ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

新婚旅行

「やっと会いに来てくれたのね! オリヴィア!」
「お久し振りです、エリー様」
 まだ幼さを残した美しい少女が、ブラッドフォードの隣に立つ妻に飛びつく勢いで抱きついた。
 はしゃぎながら手を握る様は、傍から見ると微笑ましい。
 自分が初めてオリヴィアと出会ったのは、これくらいの年頃だったことを思い出す。女性らしい丸みを帯びつつ、稚さも留めた細い手足と肢体。肌は若々しく、瑞々しさが眩しいほどだ。
 ブラッドフォードが思わず懐かしさに眼を細めると、少女は警戒心も露に横目でこちらを窺ってきた。
「……あの、エドモンズ様も、ようこそいらっしゃいました」
 一段下がった声のトーンに、歓迎されていないことがありありと滲んでいる。
「エリー様、ご招待ありがとうございます」
 ブラッドフォードが礼を述べれば、彼女は『貴方は呼んでいない』と言いたげに視線を逸らしたけれど、そこは良家の子女らしく口にしなかった。代わりにやや不満そうに顔を強張らせたまま、形ばかりの挨拶を返してくれる。
「遠いところから起こしくださり、お疲れでしょう。すぐに部屋を用意させます。先にお茶でもいかがですか」
 言葉こそ丁寧だが、口調はどこか素っ気ない。けれどそれも仕方のないことだ。初めてブラッドフォードとエリーが顔を合わせた際、こちらが彼女を怯えさせるような態度をとってしまったのだから。しかも慕っていたオリヴィアを突然連れ去る形になってしまった。
 以来エリーの中で、ブラッドフォードはすっかり『信用ならない、怖くて嫌な人』という印象になっている。
「まぁ……エリー様、ご立派になられて」
「もう、オリヴィアったら。私ももう嫁いだのよ? 一人前の淑女なんだから」
 ブラッドフォードとオリヴィアが結婚して約九年。以前エリーの子守を務めていたオリヴィアにとって、彼女の成長した姿を見る感動はひとしおらしい。涙ぐみながら、かつての主を見つめていた。
「せっかく結婚式に呼んでくださったのに、参列できず申し訳ありませんでした」
「いいのよ、気にしないで。だって赤ちゃんがお腹にいたんだもの、無理をしたら大変なことになっちゃうわ。そんなの困る。今日こうして改めて来てくれただけでも、私は嬉しいの。どうせなら、オリヴィアの子供たちを連れてきてほしかったけど……」
「次回は連れてまいりますね」
 下の子は産まれてまだ一年。長旅はとても無理だ。ブラッドフォードは第一子の息子だけでも連れてこようかと思っていたが、現在、年の離れた妹にメロメロの息子は赤子と離れたくないと主張し、リントン行きを断固拒否した。
 結局今回は、ブラッドフォードとオリヴィアだけでエリーの結婚祝いに訪れることになったのだった。
 二人だけの時間は、正直久し振りだ。道中も何だか気恥ずかしく、ぎこちない時間を過ごしていた。別に居心地が悪いとか嫌な空気になるわけではなかったけれど、お互いに照れていたのかもしれない。
 どちらも饒舌ではない上、あまり新婚らしい期間を経ることなく家族になってしまったからだろう。結婚生活はそれなりに長い。だが夫婦水入らずの時は、諸事情によりほとんどなかった。
 今考えれば、勿体ないことをしたと思う。だから実質、この田舎町への旅は二人にとって新婚旅行と言っても過言ではなかった。
 そんなわけで、列車や馬車での移動中などにこれまで知らなかったオリヴィアの初々しい面を沢山見られ、ブラッドフォードは上機嫌だ。今では母親になった彼女だが、昔と比べても愛らしさや美しさは損なわれていない。むしろ大人の女性として魅力を増したかのように思う。
 芯の強さや純真な性格はそのままに、落ち着きと包容力を身に着けたオリヴィアは、もはや他の女性と比べることさえできない。余所見など考えられないほどに自分の心を捕らえて、放さない存在だ。
 妻への愛情を再確認し、ブラッドフォードはオリヴィアの腰を抱いた。するとエリーの眉間に皺が寄ったけれど、そこは気がつかなかった振りをする。
 屋敷の女主人であるエリーの案内に従い新居の応接間に通され腰かければ、すぐに菓子と茶が並べられた。
 彼女が嫁いだ先は、なかなか裕福な商家であるらしく、昔の主が幸せであることを確認し安心したのか、オリヴィアはまた瞳を潤ませている。
「奥様たちはお元気ですか?」
「ええ。お母様は最近教会のバザーに取り組んでいらっしゃるわ。それはもう熱心だから、また誰かに騙されやしないかと冷や冷やしているの」
「エリー様ったら」
 楽しげな二人の会話をにこやかに見守りつつ、ブラッドフォードの心中は穏やかではなかった。何故なら、奥様『たち』の複数形に含まれる意味が気にかかってしまったからだ。
 オリヴィアがこの町で深く交流していたのは、ニコルズ家の人々ともう一人くらいである。そしてその『もう一人』こそが、ブラッドフォードに複雑な嫉妬心を抱かせる人物だった。
「ビルのところには、また一人子供が増えるのよ。本当にあの夫婦は仲がいいんだから。お店も繁盛していて忙しいし、最近では店舗を拡張する予定があるみたい」
 ―――ビル。
 丁度話題に出された男の名は、ブラッドフォードの心を荒いやすりで削っていった。そんな気持ちを抱く必要はないのだと何度オリヴィアに諭されても、こればかりはどうしようもない。
 自分が彼女を傷つけ手を離していた間に、その傷心を癒す役割を担っていた男。ボロボロになっていたオリヴィアに寄り添い立ち直る力になったことは明白だ。三年という短くはない間、ブラッドフォードが知らない彼女を間近で見守り続けたことになる。
 オリヴィアにそのつもりがなくても、当時のビルは間違いなく彼女に恋心を抱いていた。だからこそ――――何年経とうと、彼が妻を娶ろうと、ブラッドフォードはその名を聞くだけで冷静ではいられなくなるのだ。
 オリヴィアがビルから贈られたネックレスを、たとえ身に着けることがなくても未だに所有していることも原因の一つだった。あのガラス玉はもしかして、どんな宝石より彼女にとって大切なものなのではないかと邪推せずにはいられない。
 オリヴィアが人から貰ったものを邪険に扱える人間ではないと知っていながら、わだかまる想いを捨てきれずにいるのだ。
 ブラッドフォードは砂を噛むような気分で紅茶を飲み下し、何でもない振りをした。実際には激しく動揺していたが、高い矜持がそれを出すことを許さない。意味のないプライドだと自分でも分かっている。処分してほしいと口にすることで呆れられるのが怖くて堪らないほど、自分は彼女に溺れているのだ。
「……ブラッドフォード様?」
 膝の上に置いていた片手に、温かく柔らかな手が重ねられる。ハッとして指先から腕へ辿って視線を上げると、オリヴィアが微笑んでいた。
 何もかも、承知しているかのように穏やかに優しく。眼が合った瞬間、一層瞳を細めた彼女は、ブラッドフォードを宥めるように指を絡めてきた。
 控えめで恥ずかしがり屋のオリヴィアは、普段人前で自ら親密な行為に及ぶことはない。こちらから迫れば、渋々受け入れてくれるぐらいだ。
 それが積極的に触れ、あまつさえ身を寄せて密着してきた。甘えるように肩に頭をもたれさせ、再度微笑を浮かべこちらを見つめてくるので、どうしたのかとブラッドフォードの方が戸惑ってしまう。
「オリヴィア……?」
「ブラッドフォード様、エリー様はこんなに立派なレディになられ、息子は妹思いのいい子に育ち、夫は私を愛してくれている……幸せ過ぎて、眩暈がしそうです」
 そんな言葉が、いったいどれだけ自分の心を揺さ振るのか、きっと彼女は知らない。
 ブラッドフォードの存在は、オリヴィアに不幸しかもたらさないとずっと思ってきた。傷つけることでしか彼女と関わり合えないのなら、いっそ出会わなければよかったのかもしれない。他人のまま、すれ違うだけに留めておけば、苦しむことも己の中にある醜さとも対峙する必要はなかった。
 だがそれでも―――
 愛し愛される喜びを知ってしまった今、到底手放すことなんてできるわけがない。何故ならオリヴィアだけがブラッドフォードを人間にも悪魔にも変えてくれる。生きる喜びも苦悩も全て、彼女がいなければ本当の意味で知ることはなかっただろう。
 のたうち回るほど後悔に苛まれても、復讐だけを心の内に宿らせていた頃よりずっと幸せだ。願わくば、同じかこれ以上の幸福をオリヴィアには感じてほしい。―――彼女から全てを奪ったせめてもの罪滅ぼしに。
 だからこそ折に触れ、ブラッドフォードは確かめずにいられないのだ。『君は本当に幸せか?』と問いかけ、帰ってくる言葉に安心したかった。
 我ながら矮小で狡い男だと自覚はしている。罪悪感があるからこそオリヴィアの返事に一喜一憂し、彼女を囲う檻の補強をするのだ。悟られないよう慎重に、けれど確実に少しずつ。
 最近では何か察しているのか、オリヴィア自ら幸せだと告げてくる。その度にブラッドフォードは泣きたいような不思議な衝動に駆られていた。
「幸せ、なんです。貴方も同じだと、私は嬉しい」
 もしかしたら、本当に彼女は全てを知っているのかもしれない。それこそブラッドフォードが拭えない罪の意識も、オリヴィアの父に何をし、何をしなかったのかまで―――
 まさかと勘繰るほどに澄んだ双眸に見つめられ、ブラッドフォードは瞬きも忘れた。
 絡み合う視線。繋がれた指先。肩にかかる重みと温もり。吐息が乱れオリヴィアだけに囚われる。
 一つだけはっきりしているのは、仮に過去に戻れたところで自分は同じ選択をするだろうということだ。あの男への憎しみは、完全に消えることなどない。全部忘れて新しい人生を歩むことなど、ブラッドフォードには無理だった。
 そしてオリヴィアを愛さずにいることも、同じだけ不可能なのだ。暗がりに生きる者にとって、彼女はあまりにも眩しすぎる。
「……ああ、とても幸せだ」
 仮に地獄に堕ちる罪を重ねたとしても。
「ちょっと! 二人とも私がいることを忘れていませんか?」
 じっと二人で見つめ合っていると、前に座ったエリーから抗議の声が上がった。すっかり今の状況を失念していたブラッドフォードは、膨れ面の少女に慌てて眼をやる。するとエリーは腕を組み、肩を怒らせた。
「もうっ。仲がいいのは良いことですけど、私に会いに来てくれたのではないの?」
「も、申し訳ありません。エリー様」
 顔を真っ赤にしたオリヴィアも、きっとエリーの存在を忘れていたのだろう。慌てふためき十歳以上年下の少女のご機嫌を取ろうとしていた。
「オリヴィアったらひどいわ。私、今日貴女に会えるのをとっても楽しみにしていたのに」
「私もです。この日を指折り数えて待ち望んでいました」
 ひと月前から荷物についてジュリアと相談していたオリヴィアの言葉に嘘はない。彼女は本当に今日を心待ちにしていたのだ。しかしむくれてしまったエリーの怒りの炎は、簡単には治まってくれない。その矛先は、主にブラッドフォードに向けられているらしい。
「ふぅん。それじゃあ、いったい誰が悪いのかしら」
 じろりと大きな瞳で睨みつけ、邪魔者だと言わんばかりの顔をする。愛され、大切に育てられた者特有の天真爛漫さと自信がエリーからは溢れていた。
 そういった純真さは、ほんの少しオリヴィアに似ている。そう思うと、ブラッドフォードの頬は自然と緩んでいた。
「可愛らしい」
 当時はオリヴィアに告げたくても口にできなかった言葉がするりと出てくる。虚を衝かれた様子のエリーは瞳を瞬き、その後頬を赤らめて余計に眦を吊り上げた。
「……よく言われるわ!」
 もしも過去のオリヴィアにブラッドフォードが同じ台詞を言っていたら、きっと全く違う反応が返ってきたのだろう。見られなかったことが惜しいが、想像するだけで楽しかった。おそらく彼女は照れてしまい、暫くは口も利かなくなってしまったかもしれない。茹るほど赤面し、逃げてしまった可能性が高い。
 二度とやり直すことはできないけれど、未来ならいくらでも新しく積み上げていくことができる。
 ブラッドフォードは、プイッと横を向いてしまったエリーの眼を盗み、オリヴィアの耳に囁いた。
「でも、一番可愛いのは君だ。愛している」
「……!」
 耳を押さえ、真っ赤になったオリヴィアが、パクパクと口を開き何か言おうとしている。しかし適切な言葉が見つからないのか、潤んだ目を瞬いただけだった。
「……あ! また二人だけでイチャイチャしているのね?」
 敏感に見咎めたエリーが険しい顔でブラッドフォードを睨みつけた。だが直後にオリヴィアの様子に眼をやり、大仰な溜め息を吐く。
「……でもオリヴィアが幸せなら、しょうがないわね」
 どうやら妻のかつての主にお許しをいただけたらしい。ブラッドフォードとオリヴィアは顔を見合わせ、同時に破顔した。

一覧へ戻る