶ。
 たちまち中庭は戦いの場となった。だがそれはほぼ一方的な戦いだった。いつの間にかバード――本物のバードまで加わり、短剣を手にイライアスの背後を守っている。
 確実に刺客たちはその数を減らしていった。
 カルデアのトップクラスに入る腕前のアンジェラと、「影」としてイライアスの身辺を守るバード、それに軍の特別訓練を切り抜けるほどの腕を持つイライアス。この三人が揃えばよほどの手練れでないかぎり倒すことは不可能だ。
「……私、やることはないわね、これじゃ」
 レイスリーネは剣を手にしながらため息をつく。彼女が剣をふるったのはたった一度だけ。それも自分が襲われたわけではなくて、最初にアンジェラのナイフにやられた男が何とか起き上がろうとしているのを見たからだ。レイスリーネは剣の柄で男を殴りつけ昏倒させた。やったのはこれだけだ。
 もっとも、普通の貴族女性は柄で大の男を殴り倒すことはおろか、剣を手にすることもほとんどないのだから、レイスリーネもたいがいだ。
「あーあ、これじゃ僕らの出番はないね、グレイ」
 その様子を二階の回廊から見おろしながら、苦笑を浮かべてフェリクスが呟いた。
「ああ、そうだな」
 フェリクスの隣で同じく階下の戦いを見守っていたグレイシスは頷いた。彼らは万一のために部下を連れて中庭近くの部屋に待機していたのだが、この様子だと出る幕はないだろう。
「もう、終わる」
 そのグレイシスの言葉通り、中庭の戦いはそれからすぐに終結した。男たちは切り伏せられ、血だまりの中、地面に倒れこんでいる。一人だけ切り傷と血だらけの男がアンジェラによって地面に抑えつけられていた。刺客たちに命令をしたあの男だった。
「手ごたえのない相手ねぇ」
 男を足蹴にしながら、アンジェラが言った。それがこの戦いを締めくくる言葉だった。
 
 ***
 
 ――後日、レイスリーネはイライアスからとある伯爵家がとり潰しになったことを知る。元伯爵家の一家は離散した。その伯爵家には十九歳の美しい令嬢がいたが、彼女は売られるように祖父と孫ほど年の離れている商人のもとへ嫁ぐことが決まったのだという。
 命は取らないまでも、悲惨としか言いようのない一家の末路に、一部の貴族たちは震えあがっているらしい。
 その知らせをレイスリーネにもたらしたイライアスは何とも思っていないようで、笑顔で報告し、聞きながらお茶の用意をしているアンことアンジェラは当然といった顔をしている。
 二人を交互に見つめてレイスリーネは苦笑した。
 ――本当に仕方のない人たちね。
 でも困ったことにそんな二人がレイスリーネはとても大好きなのだ。
 ――だから二人と過ごすこの平和な日常が、ずっとずっとこの先も続きますように。
 レイスリーネは微笑を浮かべながらそっと祈りを捧げるのだった。

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