ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

純白の羽

 その手紙が届いたのは、ディノワールにシルヴィアを残してオスカーが帰国してから、二か月後のことだった。
 夜も更けた執務室で、山積する書類にややうんざりしながら目を通していたオスカーは、アビゲイルから差出人を聞いた途端、ペンを放りだして手紙を受け取った。ペーパーナイフを使うのももどかしく、乱暴に手で封を破り、折りたたまれた白い紙を取り出す。
 乾いた音と共にそれを開き、傍らでアビゲイルが興味津々に窺っているのも無視して、したためられている文章に目を走らせる。
 読み進むにつれ、彼の端麗な顔が徐々に険しくなっていく。やがてぼそりと吐き出された声は、明らかに不穏な響きを帯びていた。
「……なんだと……?」
「なんだ、どうした?」
 問いかけるアビゲイルに答えず、オスカーは置時計へと顔を向ける。今の時間を確認した直後、彼は椅子を倒す勢いで立ち上がった。
 あまりにも突然のことに、アビゲイルがあっけにとられる。
「――おい、一体何があったんだ」
「出かける。後は頼む」
「後は頼むってお前、まさかこれから? 今一体何時だと――おい!」
 従弟の質問に一切答えず、自分の言いたいことだけ端的に伝えると、オスカーは足早に執務室を出て行った。
 閉じられた扉をしばし呆然と眺めていたアビゲイルだったが、オスカーの表情からおおよそのことは察したのだろう。片方の口角をつりあげると、くくっと愉快そうに笑った。
「まったく本当にあいつ、お姫さんが関わると笑えるくらい余裕がなくなるな。……ま、上手くいくように祈ってるよ」

 遅い時間に突然厩舎へ訪れたオスカーを、馬丁らは驚いて出迎えた。だが、それに構わず、オスカーは奥へ進んで馬房へ入ると、艶やかな栗毛の愛馬に自ら馬具を装着する。鐙に足をかけて馬の背にまたがったとき、厩舎の入り口が慌ただしくなった。
「陛下!」
 遅れて厩舎に到着した親衛隊が止めるのも聞かずにオスカーは馬首を巡らせると、目的地へ向けて馬を走らせ始めた。一刻の猶予もない今、悠長に彼らの相手をしている暇はなかった。
 夜の闇を裂いて駆けながら、オスカーの心は既にディノワールへと飛んでいた。――否、正確にはディノワールにいる愛しい人のもとへと。
 手紙の差出人はコンラート大司教だった。
 二か月前、無実の罪によって投獄された彼は、容赦ない拷問によって一時は生死の境をさまよった。しかし、その傷も今は随分と癒え、日常生活で多少の制約は残るものの、以前のように礼拝堂で信者を迎えることができるほどには回復しているという。
 そのコンラートからの手紙ということで、オスカーはとうとう待ち望んでいた報せが来たのかと胸が躍った。だが、封を開けてみれば、その内容はオスカーの予想とは大きくかけ離れたものだったのである。
「くそ……っ」
 ――どうか、お急ぎください。
 その言葉に突き動かされるまま、オスカーは夜のシェヴィリアを駆け続けた。



 ――二か月前、シルヴィアはシェヴィリアからディノワールへ戻った。
 シルヴィアが生きていたという報せは、悲嘆に暮れていたディノワールの民を歓喜させた。
これまで所在を隠されていた理由については、大聖堂を襲った火事からシェヴィリア王によって奇跡的に助け出されたものの、聖堂や森が焼けてしまったショックで衰弱しきっていたために、シェヴィリア王の保護のもとで療養していたためだと大司教は説明した。
 それに疑問を持つ者はいなかった。何より、オスカーが危険を顧みずにシルヴィアを救い出していなければ、彼らは今なお嘆き悲しむばかりであっただろうから。
国へ戻ったシルヴィアは、再びブランシュネージュとして人々の前に立つようになった。だが、以前と同じように信者を迎える彼女の白皙の美貌には、慈愛に満ちた微笑みだけではなく、以前には無かった愁いを帯びるようになっていた。その理由について信者らは様々に噂し合ったが、どんな噂も彼女が戻ってきてくれた喜びの前では些末なことで、いつしか信者らはいつも通りシルヴィアの前で祈りを捧げるようになっていた。
 シルヴィアが戻ってきたことで、リュシール大聖堂は緩やかな時間を取り戻しつつあった。
 ――だが先週。
 それまで毎日礼拝堂で信者を迎えていたシルヴィアが、体調不良を理由に姿を見せなくなったのである。

 オスカーがリュシール大聖堂に到着したのは、漆黒の夜空がその裾の色彩を徐々に変えようかという頃だった。
「まさか夜通し駆けてこられるとは」
「あんなことが書かれていたら急ぐに決まっている」
 暗い大聖堂内を歩きながら、呆れたように苦笑するコンラートに、オスカーは憮然と答える。
 コンラートから送られてきた手紙には、シルヴィアが身ごもっていることが記されてあった。だが、その一文に喜んだのもつかの間、続く文章を読み進めるにつれ、オスカーは愕然とすることになったのである。
 ――シルヴィア王女はブランシュネージュの名を捨て、辺境の地へ行くことを望まれています。
 誰にも知られない土地で、ひっそりと生きていきたいと。そしてそのことを、あなたには伝えないで欲しいとも。
 ――どうか、お急ぎください。すべてが、手遅れになる前に。
 そんなことが書かれてあって、悠長に構えていられるわけがない。
「急いでいただきたかったのは本当です。現に、ブランシュネージュ……いえ、シルヴィア様は陽が昇る前には出立なさるおつもりのようですから」
「……シルヴィアは、腹の子の父が私だとあなたに言ったのか?」
 ゆっくりと首を横に振ったコンラートは「ですが」と続けた。
「御子を宿して、あれほど穏やかなお顔をなさっているのを見れば、相手があなたであることは自ずとわかります」
 それを聞いて、知らず頬が緩みそうになる。慌てて引き締めれば、コンラートが小さく笑った。
「だからこそ、シルヴィア様はあなたの重荷にならないために、ここを去ることをお決めになったのですよ」
「馬鹿な。――何故そんな……」
 オスカーが彼女のことを重荷などと思うわけが無いのに。
「シルヴィアは信者たちにはなんと伝えるつもりなんだ」
 信者を大切に思う彼女のことだ。何も言わずに姿を消すことはないだろう。
「女神よりも大切なものができてしまった自分には、もう神に仕える資格はない――今日の礼拝で、そう伝えて欲しいと」
 つまりそれは、オスカーを愛し、更にその子を宿してしまったことを指しているのだろう。
 やはり彼女はすべての責を背負うつもりなのだ。
「…………」
 そんなことは間違っている。
 罪を犯したのはオスカーなのに、何故それを彼女はひとりで被ろうとするのか。
 オスカーとしては、シルヴィアに考える時間を与えたつもりだった。
 だが、彼女が選んだ道は、オスカーの予想とはまるで違っていた。
 彼女はいつでもそうだ。儚げな見た目をしているくせに、守られるよりも、その身を犠牲にしてでも守ることを選ぶ。離宮にいたときでさえ、あの不自由な状況から、オスカーを守りたい一心で国へ帰ろうとした。
「やっぱり、あのとき連れて帰るんだったな」
 ため息交じりに独りごち、オスカーは緩く頭を振る。やがて、彼はすべてを吹っ切ったように毅然と顔を上げた。
「大司教。頼みがある」
「――私でできることならば、なんなりと」
 答えるコンラートは、柔らかな笑みを浮かべている。
 こんな状況にもかかわらず、まるで動じる様子のない温厚な笑顔を見て、オスカーは不意に思い出した。
 コンラートは、聖職者になる前は侯爵位を戴く貴族だったと聞いている。そしてその明晰な頭脳を買われ、先代国王アウラードの御代では彼の片腕として名を馳せていたとも。
 その彼のことだ。オスカーが今何を考えているかなど、手に取るように分かるのだろう。
 ――食えない男だ。
 だが、彼のお陰でこれまでシルヴィアが守られてきたのだと思えば、そのしたたかさがありがたくもあった。
「信者にはこう伝えてくれ。――ブランシュネージュが先週から姿を見せないのは、その前日にシェヴィリア王に純潔を奪われたからだと」
「他には?」
「それだけ言ってもらえばいい」
 ためらいもなくあっさりと答えれば、コンラートは思案するようにしばし黙り込んだが、やがて小さく頷いた。
「……シルヴィア様の名誉を守るためには、それが一番妥当なところでしょうね。――それにどんな理由をつけたところで、この先あなたはシルヴィア様の純潔を奪った者として、周辺諸国から激しい批難を受けることは避けられないでしょうから」
「そんなことくらいでシルヴィアを得られるなら安いものだ」
 軽く鼻で笑ってみせれば、コンラートも「そうでしょうね」と頷いた。
 その何かを含んだ言い方に、オスカーは眉宇をひそめた。
「大司教」
「なんでしょう」
「シルヴィアをさらった後、俺が彼女を抱くって分かっていたんだろう?」
「――さあ?」
 口調が素に戻っていることに気づかない振りでもしているのか、コンラートは曖昧に微笑んだ。
 だが好々爺然とした温厚な笑みをたたえながらも、白い眉の下の双眸が楽しげな光を宿すのを、オスカーは見逃さなかった。
 ――確信犯か。やはり食えない男だ。
 コンラートはオスカーがずっとシルヴィアに懸想していたことを知っている。――その想いの強さが、彼女を守るためなら人の命を奪うことさえ躊躇わないほどであることも。そして、それだけではなく、大国の王であるオスカーならば、シルヴィアを守るために必要な力を備えているという打算もあったのだろう。
 しかし、それで良かったのだと思う。もし、コンラートが他の男を選んでいたら、オスカーは間違いなくその幸運な男を殺していただろうから。
 そんなオスカーの物騒な思惑などまったく気付いていない様子で、コンラートは「陛下」と呼んだ。
 まだ何かあるのか、と一瞬胡乱な眼差しを投げかけたオスカーだったが、そこに意外なほど真摯な表情を見つけた。
「――どうかシルヴィア様をお願いします」
「――――」
 まっすぐに伝わってくるのは、オスカーへの揺るぎない信頼。
「あの方は、あなたの手を取ることを躊躇っている。自分があなたの足枷になってはならないと。だから、そんなことは無いのだと……人並みの幸せを望んでもいいのだと、あなたが教えて差し上げてください。――ようやく、ブランシュネージュが一人の女性に戻るときが来たのです。こんな歪んだ因習はシルヴィア王女で終わりにしましょう」
 締めくくり、穏やかに微笑む顔は、シルヴィアの幸せを心から願う慈愛に満ちていた。
 幼い頃からシルヴィアを見守り続けてきた彼にとって、彼女はブランシュネージュであると同時に、親愛の情を注ぐ存在でもあるのだろう。
 ――ならば、その信頼に応えなければ。
「分かっている。シルヴィアは必ず私が幸せにする」
 コンラートに見送られ、シルヴィアのいる部屋へ向かってオスカーは歩き始める。
 シルヴィアを望むオスカーには、この先いくつもの障害があるだろう。
 宗教の壁、諸外国からの批難。これを好機とアンドリューとエヴァルト国王が動き出す可能性もあった。
 だが、その程度の障害ならば、立ち上がれなくなるまで叩きのめしてしまえばいいだけだ。
 オスカーにとって何よりも恐ろしいのは、シルヴィアを失うことだ。
 昨夜手紙を受け取ったとき、どれほど狼狽えたか。彼女が手の届かないところに行ってしまうかも知れないと考えただけで、耐えがたいほどの恐怖を感じた。
 ――絶対に、そんなことは許さない。お前は永遠に俺のものなのだから。
「ああ、やっぱりお前には鳥籠が必要だ、シルヴィア」
 この手につかまえて連れ帰り、彼女が二度と逃げ出すことができないように鳥籠に閉じ込めなくては。
 そして、誰にも邪魔されないあの場所で、思うまま彼女を愛でるのだ。
 ――彼女が、罪の意識など感じられなくなるまで。何度でも、何日でも。
 脳裏に浮かぶのは、寝台の上で甘くさえずっていた彼女の媚態。
 美しい彼女から純白の羽を奪うのは、どれほど快感だろう。
 こんな男に愛されたことを、お前は後悔するのだろうか。――だが、もう遅い。
「後悔なら、俺の腕の中でいくらでもするといい」
 一歩一歩進むごとに近づく彼女との距離。
 やがてたどり着いた庭の先に佇んでいるのは、オスカーが穢した麗しい聖女。
古ぼけた本をいとおしげに胸に抱き、夜明け前の庭で空を見上げている彼女へと近づきながら、オスカーは胸の奥深くに押し込めたはずの欲望が、ずくりと疼くのを感じていた――。

 見上げる夜空に広がる無数のきらめき。
 新月の夜は、いつもは頼りない星々の輝きが、少しだけ見やすくなる。
 きれい、と思いながら、その星たちをシルヴィアがぼんやりと見つめていると、遠慮がちに声が掛けられた。
「……本当によろしいのですか?」
 戸惑いを帯びた侍女の声。もう幾度繰り返されたか知れない問いかけに、シルヴィアは淡く微笑んで頷いた。
 火事のあと、シルヴィアの居室は別の場所へと移された。以前と同じように日の差し込まないその部屋は、火事で焼けた部屋からは比較的離れていたこともあって被害はほとんどなく、庭からは蒼い森へ赴くこともできる。
 だが、この庭から夜空を見上げるのは、今日が最後になるだろう。
「もう決めたことよ」
「……ですが……こんな結末、私は納得がいきません。大司教様だって、もう一度よくお考えになるようにと……!」
「アデル」
 涙目で訴える侍女を、シルヴィアはたしなめることはせず、穏やかに呼びかける。
「姫様……」
「ありがとう、アデル。わたしの……いえ、わたしたちのことを心配してくれて」
 途中で思い出したようにシルヴィアは言い直すと、ローブ越しの薄い腹部にそっと手を重ねた。
 ――身ごもったことに気づいたのは先週のことだ。
 オスカーと離れ、再び大聖堂で寝起きするようになって二か月。
 そのことに気づいたとき、自分でも意外なほど冷静に受け止めることができた。
 彼とすごした濃密すぎる夜の後、一度も訪れない月経がシルヴィアに覚悟を促していたのかもしれない。
「ですが……姫様がすべてを背負う必要がどこにあるのです」
「……そうね。だけど、アデル……わたしね……」
 納得ができないと言いすがる侍女に、シルヴィアは微笑む。
「こんなことになってしまったけれど、今、とても幸せなの」
 不思議ね、と言ってシルヴィアはくすりと笑った。
 純潔を失い、あまつさえ人の子を宿してしまったシルヴィアには、もはや女神の娘である資格はない。けれど、シルヴィアはそのことを嘆き悲しむよりも、むしろ嬉しさの方が勝っていることに驚いていた。
 ――ここに新しい命がある。わたしと……オスカーの……。
 触れる腹部は未だ膨らみの兆しすらない。けれど、確かにそこには命が息づいて、今も確実に成長している。
 それがこんなにも嬉しいことだと、シルヴィアははじめて知った。
「だからわたしは大丈夫。ひとりでもこの子を慈しんでいける」
 ――だけど叶うことなら、どうかこの子は明るい太陽の下で走ることができますように。
 ――美しい世界を、その目に映し出すことができますように。
 そう願わずにはいられない。
 草を踏む音に、なおも説得しようとアデルが近づいてくるのを察して、シルヴィアは背後を振り返る。
 だが、そこにいる人が誰であるのか気づいた瞬間、シルヴィアは呆然と立ち尽くした。
 ――どうして。
 停止した思考の中で、最初に浮かんだのはそんな言葉だった。
「ど、して……あなたがここにいるの……」
「そんなことは決まっている。お前を、ここから連れていくためだ」
 苛立ちを孕んだ声が耳朶に触れたと思ったときには、抱きしめられていた。全身を包む彼の香りと温もりに、これが夢や幻ではないのだと気づかされる。
「お前は、生まれてくる子に父を与えないつもりか」
「……っ」
 耳元で、怒りにも似た声で囁かれた瞬間、シルヴィアは小さく息を呑んだ。
「どうして、それを……」
 呆然と呟くシルヴィアに、オスカーは言った。
「言っただろう。すべての責任は俺にあると」
「だけど……オスカー、わたし……」
 このことが公になれば、間違いなくオスカーは激しい批難を浴びるだろう。
 始まりはどうであれ、彼に抱かれることを望んだのはシルヴィア自身だ。その結果授かった子を罪の子になどできるはずがない。
 芽生えた新しい命と、その子の父を守ることができるなら、シルヴィアに躊躇いはなかった。
「本当にお前は……俺を守ることばかり考えないで、少しは俺を頼ることも覚えろ。愛している女に守られてばかりなんて、男として情けないだろう」
 苦々しく呟きながらオスカーは抱擁を緩めると、見上げてくるシルヴィアの頬に手を重ねる。
「……それとも、俺はお前にとってそれほど頼りにならない存在なのか?」
「……っ、違うわ。わたしは……」
「だったら俺を頼れ。それができないというなら、今すぐお前をさらってもう一度あの鳥籠へ閉じ込める。そうしてもう二度と外へは出さない」
「……オスカー」
 見つめてくる深い青の眸は恐ろしいほどに真剣で、シルヴィアに反論を許さない。
「今すぐここで決めろ、シルヴィア。俺と共に来るか、それとも無理やりさらわれるか」
「……え……」
 突きつけられた選択肢に、シルヴィアは戸惑う。
「それって……どちらも同じことじゃ……」
「全然違うだろう? 一緒に行くことを選ぶか、強引にさらわれていくことを選ぶか。全然意味が違う」
「……そ、れは、そうだけど……」
 否、違うような気がするだけで、結果は同じなのではないだろうか。
 だが、このまま躊躇っていれば、確実にオスカーはシルヴィアをさらっていこうとするだろう。
「俺はどちらでも構わない。――ああ、いっそお前が吹っ切ることができるようにしてやってもいい」
「……えっ……?」
 その意味を考える間もなく抱き上げられる。彼の向かう先が私室の寝台だと気づいたシルヴィアは、狼狽もあらわに目を瞠った。
「ま、待って、オスカー……!」
 説得する余裕もなく、寝台に下ろされる。慌てて逃げようとするも、のしかかる彼に両手をひとまとめにして押さえつけられ、ろくな抵抗もできないうちに体の自由を奪われてしまう。
「オスカー、駄目……!」
「今、アデルが大司教を呼びに行っている。お前が大司教に話があるということにしてな」
「……っ」
 その意味に気づいた瞬間、抗っていたことも忘れて、シルヴィアの体がこわばる。
「皆どう思うだろうな。――この状況では、間違ってもお前が喜んで体を捧げているようには見えないだろう?」
 艶然と微笑む彼を見上げて、シルヴィアは彼の意図に気づいた。それと共に、抗っていた体から力が抜けていく――。
「お前は俺のものだ、シルヴィア。八年前、『約束』をかわしたあの瞬間から。――だから、俺から勝手に離れていくことは、絶対に許さない」
「……オスカー……」
 じわり、とシルヴィアの双眸に涙がにじんだ。
「本気……なの……?」
「当然だろう? こんなこと、遊びや冗談でするわけがない」
 真剣に見つめてくる彼の深い青の双眸が、少しだけやわらかさを帯びる。
「愛してる、シルヴィア。だから、お前をひとりになんてさせない。――絶対に」
「……オスカー……」
 たとえどこへ行こうとも、きっと彼はシルヴィアを見つけるだろう。
 所詮、彼の手から逃れることなど、できるはずがないのだ。それを悟った瞬間、シルヴィアは強く込み上げる感情に気づいてしまった。
 ――ああ、もう逃げられない。これ以上、自分の心からは……。
 ひとしずく、目尻から涙がこぼれ落ちる。その真珠の粒が消えると同時に、やわらかく唇が重ねられれば、シルヴィアはもう自分の心を偽れなかった。
 唇をほどき、自ら彼を受け入れる。そっと彼の体に腕を回せば、口づけはより深くなった。
 心のどこかで、シルヴィアはこうなることを望んでいた。けれど、ずっと気づかない振りをしていたのだ。
 ――再び、あの緑の鳥籠へ彼が連れていってくれることを。
 誰も知らないあの箱庭は、シルヴィアにとって、いつしか蒼い森と同じくらい大切な世界になっていた。あそこにいれば、愛する人とずっと一緒にいられるから。
 もう一度戻りたかった。けれど、シルヴィアがブランシュネージュである以上、それは許されなかった。
 ――彼が、さらってくれない限りは。
「……愛してる、シルヴィア。もう、二度と離さない……」
 キスの合間に囁かれる言葉が、見えない糸となってゆっくりとシルヴィアを絡め取っていく。
 きっと、オスカーはすべての罪の始まりが、自分にあると思っているのだろう。
 ――オスカー、あなたは知らない。幼い日、あなたが見つけてくれた大切なクローバーに、わたしが何を祈り続けていたか。
 シルヴィアは、ずっとクローバーに願っていた。
 ――オスカーといつまでも一緒にいられますように、と。
 その願いがようやく叶うのだ。手段はどうであれ、彼はシルヴィアの願いを叶えてくれた。この先に待ち構える障害が分かっていてなお、彼はシルヴィアを選んでくれた。
 ――ごめんなさい、オスカー。……だけど……。
 込み上げる罪悪感。そして同時に湧き上がる、裏腹な感情。
 ――わたし、とても嬉しいの。
 重なる唇ごしに甘いあえぎを漏らしながら、シルヴィアは夢中でオスカーを求め続ける。
 ――謝って許されることじゃないと分かってる。だけど、あなたを不幸にしてしまうと分かっていても、愛することをやめられないわたしを、どうか……どうか、許して――。
 自分の心が闇に落ちていくのを感じながら、シルヴィアはそっと目を閉じた。

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