ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

夜が明けたら

「セラフィーナ、食事ができたよ」
 ヴィンセントは手にしたスープ皿をベッドの傍らに置いた。
 力なく横たわる妻の身体を抱き起こし、匙で掬ったスープを慎重に彼女の口元へ運ぶ。
「今日はカボチャを磨り潰したものだ。甘いから、君も気に入ると思う」
 ゆったりと話しかけたが、応える声はなかった。
 ぼんやりと開かれたセラフィーナの瞳は、何も映していない。時折、忘れた頃に瞬きすることだけが、彼女が人形ではないことを証明していた。全く動かない口の端から、含みきれなかった黄色い液体がツ……とこぼれ落ちる。
「ああ、ちゃんと飲んで。こぼしては駄目だ。……そう、上手だ。偉いよセラフィーナ」
 半ば強引に喉の奥へ流しこめば、彼女はどうにかスープを飲み下した。反応はないと知りつつ、ヴィンセントは繰り返しセラフィーナを褒め、頭を撫でる。どんな小さなことでも称賛し、心を込めて世話をする。そうしてやれば、耳を傾けてくれる気がしたからだ。
 しかし、従順に喉を上下させてくれたのは僅か数度。後はいくらスープを飲ませようとしても、一向に思うようにはならなくなってしまった。
「……もう、お腹がいっぱいかな?」
 彼女の痩せ細った手足を見れば、栄養が足りていないのは一目瞭然だ。いくらエヴァンが工夫を凝らして滋養のある食材を用意してくれても、毎日少量の飲み物だけではいずれ命が尽きてしまうだろう。ヴィンセントは、そう遠くない未来を思って、奥歯を噛み締めた。
 あの、悪夢の一夜から既に半月余り。
 襲われた衝撃と自らの手で人を刺してしまった罪悪感のあまり、セラフィーナの心は瀕死の重傷を負ってしまった。いや、眠ってしまっただけだと、自分は信じている。彼女を失っただなんて、考えたくもない。フレッドなどのせいで、この世で最も大切な宝が壊されたなんて、絶対に認めたくなかった。
 恐ろしい想像を振り払い、ヴィンセントはセラフィーナの口を拭う。何の抵抗もなく、されるがままになっている彼女が悲しい。
 もしも元気な頃であったなら、『子供扱いしないでください』と頬を膨らませるだろうか。それとも恥ずかしげに俯き、真っ赤になった顔を隠し『ありがとうございます』と言うだろうか。
 どんな反応でもいいから、見せてほしいとヴィンセントは願う。だが現実は残酷で、彼女は虚空を見つめるばかりだった。
 破壊されたセラフィーナの精神は、どこに行ってしまったのだろう。粉々に砕けて、もう二度と元に戻ることはあり得ないのかもしれない。考えまいとするほどに不安は大きくなり、ヴィンセントを呑みこもうと狙っていた。
 いっそ、彼女を殺して自分も死のうか。
 考えたのは、一度や二度ではない。しかしその度に微かな希望が脳裏をよぎるのだ。
 あと少し。もう少し耐え忍んだら、奇跡が起こるのではないか。いつかは自分の思いが届いて、セラフィーナが帰ってきてくれるのではないか。
 献身的に尽くしていれば、いずれ慈悲深い神がこちらに微笑みかけて、彼女を返してくださるかもしれない。―――信仰心など、セラフィーナを一時でも奪われたことで、なくしてしまったけれども。
 無能な神であっても、もしも彼女を救ってくれるのなら、永遠に頭を垂れよう。だからどうか、とヴィンセントは今日も屈折した祈りを捧げていた。
 根拠など何もない希望。願望と言い換えてもいい。
 彼女の首に手をかける度、元気だった頃のセラフィーナが囁きかけてきた。
『愛しています。ヴィンセント様。ずっとずっと貴方だけを愛しています』
 無垢な笑顔で、全幅の信頼を瞳に滲ませて。
 せめてもう一度、あの声が聴きたい。彼女が立ち歩く姿が見たい。生きていてくれるのならば、他には何も望まない。
 ヴィンセントは叫びだしたくなる衝動を抑えこみ、セラフィーナの痩せ衰えた身体を抱き締めた。容易に折れてしまいそうな肢体は、頼りなくこちらに体重を預けてくる。だがその奥には、確かに命の火が燃えていた。
 弱々しくても一定の速度を刻む鼓動は、絶えることなく奏でられている。控えめな吐息は、ヴィンセントの肌を擽った。
「セラフィーナ……」
 何でもする。彼女をこの世界に引き留められるのなら、何を犠牲にしても惜しくはない。どれだけ己の手を汚しても、微塵の後悔もないだろう。
 だから、罪を犯そう。いくつも嘘を吐き、偽りの世界を構築するのだ。全ては、たった一人の愛しい人のために。
 ヴィンセントはセラフィーナの頬を自身の両手で包み、真正面から覗きこんだ。
「―――よく聞くんだ、セラフィーナ。君は何も悪くない。罪を犯したのは、フレッド。あいつが君の夫であるヴィンセントを殺した。そして今ものうのうと生きている。君はそれを許していいのか?」
 茫洋としていた彼女の瞳が、微かに揺らいだ。その僅かな変化を見逃さず、ヴィンセントは言葉を続ける。
「君はただの被害者なのに、夫の無念を晴らさなくていいのか? 復讐もせず、このまま逃げるつもりなのか?」
「ヴィン……セント……様」
 セラフィーナの唇が震え出した。心なしか、青褪めていた頬にも血の気が戻った気がする。
 いくら『フレッドは生きているから、気に病む必要はない』と伝えても響かなかった彼女の心に変化が訪れたことを悟り、ヴィンセントは注意深く言葉を選んだ。もしも選択を間違えれば、今度こそ永遠にセラフィーナを失ってしまうだろう。これはきっと、最後のチャンスだ。
 完全ではなくとも、彼女を取り戻せるかもしれない。
「……そうだ。君の愛しい夫は殺された。フレッドの―――この僕の手で」
 セラフィーナの苦しみの大半は、人を刺してしまったという罪悪感からきている。罪を犯してしまった重圧に耐えきれず、崩れてしまった。ならば、そもそも全てをなかったことにしてしまえばいい。事実を捻じ曲げ、彼女のためだけの箱庭を作り上げよう。優しい嘘で塗り固め、どこにも行かれなくなるように。
 自身を許せず、現実が辛すぎるなら、別の生きる目標を与えよう。
「憎め。激しい憎しみが、君を生かしてくれる」
「あ……あ……」
 すり替えられた真実が、彼女の中に沁みこんでいるようだった。
 愛情だけでは生きられないのなら、憎悪で繋ぎとめればいい。セラフィーナの瞳にゆっくり光が灯るのを、ヴィンセントは瞬きもせず見つめた。
「忘れるな。僕の名は、フレッドだ」
 恐れはしない。
 たとえ、誰よりも愛しい妻に罵られ、侮蔑と嫌悪を向けられるとしても―――


「―――様、……セント様……、ヴィンセント様」
 肩を揺さぶられる感覚で、夢が弾けた。
 急激に覚醒したせいか、ヴィンセントは咄嗟に今いる場所がどこだか分からず、視線をさまよわせる。
 暗闇の中、浮かびあがる光景に、ここが自分たち夫婦の寝室だと知った。
「ヴィンセント様、大丈夫ですか? 随分うなされていましたが……」
「セラフィーナ……?」
「はい?」
 夜着を羽織った妻が、心配そうにこちらを覗きこんでいた。
 紺がかった黒髪が、サラリと肩からこぼれ落ちる。不安を湛えた眼差しには、溢れる愛情も満ちていた。
「随分、唸っていらっしゃいました」
 彼女の細い指先が、ヴィンセントの乱れた髪を直してくれた。
「……嫌な夢を見た……」
 内容ははっきりと思い出せないけれど、今も悪夢の残滓が目蓋の裏にちらつく。だが、夢の中身について想像はついた。もう何度も繰り返し見ているものだからだ。己にとって、人生で最も辛かった日々。暗黒の三年間に関するものに決まっている。
 ヴィンセントは大きく息を吐き出すと、セラフィーナの手を握った。
「ヴィンセント様っ……?」
「夢で良かった」
 そのまま彼女を引き寄せて、仰向けに横たわっていた自分の上へと抱き上げた。セラフィーナの細腰を拘束すると、全身に安心感が伝わってゆく。彼女の重みと体温がヴィンセントを慰撫してくれた。
「あ、あの、重くないですか?」
「ちっとも。それより暫くこうしていてくれ」
 でも、と身じろぐ彼女だが、ヴィンセントが首筋にキスをすると大人しくなった。もしかしたら、こちらの腕が微かに震えていることに気がついたのかもしれない。黙ったまま、そっと身体を預けてきた。
「……私も、恐ろしい夢を見ることがあります」
「……セラフィーナも?」
「はい。……一番大切な人を……貴方を喪う夢です」
 それはたぶん、夢と言うよりも過去と言った方が正しい。ヴィンセントと同じ恐れを、彼女も抱えている。きっとどんなに今が幸福で満たされていても、完全に忘れ去ることは難しいのだ。
 お互いの欠けた部分を補い合うように、二人はぴたりと身体を重ねた。そうしていると、同じ速度を刻む心音が、心地よく耳朶を刺激する。この世の何よりも安寧を与えてくれる音色に酔いしれ、ヴィンセントはようやく取り戻した幸せを噛み締めていた。
「僕は、君を置いてどこにも行かない」
「私も、貴方の傍を離れません」
 強く言い切るセラフィーナに、ヴィンセントは苦笑した。本当に、自分の全ては彼女に囚われている。依存しているのは、セラフィーナじゃない。こちらなのだと、ふとした瞬間に思い知らされる。彼女の存在そのものが、ヴィンセントにとっての全てなのだ。
 欠けてしまえば、生きてはいけない。生き永らえる気にもなれない。
 盲目的で閉鎖的な感情だ。きっと世間一般の物差しで測れば、褒められた関係性ではないだろう。依存や執着、負の言葉で表現される間柄に違いない。しかし、それが何だと言うのか。
 けれど一方でセラフィーナが外の世界を望むなら、いくらでも見せてやりたいし、自由を与え飛び回れる機会を提供したいと思っている。本当は閉じられた箱の中、お互いだけを見つめていたいけれど、歪んだ欲望を押し殺すことだってヴィンセントは厭わない。
 むしろ積極的に善人の仮面を被る。
 何もかも、愛しい妻のために。
「愛している、セラフィーナ」
 ようやく。
 気が遠くなるほどの月日を経て、セラフィーナはこの手の中に帰ってきてくれた。たった三年。人の一生で考えれば、さほど大騒ぎする長さではないのかもしれない。しかし、彼女がいなければ呼吸もままならないヴィンセントにとっては、永遠にも等しい時間だった。
 しかも、いつ終わるとも知れない煉獄だ。
 元に戻る保証はどこにもなく、事態が悪化する恐れもある中での三年は長すぎる。幾度、心が折れそうになったか分からない。
 最初は生きていてくれるだけで良いと思ったのに、欲張りなヴィンセントは次第にセラフィーナの回復を願ってしまった。そしていつしか、もう一度愛されたいと祈っていた。
 あがいて、迷って、傷ついて。
 お互いに弱さを曝け出すことができたから、辿りつけた今がある。
「私も、ヴィンセント様を愛しています。貴方がいなければ、生きていられません」
「ありがとう」
 キスを交わしながら、ヴィンセントはセラフィーナの言葉を半分だけ受け取った。きっと彼女は本心から言ってくれているのだと分かっているが、そうはならないとも悟っていたから。
 その証拠に、セラフィーナは偽りの中『夫ヴィンセントが存在しない世界』でも憎しみを滾らせることで生きていくことができた。
 もしもこれが逆の立場だったらどうだろう?
 きっと……いや、確実に自分は死を選ぶ。
 簡単に想像できる結末に、ヴィンセントは苦笑した。彼女には見せたくない、弱くてみっともない面だが、セラフィーナは受け入れてくれるかもしれない。儚い花のようでありながら、逆境の中深く根を下ろすことができる人だから。
「セラフィーナ、夜が明けたら今日は芝居を観に行こうか。昔やっていた演目が、また上演されているそうだよ」
「え、もしかして……」
「そう。君が感動して涙を流したあれだ」
 ヴィンセントが告げれば、彼女は喜びに顔を輝かせた。喜ぶ妻を見るのは、ヴィンセントにとって何よりの喜びだ。
「ありがとうございます。ヴィンセント様……!」
 全身で歓喜を表すセラフィーナにキスを贈り、ヴィンセントはかけがえのない宝を腕の中に閉じこめた。

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