ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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捕獲

「……え? ビビが捕まったですって……?」
 アリエスは言われた意味が咄嗟に呑みこめず、ぱちくりと眼を瞬いた。
 聞き間違いだろうかとフェルゼンの顔をじっと見つめる。
「どこぞの依頼を受けて失敗したと報告があがってきた」
 ため息交じりに告げる彼からは、嘘の気配がしない。そもそもフェルゼンがアリエスを謀る必要がない。しかもアリエスの大事な友人であるビビの名前を使って。
「ど、どういうことでしょうか? まさか罪に問われるのですか……っ?」
 蒼白になり詰め寄るアリエスに、彼は心底嫌な顔をした。
「だから言いたくなかったんだ。お前は心配して、すぐにでも助けに行こうとするだろう」
 まさにどこへ行けば彼女を助けられるのかと考えを巡らせていたアリエスは、図星を突かれて言葉に詰まった。詳しい話を何も聞いていないのに、部屋を飛び出しかねないくらい気が逸っている。
「それで、いったいどこに拘束されているのですかっ? 」
 ビビが危険な仕事を生業にしているのは知っている。時には犯罪めいたことをしているのも 。半年前、フェルゼンを狙う陰謀の渦中にいたアリエスは、彼女に一服盛られて拉致されたのだから。
 ―――もっとも、あれはフェルゼン様が立てた作戦だったのだけど……
 敵を騙すにはまず味方から。二重間諜であったビビは、鮮やかに姿を消し、以来アリエスとは会っていない。だが友達であるという気持ちには、微塵の揺らぎもなかった。
「それがちょっと……いや 、かなり厄介でな……」
「まさか、フェルゼン様のお力も及ばない相手なのですか?」
 血の気が引いたアリエスは、よろよろとソファーに座りこんだ。
 贅沢な作りの座面は、柔らかく沈みこみアリエスを支えてくれる。肘掛けには繊細な彫金が施され、まるで芸術品だ。室内には他にも負けず劣らず贅を尽くした調度品が置かれていた。
 ここはアリエスが彼から賜った部屋。王妃のための居室だった。
「あまり興奮するな。身体に障る。もうお前一人の身体ではないのだぞ」
「そ、そうは申されましても……」
 アリエスの腹には、待望の子が宿っていた。まだ安定期前なので油断はできないけれど、日々すくすくと育っている。幸い結婚式は腹の膨らみが目立たないうちに挙げられたのでよかった。
 いくら愛妾 として周囲から認識されていたとしても、大きなお腹 を抱えて国民へのお披露目に挑む勇気は、アリエスにはない。
「心配しなくても、首を刎ねられるようなことにはならん」
「で、でも鞭打ちとか逆さ張りつけや水責めなんてことには……」
「お前、我が国をどんな野蛮な拷問国家だと思っているんだ。そんな苛烈な刑罰は、とうの昔に私が廃止している」
「では少なくともリズベルト国内で起きたことなのですね」
 僅かに安心し、アリエスはほっと息を吐いた。しかし 、ならば何故、フェルゼンは厄介だと言うのだろう。彼は賢王。この国で誰よりも尊敬され支持を集める君主なのに。
「……どうやらロベルト以外にもまだ私を狙う残党がいたらしい。あの女は、その者たちの仕事を受ける振りをして、こちらに情報を流してきた。その途中、敵を信頼させるための諜報活動で宰相の屋敷に忍びこみ、捕まったそうだ」
「宰相様の……? でしたら、フェルゼン様の片腕ではありませんか」
 ほとんど話したことはないが、彼が最も信頼する部下の一人だったはずだ。つまり敵対勢力ではないし、事情を話せば分かってもらえるのではないだろうか。
 アリエスはフェルゼンより七つ年上である 宰相の顔を思い浮かべた。
 現在三十二歳の彼は、二十七歳の若さで宰相の地位につき、切れ者と評判だ。そして、いつも優美な微笑を浮かべている。決して女性的ではないけれど、男性らしいフェルゼンと比べると、ほっそりとした体躯で優しそうな風貌をしていた。この国で髪を長く伸ばしている男性は珍しく、それを陰で嘲る者もいるが、彼の長髪は端整な顔立ちにとてもよく似合っている。
 穏やかで、どんな相手にも丁寧な言葉 づかいを崩さず、アリエスへの接し方も最初から紳士的だった。
 二人の結婚に反対する意見を封じこめる手助けをしてくれたので、アリエスとしても悪感情は持っていない。―――が、油断ならない人物だと も思っていた。
 フェルゼンと同じで、底の知れない印象があるからだ。端的に言えば、眼が笑っていない。
「宰相様―――バシリウス様でしたら、ビビが敵ではないと理解していただけるのではありませんか?」
「それはそうなんだが……」
 煮え切らない彼の態度にアリエスは再び立ち上がった。
「許されるのであれば、私も口添えいたします! バシリウス様はきっと誤解なさっているのですね。きちんと説明すれば彼女を解放してくださるはずです」
「いや、無理だ」
 フェルゼンにバッサリ切り捨てられ、アリエスは眼を見開いた。
「何故ですか? ビビはフェルゼン様のために……! ―――あっ、まさか父の時と同じような罠に嵌ったのですか……?」
「いや、そういうことではなく……何と言えばいいのか……あー、つまり、率直に言うと、奴はビビを気に入ったから、嫁に欲しいと言ってきた」
「……はい?」
 たっぷり間をおいて、アリエスが返した言葉はたった二文字だった。妙な沈黙が流れる中、必死に頭を働かせるが、彼の言っている意味が分からない。当初の話では、敵を欺くために行った宰相宅への侵入行為でビビが拘束された―――という流れではなかっただろうか。いったいどこから結婚云々の痴情の縺れになったのだろう。
「だがビビ本人は断固拒否の姿勢でな。双方から何とか相手を説得してくれと言われて、私も頭が痛い。それで仕方なく、 今お前に相談しているというわけだ」
「はぁ……」
 間の抜けた返事をし、アリエスは我に返った。
「ええと、つまり……現在バシリウス様がビビに一目惚れをし、彼女が求婚を突っぱねている……という解釈でよろしいでしょうか」
「しかもビビが 結婚を受け入れるまで屋敷から出す気はないと宣言しているから、揉めている」
「ええ……」
 それは頭を抱えたくなる。熱烈な求婚と言えば聞こえはいいが、ようは選択肢のない強要である上 に、監禁ではないか。
 華やかで洗練されたビビの容姿にバシリウスは惑わされたのかもしれないが、あんまりである。
「いくらビビが美人でも、唐突すぎます。急すぎて、見た目だけを気に入ったと思えてしまいます 」
「それが、バシリウスから詳しく話を聞いてみると違っていてな……曰く、『見事なナイフ捌きと迷いのない身のこなしに、心臓を打ち抜かれた』らしい」
「……こう申し上げては何ですが、バシリウス様って意外に、その……アレですね」
「ああ。だいぶアレだ。淡泊な男だと思っていたが、まさかこんな本性を隠していたとは」
 やれやれと頭を振るフェルゼンをアリエスは生暖かい目で見つめた。そういう彼 も相当アレの部類だと思う。
 それはともかく、問題はビビの件だ。気持ちを切り替えたアリエスは、やはり彼女に会いに行かねばと意気込む。
「フェルゼン様、いくら何でも女性を閉じこめ自由を奪った上で愛を囁いても、心を得るのは難しいと思います。ビビの性格から考えれば、余計に意固地になるでしょう。私からも二人と話をさせていただけませんか? お互いにとって、いい結果になってほしいですもの」
 それによく考えてみれば、悪い話ではない。宰相夫人に収まれば、ビビが仕事で危ない橋を渡ることはなくなるはずだ。彼女が守っている家族にも 、今よりいい暮らしを保証してあげられるのではないか。アリエスとももっと気軽に会えるようになる。
 いいこと尽くめな気がするが、問題は、ビビが何を幸福と捉えるかにかかっている。
「アリエスの外出は許可できない。医師からも極力出歩くなと言われているだろう。振動の大きい馬車に乗るなど、言語道断だ。」
 過保護なフェルゼンは頑として首を縦には振ってくれない。だが。
「だから、こちらに二人揃って来るよう呼びつけた。王命ならばバシリウスも無視はできない からな」
「フェルゼン様!」
 喜びに顔を輝かせたアリエスは彼に抱きついて感謝を示した。

 その翌日。

 いつも通りの柔和な笑顔を崩さないバシリウスが、仏頂面のビビを連れてアリエスの私室にやってきた。

「ビビ! 久しぶりね」

「ローズ! この気持ち悪い男に何とか言ってよ!」

 挨拶もそこそこに彼女が歯を剥く。よほどうんざりしているらしく、バシリウスに掴まれた腕を引き剥がそうと躍起になっていた。しかし涼しい顔をした彼は全く気にした素振りもなく、優雅な挨拶をする。

「王妃様、ご機嫌麗しく。お身体の具合はいかがでしょうか?」

 一見洗練された紳士だが、傍らには怒りで顔を真っ赤にしたビビを拘束している。彼女の力がかなり強いことを知っているアリエスとしては、まるで意に介さないバシリウスに少々感心してしまった。

「ええと……とりあえず、二人とも座って?」

「ありがとうございます。では失礼いたします。さ、ビビ。貴女も」

「気安く私の名前を呼ばないで!」

 彼は下手をしたら自らの膝の上へビビを座らせかねない勢いだったが、流石にアリエスの前では自重したらしい。だが手はしっかりと繋がれたままだ。

 ―――あ、頭が痛いわ……

 どう見ても前途多難な現状に、眩暈がした。ここからどうやって解決策を探るか、考えるだけで頭痛がひどくなる。選択肢としては、バシリウスにビビを諦めさせるか。はたまたビビに求婚を受け入れてもらうか、なのだが。

 ―――後者は難しそうだわ……

 手負いの獣よろしくバシリウスを威嚇し、警戒心を漲らせている彼女を見れば、どう考えても恋情は生まれそうもない。アリエスは叶うならビビに結婚してもらいたかったけれど、彼女が望まないのであれば仕方なかった。

「二人とも、もう少し冷静になりましょう。距離を置いて冷却期間を設けたらどうかしら?」

 その間にバシリウスの熱が冷めるかもしれないし、ビビを匿い逃がしてもいい。内心そう考え、アリエスは提案した。

「それは無理です、王妃様。彼女が傍にいないと私は仕事が捗りません」

「聞いたか、アリエス。まるで脅迫だろう。ビビを得られなければ、宰相の仕事を放棄すると言っているように私には聞こえる」

 同席しているフェルゼンが苦笑交じりに囁いた。―――頭が痛い。しかもどうして か、フェルゼンはどこか楽しげなのだ。

「この人がやる気を失っても、私には関係ないわ。今すぐ解放しろと命令してください」

「だがビビ、バシリウスの手腕のお陰で平和が保てているとも言える。私一人の力では難しいのだ。 お前は無用な戦争が一番嫌いだろう? この男は、周辺国との交渉が抜群に上手いぞ。なくすには惜しい」

 気だるげに前髪を掻き上げたフェルゼンが、半笑いで返す。

 ―――やっぱりフェルゼン様、面白がっているわ……

 この王にしてこの宰相あり。二人とも充分に『アレ』だ。

「じゃあ、私にこの変態の犠牲になれと言うのですか?」

「へ、変態?」

 とんでもない単語 に、アリエスは思わず前に座るバシリウスを凝視した。清潔感があって知的な彼に、そんな一面があるのか。

「そう怒るな。お試し期間ぐらいあってもいいだろう。聞けばお前たちは出会ってまだ十日も経っていない。互いを知れば、気が変わることもある。私とアリエスだってそうだった」

「……確かにフェルゼン様のおっしゃる通り、私たちも始まりは散々でしたね。けれど時間を重ねれば、見えるものも変わります」

 バシリウスがビビに幻滅することもあれば、ビビがバシリウスのいいところを見つけることもあり得なくはない。アリエスは深く頷いて友人に視線を向けた。

「ねぇ、ビビ。慌てて結論を出すこともないんじゃない?」

「ローズ、貴女までそんなことを言うの? 男 たち二人に丸めこまれないで」

「えっ」

 丸めこまれた自覚がないアリエスは驚いて、隣に座るフェルゼンを見た。彼は悪辣な笑みを一瞬で掻き消し、何事もなかったかのように、長い足を組んで座っている。

「……フェルゼン様……?」

 何故だろう。最初から結論ありきで、掌の上で転がされている気が猛烈にしてきた。これは話し合いと言うよりも、ビビを篭絡する場にアリエスが加担させられていると表現した方が正確ではないのか。

「わ、私はビビが望まないことを強要するつもりはありません。だって友達ですもの」

「ローズ……!」

 アリエスが慌てて首を横に振れば、彼女はホッとしたように肩の力を抜いた。いつも堂々としていたビビからは想像もできない弱気な様子だ。それだけ、バシリウスに捕まってから追い詰められていたのかもしれない。

 ―――やっぱり宰相様は油断ならない方だわ……フェルゼン様もだけど。

 心してかからねばならないとアリエスは己を奮い立たせたが、その時、ちらりと時刻を確認したフェルゼンが立ちあがった。

「そろそろ執務に戻らねばならないな」

「では私も参ります」

 バシリウスも後に続き、当然のようにビビを連れて部屋を出て行こうとする。

「フェルゼン様、お待ちください。まだ話し合いは終わっていません……!」

「ん? だから、お試し期間を設けると言っただろう」

「ビビ本人が了承していないじゃありませんか。しかも期日が区切られていませんし、最終的な条件なども明確にされていません」

「アリエスは騙されやすいが、頭は悪くないな」

 皮肉な笑みを口の端に乗せたフェルゼンが、アリエスの頭をわしゃわしゃと撫でてくる。どさくさ紛れにキスまでされた。

「ごまかさないでください!」

 このままではビビの意見は無視されて、なし崩し的にバシリウスに囲われてしまう。そんなことは許せなかった。

「きちんと対応してください。賢王として、民の意見に耳を傾けてください」

「では王としての意見を言わせてもらおう。私は優秀な部下を失いたくないし、妻の友人で使える女も監視下に留めておきたい」

「なっ……」

 何て強欲な。唖然としたアリエスが食ってかかろうとした時―――

「またね、ローズ!」

「ビビ!」

 一瞬の隙をついてビビが身を翻した。そのまま鮮やかに窓枠を飛び越えると、器用に外壁の出っ張りに手足をかけ、スルスルと地上まで下りていってしまう。

「ああ……私の天使が」

 それは、見惚れるほど無駄がなく美しい動きだった。腕の立つフェルゼンでさえ咄嗟のことに反応できなかったらしい。しばし呆然とした後、腹を抱えて笑い出した。

「ふ、はははっ、これは見事だ。なるほど、バシリウスが夢中になるのも分からなくはない。男は逃げるものほど追いたくなるからな」

「してやられました……ですが、これで終わりではありません。むしろ楽しみが増えました」

 男二人が、似たような黒い笑みを浮かべ執務室へ向かうのを、アリエスは頬を引きつらせて見送った。

 どうやら自分も、とんでもない男に捕まってしまった気がする。心まで囚われてしまった今となっては、逃げようなんて微塵も思わないけれど……

 ―――ビビはいつまで逃げていられる かしら……

 大切な友人に、アリエスは祈りをささげたい気分だった。

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