ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

俺様御曹司は報われる

 静のプロポーズを受けてから、早くも一か月半が経過した。
 季節は夏真っ盛りだが、外は連日雨が降っている。台風の影響で一週間近く不安定な天気が続いていた。一通りの家事を終わらせた瑠衣子は、どんよりとした暗い空を見ながら独り言を呟く。
「飛行機遅れなかったかしら……」
 土曜日の昼過ぎ。雨は小降りになったが、今にも雷が鳴りそうな空模様だ。そんな天気の中、婚約者である静が今日ヨーロッパ出張から帰国する。一時間以内には無事に帰国したという報せが来るだろう。瑠衣子はスマホを持ったままソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。
 まさか一週間離れているのが寂しく感じるなんて思ってもいなかった。一人の生活には慣れていたはずなのに、今は早く静の顔が見たいし抱きつきたい。彼の声を直接聞きたいと思うほど寂しさを募らせるなんて、数か月前の自分には考えられないだろう。
「お腹が減っていたら軽く食べられるようにごはんも炊いてあるし、下準備もOK。掃除もしたし、帰ってきたら洗濯物を預かって……ああ、先にお風呂に入りたいかしら?」
 まるで新婚夫婦のようだ。ごはんにするかお風呂に入るか? などと尋ねるなんて。
 自分の思考にくすくす笑うが、ふとその後に続く台詞を思い出した。素面では絶対に言えない、言うのを想像しただけで恥ずかしい台詞を。
 ――でも、言われたら静は喜ぶかしら?
 離れていて寂しかったのはきっと彼も同じはず。それならば、新婚夫婦の定番の台詞を言われたら、喜んでくれるのではないか。
「……」
 しばし逡巡し、瑠衣子は自室のクローゼットを漁り始めた。
 こういう時は白のフリフリエプロンが望ましいだろう。素肌に直接身に着ける勇気はないが、少しくらい可愛らしい恰好で出迎えてあげたい。しかしラブリーすぎる衣服や小物は瑠衣子の趣味ではないので、なかなか近いイメージのものが見つからない。
「あ、でも確か以前太一さんにいただいた洋服の中に……」
 静のマンションへ緊急避難した時、ファッションデザイナーをしている静の友人からサンプルの服を送ってもらったことがある。ワンピースなどの他に部屋着やランジェリー類を一週間分ほど。その中には絶対に着られないと思っていた服がいくつか混ざっていたのだった。
 クローゼットの奥にその時の服が収納してある。その中の一着を引っ張り出してみた。静曰く、その「実用的な服」は、ファスナーで簡単に脱がせてしまえるワンピースだ。薄い桃色のAラインのそれは、胸元と背中がほどよく開いており、裾には繊細なレースが縫い付けられていた。
 自分には可愛すぎるから着られないと思い込んでいたが、着てみたら案外しっくりくる。鏡に映る自分の姿は、思っていたほど悪くない。若干丈が短いのが気になるが、サイズはちょうどよく、まさに“大人可愛い”のコンセプト通りのワンピースだった。
「うーん、ちょっと気合入れすぎ? でも部屋着で出迎えるのも気が抜けすぎよね」
 おしゃれをして静を労わってあげたい。むしろ彼を悩殺するくらいのインパクトが欲しい。破壊力のある台詞を使うのならば、それ相応の演出も必要になる。
 やりすぎかもしれないが、ガーターストッキングを履いてベルトもつけてみた。スカートのすそに隠れて見えないが、椅子に座ったらちらりと見えるかもしれない。
 普段は降ろしている髪の毛をアップにしてうなじを見せる。お気に入りのネックレスをつけて、左手の薬指には静がくれた婚約指輪。薄化粧しかしていなかったが、丁寧にチークを入れて先日購入したばかりの新色のルージュを唇にさっと塗った。
 どこにも行かないが、今から出かけるようなファッションだ。でもきちんとおしゃれをする時間はとても楽しく、それを見せる相手が大切な人だというのも心を浮き立たせる。
 ドレッサーの前から立ち上がり、リビングへ向かったところで、玄関の鍵が開く音がした。
 ――あれ、もう帰って来たの? あ、そういえばスマホをキッチンカウンターに置いたままだったわ!
 先ほどまで持ち歩いていたスマホには着信履歴が三十分前に入っていた。急いで玄関に向かうと、スーツケースを引っ張る静と一週間ぶりに再会する。
「お、お帰りなさい……!」
「ああ、ただいま。電話したんだが、これから出かけるのか?」
「ううん、ちょっとスマホをキッチンに置いたままで出られなかったの。あの、このワンピース変?」
 恥ずかしげに問いかける。じっと見つめてくる眼差しが思った以上に熱いと感じるのは気のせいではないはず。期待通り、静の口許が笑みの形を作った。
「いや、似合っている。それ太一のブランドのものだよな? 悔しいがセンスがいい」
 もう少し丈が短くてもいいな、などと続けられて瑠衣子は返事に困ったが、先ほどまで考えていた台詞を思い出し、はっとする。
 ――本当に言うの? 言っちゃう? 
 ここまでやって、やっぱりなしというのは意気地なしだ。恥ずかしさを押し殺して、瑠衣子はスリッパを履いた静に問いかけた。
「疲れたでしょう? 軽くごはん食べる? お風呂にする? それとも、わ、私……ッ!?」
 グイッと身体が引っ張られたと思った直後、すっぽりと静の腕の中に閉じ込められていた。貪るような口づけに言葉が封じられる。
「ン……ッ、ぁ、ま……、てっ」
「待てない。まさかそんな台詞を瑠衣子の口から聞けるとは思っていなかった。それを言うためにわざわざおしゃれをしたのか? くそ、可愛すぎる」
 額や目じりにキスが降って来る。ギュッと抱きしめられたまま顔中にキスをされて、瑠衣子はまともに目を開けられない。
 体勢を少しずらし、静の両頬に手を添えた。じっと彼の顔を見るために。
「……見せて。一週間会えなくて寂しかったから、ちゃんと静の顔が見たい。少しやつれた?」
「いいや、瑠衣子の顔を見たら元気になった」
 ぐっと腰を押し付けられる。硬いものが瑠衣子の腹部に当たり、それがなにかを瞬時に悟った。直接的なアプローチは相変わらずだ。
「誘ったのは君の方だろう?」
「そうね。じゃあごはんもお風呂も後にする?」
「ああ、まずは瑠衣子を味わいたい」
 横抱きにされて、まっすぐ寝室へ向かう。逞しい腕は瑠衣子に安心感を与えた。やはり自分の居場所は彼の隣なのだと再認識する。
 ゆっくりとベッドの上におろされて、そのまま静から与えられる熱に酔いしれる。徐々に高まる官能と彼への渇望が膨れ上がり、逸る気持ちが抑えられない。
「静、もっとキスして」
「いつも以上に積極的だな。だがベッドの主導権はやらないぞ」
 出会った時の出来事がまだ尾を引いているらしい。静を喘がせて気持ちよくさせたい気持ちは瑠衣子の中にも残っているが、彼の言う通りに頷いた。
「うん、それはまた今度ね」
「……今のは聞かなかったことにする」
 もう黙れという意味も含めて、静がキスを再開する。
 背中のファスナーをおろされて、下着姿になった。ワンピース以外はすべて静が選んだものだ。今では衣類の半分が彼に与えられたもの。下着類が多いが。
「エロい。清楚な服の下に黒の下着とガーターって。どんだけ煽るんだ?」
 ガーターベルトのふちを指でなぞられる。くすぐったさと奇妙なむず痒さが余計に官能を刺激していく。
 ふいに薄いストッキングの上から静が太ももに吸い付いた。濡れた肉厚な舌が、膝の裏をすっと舐める。直接的な刺激は得られないのに、ぞわぞわとした震えが背筋に走った。
「ん……、ぁあ……ッ」
「ダメだ、ゆっくり味わいたいのに我慢ができない……。このままでもいいが全部見たい。瑠衣子、脱がせるぞ」
 言った通り、身にまとっていた下着もストッキングもすべて剥ぎ取られた。昼間から情事に耽るのは恥ずかしいとも思えないほど、ただ目の前の男のすべてが欲しくて、自分から脱がせやすいように身体をよじる。
 そんな瑠衣子の仕草に煽られるように、性急な動きで静も衣服を脱いでいく。シャツもネクタイもスラックスも、ベッドの端に投げ捨てられていった。目の前に近づく肉体美をじっくりと眺めて、瑠衣子は静の胸筋にそっと指先を這わせた。触れたいという純粋な欲求と、自分の知らない痕跡が残っていないかも確かめるように。
「瑠衣子?」
「……確認。私以外の人に触れさせていないか」
 浮気の心配はしていない。けれどふいに独占欲が湧いた。この人の身体も心も自分だけのものにしたいという強い気持ちが心の奥から溢れてくる。
「それは俺の台詞だな。俺以外の男に君を触らせたくないし見せたくない」
 ふっと微笑んだ表情が慈しみに満ちている。静の瞳に自分しか映っていないことがどうしようもなく心を震わせた。
 素肌のまま抱き合うのが心地いいというのも彼に出会ってはじめて知った。安らぎを得られる人に出会えて、そして自分を何度も求めてくれた彼に感謝の気持ちでいっぱいになる。
「愛してるわ」
 そっと自分から彼の唇に触れれば、荒々しいお返しをされる。 
「……今日の食事はいらない。瑠衣子だけがほしい」
「食べて? 好きなだけ」
 そんなふうに煽ったのを若干後悔しつつも、わかりやすい愛情を示してくれる静が愛おしくて、瑠衣子は幸せに浸った。

 ◆◆◆

「――そうだ、君の両親へ挨拶に行ってきたぞ」
 動けなくなった瑠衣子の代わりに静が用意した遅い夕飯を食べながら、彼は思いもよらない発言をした。
「……え? わざわざパリまで行ったの? 出張先はブリュッセルよね」
「ああ、帰りはパリ経由で帰国した。突然の挨拶にも快く対応してくれて、瑠衣子のご両親は懐が深いな」
 懐が深いというか、あまり深く考えないところがある。大抵のことは軽く流されることが多いのだ。さすがに娘の結婚まで「あら、そうなの」で了承されることもないと思うが……。
「えっと、なんて言ってたの?」
「瑠衣子に彼氏がいることを知らなかったと。……君は俺のことを話していなかったんだな。婚約も寝耳に水だと言っていたぞ」
「いつも両親は秋に一時帰国するから、その時でいいかと思って」
 まさか静が自分の知らない間に両親にコンタクトを取って会いに行っているとは思わなかった。行動力がありすぎる。仕事ができる男はこれだから恐ろしい。
「秋まで待つなど遅い。俺は一日も早く瑠衣子と籍を入れたいと思っているのに」
「……っ!」
 ――嬉しい、けど照れる……。
 きっと両親からいくつもメールが届いているはずだ。母は静を見てはしゃいだに違いない。
 近いうちに国際電話もかかってくるなと思いながら、静の両親への挨拶をいつにするか尋ねた。
「すぐに連れて来いと言われているから、明日行くことになった」
「え? 明日!?」
「瑠衣子の両親への挨拶が先だと言って先延ばしにしてたんだがな……。うちの家族は全員せっかちで困る」
 ――うそ、心の準備が!

 明日、挨拶で緊張している間に式の日取りまで決まってしまうことを、この時の瑠衣子はまだ知らない。

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