ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

領主一家の日常

 最初の誘拐の犯人がディレストだったとジョアンナが知った。

「――は?」
 意味がわからない、という顔をしたのは、生まれた子供――長男サヴェルを抱えたジョアンナだ。
 どうしてジョアンナがそれを知ったのかと言うと、出産祝いの品と共に届けられた手紙に書かれてあったらしい。
 ディレストにしてみれば、言ってなかっただろうか、と思った程度だが、ジョアンナの固まったままの顔を見ると、予想以上に驚いているようだ。
 そのままではサヴェルを落としてしまうのでは、と心配したのはディレストの侍従であるクラウスだ。
 能力的にも立場的にもベルトラン領主館の執事になってもおかしくはないのだが、未だ侍従のままでいる。
 クラウス曰く、この立場の方が都合がいいとのことだが、他の使用人たちへの言動を見るに、実質、執事と変わらないことは領主館の誰もがわかっていることだ。
 そのクラウスは、流れるような動きでサヴェルを受け取った。子供を抱っこした状態で固まっていたジョアンナは、ソファに座ったままのディレストを穴が開くほど見つめていたかと思うと、一度目を閉じ、そして額を押さえてもう一度顔を上げた。
「――つまり貴方が誘拐犯?」
「誘拐とは人聞きが悪いな。運命の出会いだ」
「どういう意味!? そんな――そんなこと、は」
 だんだんと声の勢いがなくなっていく。ジョアンナは過去の自分を何か思い出したのかもしれない。
 しばらく考えている様子だったが、はっとしたように感情をぶつける。
「そんなことあるはずないでしょう、あのときいったい何歳だったと思ってるの! というか、私が誘拐されて両親が、みんながどれほど心配して……っ」
「君は二歳になった頃だったか。僕は十歳だ。歳の頃としては、似合いだな」
「似合ってない!」
「今もちょうどいいじゃないか」
「ちょうどよくない!」
 感情的になったジョアンナの怒った顔も好ましいが、そのままでは声が嗄れそうだな、とディレストはなだめることにする。
「――落ち着け、ジョアンナ」
「お、おち、落ち着いて――いられないわよ!」
 おそらく、過去の様々なことを思い出して動揺しているのだろうが、すべてが今更ではあるし、そもそも最初の誘拐が誘拐でなかったのはお互いが知っているはずなのだ。
「あれは誘拐ではない。何しろ――君は泣いても怒ってもいなかった。僕と仲良く遊んでいたんだ」
「――そんな」
「それは僕の両親が証人だ。あまりに仲睦まじい様子だから、僕の両親も誘拐だなんて考えもしなかったくらいだからな」
「だ……っだ、だけ、ど! でも!」
 実際のところ、ジョアンナはその当時の記憶など曖昧なものだろう。
 正直、ディレストもはっきりとした記憶はない。
 しかし、そのときジョアンナと引き離されてから、理想の女性を探すようになったのだから、ジョアンナとディレストは運命で結ばれていたのだろう。
だからその運命を引き裂いた両親たちを怒るのならわかるが、ディレストに怒りをぶつけるのは間違っている。
 大きく深呼吸を繰り返していたジョアンナは、その美しい顔を歪めた後、綺麗な黒曜石のような瞳をディレストに向けた。
 その視界の中に自分がいると思うと、いつでも、どんな場所でも興奮してしまうのは仕方のないことだった。
「でも……でも、私たち、親になったのよ」
「そうだな」
 嫡男であるサヴェルが産まれたのは、一か月半前のことだ。
 出産とは、男は何もできないと思い知った日でもある。
 しかし無事産まれてくると、安堵と共に喜びが溢れるのだから、不思議なものだった。
 他の経験者から聞いた話では、ジョアンナのお産は安産だったらしく、産後も子供共々元気だ。
 サルのような生き物からようやく人の顔になってきた気がするサヴェルは、ディレストに似ていると言われることが増えた。そのことに、周囲が今からいろいろな心配をしているようだが、自分に似ているのにいったい何を心配するのか、ディレストはまったくわからない。
 美しい顔を持ってサヴェルも幸せであるはずだ。
 そのサヴェルを、ジョアンナは何より可愛がっている。
 産まれる前より可愛がっている。
 自分より優先されている気がして、ディレストは息子にライバル心を燃やし始めていたのだが、そろそろ夫婦生活を復活させてもよいようなので、今夜からジョアンナには母親ではなく、妻に戻ってもらおうとも考えていた。
 そのジョアンナはディレストに対し、なぜか複雑な顔をしている。
「親にとって子供がどれほど大事で可愛い存在か、わかっているでしょう?」
「そうだな」
「それなら、この子が誘拐されたら、貴方だって心配するでしょう!?」
「そうだな。すぐに誘拐犯を捕らえて死んだ方がましな目に遭わせるとも」
「――――」
 即答したディレストに、ジョアンナは一瞬呆気にとられたようだが、何かを呑み込んだように続ける。
「――じゃあ、私が誘拐されたことで心配した両親の気持ちだってわかるでしょう?」
「僕は誘拐していないというのに」
「だから! ええと!」
 ジョアンナの可愛い顔が、怒りと言うより混乱の表情に変わっていく。
 視線をさまよわせ、部屋の隅でサヴェルを抱くクラウスを見て、それからディレストに戻す。
「――あの子が、サヴェルがもし突然誰かを連れて来たら、どうするの?」
「良くやった、と褒めるが?」
「――えっ」
「運命の相手を自分で連れて来たのだから、褒めるべきだろう。あと、引き離されることがないようにフォローをしてやるかな――まずは婚約という形になるか?」
 意見を求めるつもりでジョアンナを見て、驚いて固まっていた妻に反応がないのを見て取ると、付き合いの長い侍従を見る。
「――恐れながら、サヴェル様は生後一か月でいらっしゃいます。サヴェル様がお相手を見つけてからお考えになっても遅くはないかと」
「それもそうか」
「ち、ちが―――う!」
 クラウスと頷き合っていると、突然はっとしたようにジョアンナが叫ぶ。
 そんなに大きな声を出したら眠っているサヴェルが起きてしまうと思うのだか、誰に似たのか、サヴェルは一度寝たらなかなか起きない。
「どうしたジョアンナ」
「どうなさいました、ジョアンナ様」
 ジョアンナはふたりから問われて、綺麗な顔を歪めて呻いていた。
「……っ私? 私がおかしいの? もう! どうしてカリナは王都に帰ってしまったの! 私に味方はいないの!?」
 心外だった。
 ディレストはいつでもジョアンナの味方でいる。
 ジョアンナが妊娠していたときも、出産していたときも、乳母に任せきりにせず積極的に育児をしているときも、彼女の代わりに領主代理を務めて、なるべく彼女に負担がかからないように、大事にしているつもりだ。
「ジョアンナ――」
「――じゃあ!」
 ひとり悩み込んでいるジョアンナに声をかけると、不意に息を吹き返したような妻は、どこか必死な顔をしていた。
「じゃあ! もし、次に女の子が産まれて――その子が連れさられちゃったら? 貴方はどうするの?」
「娘はどこにもやらない」
「――えっ」
「僕と君の娘だぞ? 恐ろしく愛らしいに決まっている。誰よりも素晴らしい娘を――どうして誰かにとられなければならないんだ?」
「……えっ」
 正論を言ったのに、妻はなぜか言葉を詰まらせた。
「――ディレスト様、それですと、ご令嬢は婚期を逃してしまうことになりますが」
「そ――そうよ、そうなるわ。それはきっと困る……」
「結婚なんて! させるものか! 僕の娘だぞ?」
 いったいジョアンナとクラウスは何を考えているのか。
 ディレストは突然意志の疎通ができなくなった妻と侍従を困ったように見るが、ふたりからの反論はなかった。
 自分の娘は、蝶よ花よと育て、この世のすべての醜いものから遠ざけ、いつもディレストに笑いかけてくれるような素晴らしい存在に――と考えて、ふとまだ娘がいないことに気づく。
 なんということだ。
「――ジョアンナ」
「……な、なに?」
「娘をつくらなければ」
「――えっ」
「可愛くて素直で愛らしい、君と僕の娘をだ」
「え……えっ?」
 きょとんとしている目も愛らしい。
 きっと娘も、ジョアンナのように可愛いに違いない。
 ディレストはさっとジョアンナを抱き上げ、隣の寝室へ向かう。
「え……っちょ、っと、ま、待って――」
「――クラウス、サヴェルを頼む」
「かしこまりました――ジョアンナ様、ご健闘を!」
「待って、待って――」
 ディレストは扉を閉めて、何かを言い募るジョアンナの唇を塞いだ。
 久しぶりのふたりきりだった。
 おそらく、そう遠くない将来、娘が産まれてくるだろう。
 もちろん、サヴェルも可愛い。
 しかし娘はまた違うのだと、息子もわかってくれるはずだ。
 ――いや、サヴェルもいつか、運命の出会いがあるかもしれないしな。
 そんな未来も面白いとディレストは笑いながら、今は腕の中にある幸せに溺れることにした。

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