ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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「どうして夕なの!? おかしいじゃないそんなの!」
 夕の実家の客間に怒声が響いた。
すみれの声は高いので、普段からとてもよく通る。
 夕は四朗と一緒に実家を訪れ、結婚が決まったことを報告した。
 ちょうど家にはすみれも居て、『もしかしたら面倒なことになるかも』と思った夕の懸念は当たってしまった。
 ソファーに腰かけていた全員の視線は、客間に顔を見せるなり戸口に立ったままのすみれに向かっていた。
 激昂した様子のすみれは、綺麗にメイクした顔が崩れ、残念になっていた。眦を吊り上げて、夕を睨んでいる。
「だいたいあんた、うちの人間じゃないでしょ!? パパの子じゃないくせに、どんな手を使ったの!?」
 その言葉には、さすがに夕も顔を顰めた。
 自分自身、松永の家族に馴染んでいないと思っていたが、実際に言われると胸が軋む。
 しかし、夕が何かを言う前に、隣に座っていた四朗が夕の左手をきゅっと握ってくれた。そしてすみれに向かい、厳しい顔で口を開く。
「私が夕と結婚したいからだ」
 四朗のはっきりとした答えに、すみれがショックを受けてしまうのではないかと思ったが、それは杞憂だった。
 すみれは四朗が自分に注目してくれたことにぱっと顔を輝かせ、微笑みかける。
「この前はびっくりして逃げちゃったけど、本当は私、嫌じゃないんです。夕よりも私のほうが、名城家に相応しいと思うし、四朗さんの役に立てると思うわ」
 まさかここまで……
 夕はすみれの豹変具合に、驚きを通り越して呆れ果てていた。
 まるでさっきまで怒っていた様子は、四朗の視界にだけは入っていないと思っているかのような態度だ。
 すみれのこの魅惑的な笑みを見れば、これまで大抵の人間は騙されてきたのかもしれない。けれど目の前でこんなにもはっきりと態度を変えることで、相手にどう思われるのか、考えることもしないのだろうか。
 夕は義理の妹の行く末が心配になった。そして、彼女のわがままを「かわいいもの」として放置してきた両親の今後も気にかかり、不安の目を向ける。
 今日もまた、穏便に宥めて終わりなのだろうと思っていた夕の予想は外れ、両親はそんなすみれを憐れんだ目で見ていた。
「――すみれ」
「何、パパ。話は後にして。今大事なとこなんだから」
「すみれさん」
「もう、なんなのよ! お母さんまでうるさい! だいたいあんたが、夕をちゃんと躾けてないからこんなことになってるんでしょ!?」
 不快感を露にして両親を責めるすみれを、夕はもう呆然と見守るしかできなかった。
 もう、この子は、だめなのかしら……
 すみれの態度は、夕の家の問題を声高に叫んでいるようなものだ。
 それを四朗に見せることになり、夕は心苦しくなる。
 夕のそんな気持ちが伝わったのか、四朗は握っている夕の手を指で撫で、心を落ち着かせてくれる。気にしていないという四朗の気持ちが伝わってきた。
「四朗さん、私が松永の娘なのよ。確かお祖父さまの遺言では、松永の娘と結婚するようにって書かれていたのよね? 夕に申し訳なく思ってるのかもしれないけど、そんなこと考えなくていいの。私は四朗さんには怒っていないもの。これから、私のことを見てくれればそれでいいのよ」
 いったいどこで、すみれは四朗の祖父の遺言の内容を知ったのだろうか。
 夕は疑問に思ったが、申し訳なさそうにしている両親を見て、問うことは控えた。
 とんでもない論理で言い寄られる四朗は、しかし動じることなく、夕の手を握りしめたまま、はっきりと言う。
「私の祖父の遺言は、君と結婚するようにと書かれていたのではない。どんな想像を膨らませたのか、私の知るところではないが、祖父はただ私の幸せを願っていると、そう残してくれただけだ」
「そんな……うそ!」
 四朗の言葉に愕然とした後で、すみれはそれを強く否定するように首を横に振った。
「ううん! 幸せっていうなら、私と結婚したほうが幸せでしょ!?」
「――すみれ」
 四朗が答える前に、義父が話に割り入った。
「もう止めなさい。お前のしていることは、相手の迷惑にしかなっていないんだ。お前もそれを、わかっているだろう?」
「――ひどい、パパ! 私が幸せになれなくてもいいっていうの!?」
 義父はとても悲しそうな顔をしていた。
 けれどすみれは、そんなことはお構いなしに、眦を吊り上げて言い返す。
 どうしてこんなにも、人の気持ちがわからないんだろう……
 両親が甘やかし続けた結果だとしたら、彼らの自業自得かもしれない。しかし両親の顔を見る限り、そしてすみれに言って聞かせている様子を見る限り、すみれに対する対応が子供のころのそれとは違っているようだ。
 つまり両親も、すみれのわがままを治そうと頑張ってきていたのかもしれない。そう思うと、夕はひとりだけ逃げ出したことに罪悪感が湧く。
「わがままを言うばかりでは、誰も好きになってくれないのよって、もう何度も……」
「あんたはうるさいのよ!」
「すみれ!」
 母に対して喚いたすみれに、義父が怒鳴る。
 怒鳴られたすみれは、不満を露にして自分の父親を睨みつけている。
 いったい、どうしたんだろう――
 夕が驚き、心配するほどの光景だった。
 夕が実家に住んでいたときには、この家はすみれを中心に回っていた。
 両親は、可愛いすみれに甘く、彼女のわがままを受け入れ、その代わりに夕に我慢を強いていた。夕が我慢していることですみれは満足していたのか、いつも両親と仲が良さそうだった。
 けれど、今の母の言葉からすると、やはりすみれはこれまでも両親と対立してきたように思える。
 夕が戸惑っていると、夕の手を握る四朗の手にまたぎゅっと力が入った。
 隣に四朗がいてくれて良かった。
 四朗を見上げ、頬を緩めて見せると、彼も小さく頷いてくれた。
 その間も、両親とすみれの言い争いは続き、ますますひどくなってくる。
「お前のわがままに、夕を巻き込むことは許さない、と言ったはずだ」
「どうしてよ! 夕がこの家にいることがおかしいんだから、私を優先して当然でしょ!?」
「夕はこの家の娘だ。お前と同じで、大事な私の子供だ」
「パパはその女に騙されてる!」
「騙してなんていません。すみれさん、もう現実がわかっているでしょう。自分のやるべきことも、しなければならないことも――」
「うるさいうるさい! もうなんなの! いっつも私の邪魔ばかりして! こんな家、だいきらい!」
 母の言葉も遮り、美人と呼ばれる顔を醜悪に歪めたすみれが、ぎっと夕を睨む。
「あんたのせいよ! あんたがいなきゃ私が幸せになってたのに! 絶対許さないから!」
 誰の言葉も聞き入れず、子供のような癇癪を起したすみれは、そう言い捨てて客間を出ていった。荒い足音がみるみるうちに遠ざかって行く。
 その音が聞こえなくなるまで、客間に残された四人は無言だった。
 最初に、義父が深く溜め息を吐く。
「――四朗さん、本当に申し訳ない。お見苦しいところをお見せしてしまい……」
「いえ。正直なところを言えば、夕を悪く言われたことは許しがたいですが、私は、夕との結婚に問題がなければ、そちらの家庭の問題に立ち入る気はありません」
 シンプルに、自分の欲求を邪魔されなければ不満はないという四朗らしさに、夕は思わず噴き出してしまう。
 笑った夕に合わせるように、四朗も眼鏡の奥の目を細めた。
 慣れなければわからないが、四朗のこの微かな変化がわかる自分が嬉しかった。
「――夕」
 呼ばれて母の方を向くと、今のふたりの視線のやり取りを見られていたとわかり、少し恥ずかしくなる。
 しかし母は、真面目な顔で言ってきた。
「籍だけでも、早く入れてしまったほうがいいと思うの」
「――えっ」
「名城家とのこともあるから、披露宴などはいろいろと時間がかかるでしょうけれど、すみれさんのことを思うと、籍を入れてしまっておいたほうが、後で何を言われようとも安心できるから」
「そうだな、そうしたほうがいい――四朗さんは、そのあたりはどうでしょうか。やはり、先に式をしなければならないでしょうか……」
 名城家のことを義父は気にしているようだ。
 しかし四朗の返事は簡潔だった。
「すぐにでも。これからでも届け出ることが出来ます」
 そう言ってジャケットの内ポケットから取り出したのは、婚姻届だった。
 テーブルに広げると、すでに夫の欄は埋まっている。
 あまりに準備がいいことに夕が驚いていると、両親は丁度良いと自分たちもペンを取り出した。
「保証人欄は我々が……夕、お前も書きなさい」
「え……っえ?」
 驚き、戸惑っているのはこの部屋で自分だけのようだ。
 最後にペンを渡されて、夕はうろたえながらも、急かされて妻の欄を埋めた。
 あれ……婚姻届って、こんなものなの?
 疑問に思うのは、夕だけのようだ。
 綺麗に埋まった婚姻届を見て、四朗も両親さえも、満足そうだった。
「夕、市役所は時間外でも受け付けてくれるから、大丈夫よ」
「そうだ。幸いにも今日は吉日だし、良かったな」
 問題はそこではない。
 しかし、両親の満足そうな顔に、ちょっと待って、と言うこともできなかった。
 そしてもちろん、嬉しそうに書類を眺める四朗にだって何かを言うことなどできない。
 両親が結婚に反対していないのだから、用事はすんだとばかりに四朗が暇を告げると、ふたりは嬉しさと申し訳なさを混ぜた複雑な顔をして夕を見た。
「……夕、夕にはこれまで、本当に我慢を強いてきたから、幸せになってほしいのよ」
「これで帳尻があったとは思わないが、……すみれのことは、私たちの問題だからな。夕にはこれからも自由に生きてほしい」
 母と義父の言葉に、夕は一瞬何も言えなくなった。
 自由に。
 それは夕の願いであったが、逃れたいと思っていた両親から言われると、熱い想いが込み上げる。
「私……私、は」
 いったい、何から自由になろうとしていたんだろう。
 自分を虐げる家族から逃れたいと思っていたが、両親だって無関心だったわけではない。ちゃんと気づいていたのだ。
 夕の気持ちも、すみれのことも、家族としての複雑な事情も。
 彼らは、夕をないがしろにしていたわけではない。
 きっと夕を、この家から自由にしてやりたくて、夕が迷ったりしないようにと態度を厳しくしてきたのだろう。
 今になって、それがわかるなんて。
 涙が滲み、ぼやけた視界ではちゃんと両親が見えない。
 何度も瞬いて目を乾かし、しっかりとふたりを見つめる。
「四朗さん、いろいろとご迷惑をお掛けしました」
「夕を、よろしくお願いします」
 両親から頭を下げられた四朗は、夕の指を絡め取るようにその手を握り、強く頷いた。
「必ず、夕と幸せになります」
 幸せになる。
 その言葉にまた、夕は嬉しくなった。
「お、お母さん、お父さん……ありがとう」
 四朗の手を握り返し、夕はどうにかそう言うことができた。
 胸がいっぱいになり、上手く言葉が出てこない。
 柔らかな雲の上を歩いているような気分のまま、夕は実家を後にした。


 そこから四朗の運転する車に乗り、向かった先は市役所だ。
 夕方を過ぎ、やはり役所は閉まっていたが、時間外の窓口でちゃんと受け付けてくれた。
 人の良さそうな職員が、婚姻届を見ておめでとうございます、と言ってくれたことが夕の耳に残る。
 幸せな気持ちのまま、また車に乗り、今度は四朗の滞在するホテルに戻った。
 煌びやかなホテルに入るのを、夕はようやく戸惑わなくなってきていた。そのまま四朗の部屋であるスイートルームに入れば、四朗はさっそくとばかりにどこかへ電話をかけている。
 きっと、名城家への連絡だろう。
 何しろ、四朗は夕と結婚してしまったのだから。
 入籍したんだ。
 夕はその実感がじわじわと込み上げてきて、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちに戸惑った。
 落ち着かなくなって、ひとり部屋の奥へ向かい、大きな窓から街を見下ろす。
 そこからは、夕日が落ちる街の景色を一望できる。
 今まで見たどんな景色よりも、綺麗だと思った。
 それは、結婚して気持ちが浮かれているからかもしれない。
 冷静に電話をしている四朗に対し、夕は喜びが爆発しそうだった。ひとりだけ浮かれていることに恥ずかしくなり、夕は必死に自分の気持ちを落ち着けようとした。
 街を見下ろし、何か気持ちをごまかせるものはないかと視線を彷徨わせる。
 あ……ヨガか。
 いくつもある街の看板の中に、小さなヨガ教室を見つけた。
 ヨガかー……
 習ったほうがいいかもしれない、と夕は考えた。
 何しろ、四朗が好きなのは夕の骨格だ。
 骨をちゃんと整えるのは、やっぱり整体とか、ヨガとか……かなぁ。
 四朗にずっと好きでいてもらいたい。
 今まで気にしたこともなかったけれど、今後は骨のことも考えなくてはならないだろう。
 自分の骨格がどうなっているのかなど、今でもさっぱりわからないが、不摂生をして歪めたりしたくない。
 あんまり、身体、柔らかくないんだけど……
「夕、どうした?」
 夕がそう思っていた時、後ろから四朗の声がかかる。
 それについ、夕は思っていたことをそのまま口に出してしまう。
「ヨガを習おうかと思って……」
「ヨガ?」
 聞き返されて、しまったと慌てる。
 突然そんなことを言われても、四朗には何のことかわからないだろう。
 しかしそれを説明するには、恥ずかしすぎる。
 夕は顔を赤らめながら、手を振った。
「いえ、えっと、なんでもないんです」
「なんでもないわけがない。習いたいなら習えばいいと思うが……いきなりどうしてだ?」
 いきなりですよね、そうですよね。
 四朗が不思議に思うのもわかる。
 けれど、四朗に嫌われたくないから骨を大事にする、と素直に言えるほど、夕はかわいい性格ではない。
「夕?」
「え……えっと……その」
 なんとなく、で誤魔化せないものだろうか、と思いつつ、四朗から視線を外そうとするが、眼鏡の奥の瞳は強く煌めいていて、決して誤魔化されたりしないと言っているのがわかる。


 結局、白状してしまった夕に、四朗は心外だとばかりに眉を顰めた。
 四朗が夕を好きなのは、骨格がいいからということだけではないらしい。
 そのことを、一晩かけてみっちりと、夕は身体にも教え込まれた。
「も、もう、わか、りまし、た……」
 体力の尽きた夕は、ベッドの上で絡んでくる四朗から逃れようとするが、彼は離れてくれない。
「駄目だ。まだ私の想いを伝えきれていない……夕、君の素直な感情は、よく身体に出る。それがまた私の心を掴むんだ……ほら、ここに触れると」
「――ああっ」
 敏感になった肌の上を滑り、胸の頂きを長い指が摘まむ。
 その刺激だけで、夕はまた達してしまいそうだった。
 けれどその反応が、四朗には嬉しいようで、もう一度夕に覆いかぶさってくる。
「もっと、君を知りたい……知れば知るほど、私は君を好きになるんだ」
「ん――……っも、あ……っ」
 夕の力ない抵抗など、意味はなかった。
 そして四朗に乞われれば、夕は本気で抵抗などできない。それを四朗はもう、知っている。
「君と結婚できて、嬉しい……君は、私のものだ」
 四朗がそう言って、夕の左手の薬指に唇を付ける。
 その仕草が甘くて、優しくて、夕は溺れてしまいそうだった。
「ああ、でもヨガはいいかもしれないな……身体が柔らかくなれば、もっと違う体位が可能になる。インドの古い寺院に、官能的なレリーフ群が大量にある。あの体位をひとつずつ試してみてもいいな」
「――――!!」
 四朗の美声を、夕が聞き逃すことはない。
 しかし今ほど、聞き間違いであってほしいと願ったこともない。
 四朗に溺れて前も後もわからなくなりそうになっていた夕だったが、急に頭がはっきりとした。
「夕、いつから習うんだ?」
 にっこりと笑って勧めてくる四朗に、ほだされてはならないと、耳に蓋をする。


 四朗の声は、夕にとっては媚薬そのものだ。
 いくら強請られようとも、夕は決して、ヨガには手を付けるものかと決めた新婚最初の夜だった。

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