ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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この先も続いてゆく

 やってしまった。
 ブリジットは怒りに震えながらも、既に後悔し始めていた。
 ずっと好きだった初恋の人と、本当の意味で結婚できて、早一年。色々な葛藤や障害があったけれど、満ち足りた毎日だった。心の底から幸せだと断言できる。
 だがしかし、共に生活していれば、たまには腹が立つこともあるのである。
 と言っても、ローレンスがブリジットを否定したり、悪く言ったりすることなどない。彼はいつも絶対的に自分の味方だ。
 ブリジットが少々人と違うことをしてしまっても受け止めてくれる。理解しようと努め、共感を示してくれるのだ。
 けれど今回は厳しく叱られた。こんなことは大人になって初めて―――いや、子供の頃も、ここまで真剣に説教をされたことはなかったかもしれない。
 普段ならローレンスがブリジットの行動を制限しようとすることはないのだが……
 ―――ローレンス様ったら、ひどいわ。屋根裏部屋への行き来を禁止するなんて。私にとって、あそこは心の癒やしでもあるのに……!
 事の起こりは五日前。
 このところ身体の不調を感じていたブリジットは、医師に診てもらった。すると、懐妊の可能性があると告げられたのだ。
 まだ初期の段階なので診断は確実ではないし、これから安定期に入るまで油断はできない。それでも、夫婦共に涙ぐみながら大喜びした。新しい家族が増える未来に想いを馳せ、幸福な未来に想像を巡らせたのは、記憶に新しい。
 それぞれ大切な人を亡くしているから、新たな命の訪れに、震えるほど感動したのだ。
 そうして、くれぐれも安静にするようローレンスから言われた。そこまではいい。ブリジットだって納得できる。
 だがしかし、だ。
 屋根裏部屋への行き来を禁止するのは違うと思う。
 確かに階段は急だけれど、気をつけて上れば問題ないし、危険がないよう改装だってされているのだ。駄目と言われる理由がブリジットには分からなかった。
 故に、思ったまま彼に不満をぶつけ、絶対に譲らないローレンスと言い合いになり、大喧嘩となったのである。
 ―――いえ、喧嘩と言っても、怒っていたのはもっぱら私だわ……ローレンス様は悔しいくらい最後まで冷静だった。
 何故妊婦が屋根裏に上ってはいけないのか、理路整然と説明され、諭された。更には『どうして理解してくれないのだ』と詰られ、軽はずみなことをするなとまで言われたのだが、彼の言葉はいちいちもっともで、ブリジットには反論の余地がなかったのである。それで余計に苛立ってしまったのは、我ながら精神が幼いとしか言いようがない。
 なにせローレンスに口で負けてしまい、憤りの矛先をどこにも持っていけなくなったブリジットは、衝動的に屋敷を飛び出してしまったのだから。
 ―――それは私も頑なになって悪かったかもしれないけれど、ローレンス様だってあんな言い方をしなくても……だって今からあれほど過保護では、臨月になったらどうなってしまうの?
 勢いのままレミントンの実家に戻ったブリジットは、娘の突然の来訪を訝しむ両親を振り切って、自室に逃げこんだ。
 とはいえ、本当は自分が悪かったと分かっている。
 ローレンスはブリジットを心配してくれただけだ。それだけ子供ができたかもしれないことを喜んでくれている証拠でもあった。
 過去、ブリジットが屋根裏で怪我を負ったことを、彼は今でも気にしているのだろうし、心配をかけたことも申し訳なく感じている。……どちらが折れるべきなのかは、ちゃんと分かっているのだ。
 時間が経つにつれ冷静になってくると、ブリジットの胸には後悔ばかりが広がってきた。何もあそこまで、反抗的な態度をとる必要はなかったはずなのに。
「……謝らなくちゃ……でも」
 迷いつつ、己の未熟さにうんざりした。こんな時、ブレンダならどうするだろう。
 きっと姉であれば、そもそもくだらない言い合いに発展しないに違いない。屋根裏になど興味を持たないし、夫に逆らうこともないに決まっている。
 そう思えば、尚更自分の精神的な未熟さに嫌気がさした。
 ――こんなことでは駄目よね……だってもしかしたら私、母親になるかもしれないのだもの……
 まだ両親には懐妊の可能性があることを伝えてはいない。診断が違った場合落胆させてしまうし、今後お腹の中で無事に育つかどうかも定かではないからだ。
 ブリジットは、膨らみのない下腹をそっと撫で、自室の扉を開いた。向かう先は隣の部屋。
 姉のブレンダが生前使っていた、今なおそのまま残されている部屋に入る。
「……懐かしい……」
 この部屋に入るのは久し振りだ。例の指輪を外すことになった日が最後。あれ以来レミントン家に立ち寄ることがあっても、一度も足を踏み入れてこなかった。
 心のどこかで、恐れていたのかもしれない。姉が自分への憎しみを、どこかに残しているようで。
 静まり返った室内は、記憶の中にあるものと全く変わらなかった。ブレンダが気に入っていた家具やカーテン、置物に至るまで、すべて同じ。ただ、漂う香りは少しだけ薄まってしまった気がする。
 愛しい姉の気配が遠のいた気がして、ブリジットは深く息を吸い込んだ。
 自分たち姉妹は全く似ていないと思っていたけれど、今思えば根本の部分がそっくりだったのだろう。
 一人の人を愛し、愚かしいほど求めずにいられない性分。時には卑怯にもなるし、貪欲にもなる。誰か別の人を傷つけると分かっていても、立ち止まることができないほど愚直で一途なところなど、全く同じだ。
 切なさに胸を締めつけられたブリジットは、苦く笑ってブレンダのベッドに腰かけた。
「……お姉様……私たち、もっと話し合えばよかったのかな……」
 自分たちは仲の良い姉妹だと思っていたし、実際そうだったと思う。悲しいすれ違いもあったけれど、姉の優しさや清廉さの全てを、偽りだと思いたくはなかった。不幸だったのは、同じ人を愛してしまったことだ。
 そしてその問題から、眼を逸らし続けたこと。
 もし二人が気持ちを打ち明け合い向かい合っていたら、何かが変わったかもしれない。今でもブレンダはこの部屋にいて、ブリジットと笑い合っている未来もあったはずだ。
 束の間、かつての幻を垣間見る。
 恋など知らず、ローレンスを加えた三人で無邪気に遊んでいられた頃のことを。
「……考えても仕方ないわね……」
 きちんと気持ちの区切りはつけたつもりだったが、揺らいでしまう心にブリジットは嘆息した。
 おそらく、ローレンスと喧嘩してしまったことで少々感傷的になっているせいだろう。
 ベッドカバーを撫でながら、姉の部屋を改めて見回した。
 どんなに大切な記憶でも、時間の経過と共に掠れてゆく。その過程で美化されることもあれば、歪んでしまうこともある。
 けれど叶うなら、ブリジットは何一つ忘れたくなかった。
 辛かったことも、嬉しかったことも全て、今の自分を形作ってくれた大切な記憶だから。不用意に取りこぼしていいものなど一つもないのだ。
 立ちあがったブリジットは、姉のお気に入りの本を収めた小さな書棚を開いた。
 その中には、ブレンダが自ら集めた特にお気に入りの本が並んでいる。
 あの日―――ブリジットが姉に借りようと思い、叶わなかった本も。
「……ようやく手に取る勇気が出た……」
 もう二度と、続きを読むことはないと思っていた。ブレンダに借りる約束をしていたこの本を見ると、どうしても彼女の最期を思い出してしまうからだ。きっと永遠に触れることさえないだろうと諦めていた。
 だが今のブリジットは、どこか穏やかな気分で本の表紙を見つめている。
 当時の悲しみや絶望が薄れたわけでは決してない。それでも―――いい意味で、時の流れと心境の変化を感じていた。
「……お姉様、私にこの本を貸してくださる?」
 返事はない。だがブリジットには確かに涼やかな声が聞こえた気がした。
 かつてと同じように柔らかく、『いいわよ』と言ってくれるブレンダの返事が。
 どれほど乗り越えられないと感じる痛みを心が受けても、容赦なく時間は流れてゆく。決して待ってくれない。置き去りにされているようでも、生きている限りほんの少しずつ前に進んでいるのだ。
 きっとブリジットもそう。他者から見れば微々たる変化でも、成長しているのだと信じたかった。
「……ローレンス様のもとに、帰ろう」
 自分が悪かったと素直に謝って、屋根裏部屋の件も具体的にどうするかを話し合おう。
 亡くなってしまった人とは違い、自分たちには語り合う機会があるのだ。妙な意地を張って無駄にしてはもったいない。何より、大切なものはいつ失ってしまうか分からないのだから。
 そう思い至るとブリジットは居ても立ってもいられなくなってきた。まだレミントン子爵家に到着したばかりだが、そわそわと帰る準備を始めてしまう。と言っても、持ってきた荷物は解きもせず、自分の部屋に転がしたままだ。
 ブリジットはブレンダの本を持ち、姉の部屋を飛び出した。
「わっ……」
 勢いよく開けた扉の向こうには、眼を見開いたローレンスが立っていた。今まさにノックしようとしていたのか、中途半端に拳を上げ、慌てて飛び退いた様子だ。
「ロ、ローレンス様……どうしてここに」
「君を迎えに来たに決まっている。―――その、僕が悪かった。言いすぎだよ、ブリジット……帰って来てくれないかい?」
「えっ……」
 謝罪すべきはこちらの方なのに、先に謝られてしまった。出鼻をくじかれた気分で、ブリジットは数度瞬きをする。すると、彼は悲しげに表情を曇らせた。
「まだ怒っているんだね……でもどうしても君の身体が心配で―――」
「ロ、ローレンス様は私を甘やかしすぎです! 頭を下げなければいけないのは、私の方でしょう!」
 こちらを慮ってくれる言葉に勝手に腹を立てて怒って家を飛び出したことも、夫に実家まで迎えに来させたことも、誰がどう考えても自分に非がある。
 しかも彼に謝らせてしまった。何だか恥ずかしくなって、ブリジットは大きく息を吸い込んだ。
「ここはビシッと、私を叱るべきだと思います!」
 さぁ来い、とばかりにブリジットが自身の胸を叩いてローレンスを見上げると、彼はしばらく微妙な顔をしていたが、やがて堪えきれないといった様子で破顔した。
「……ふ、ふふっ、つい数時間前まで聞く耳を持たないくらい立腹していたのに、いつの間にそんな結論に至ったんだい? 本当に君はびっくり箱みたいだ……ははっ」
「な、何がおかしいのですか?」
「いや、笑うなという方が無理だよ……っ、ふふふ」
 腹を抱えて肩を震わせるローレンスは、目尻に滲んだ涙を指で拭った。その穏やかで澄んだ紫の瞳に、ブリジットの鼓動が跳ねる。
「……そんなに笑わないでください……」
「ごめん。でも何だか懐かしいな。君の予測不能な行動に、昔はよく驚かされたものだ」
 彼の視線がほんの一瞬、ブレンダの室内をさまよった。
 おそらくローレンスも、記憶の中の彼女と再会したのかもしれない。それがどんな思い出かはブリジットには分からない。
 けれど微かに細められた双眸がとても優しい色だったから、温かなものだったのだと思う。
 かつて三人で過ごした宝物の時間を、彼も懐かしんでくれているのなら、嬉しい。
 ブリジットは大切な本を胸に抱き、ローレンスに微笑んだ。
「……私が言いすぎました。ごめんなさい。迎えに来てくださり、嬉しいです。一緒に帰りましょう?」
「うん。帰ろう、二人の家に」
 手を繋ぎ、歩みだす。
 姉の部屋の扉を閉ざす瞬間、ブリジットの鼻腔を擽ったのはブレンダが好んで使っていた香水の香り。少しだけ深く息を吸い込んで、心の中で別れを告げた。
 ―――さようなら。お姉様。
 ゆっくり扉を閉じる。
 憎しみも愛情も、きっと根源は同じ場所にある。どれほど罪深くても、求めずにいられないのが自分たち三人の恋だ。
 だからこそ、痛みと共に生きてゆく。
「……ローレンス様、お父様たちに何か言われましたか?」
「あまり娘を叱らないでやってくれと言われたよ」
「お父様ったら、悪いのは私なのに、ろくに理由も聞かないで……親馬鹿もいいところだわ……恥ずかしい」
「それだけ君が愛されている証拠だよ。胸を張ればいい」
 おそらく両親は娘夫婦が痴話喧嘩をしたとでも思い、気を揉んでいるのだろう。後で謝っておかねば。だが今は。
「ローレンス様、これからもよろしくお願いいたします。ずっと一緒に、生きていきましょうね」
「ああ、勿論。こちらこそよろしく。仮に君が今回のように逃げ出しても、必ず迎えに来るから安心してほしい」
 抱き寄せられ、つむじにキスを落とされる。
 ブリジットは彼の温もりに包みこまれ、そっと下腹を撫でながら幸福を噛み締めた。

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