ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

獣は人の幸福を知る

 暑い日の朝。
 家族のもとに帰り着いたオーウェンは、激務の果てに夢も見ない眠りについていた。
 だが、謎の気配に気づき、わずかに意識が覚醒する。
 ――なんだ……猫……?
 疲労しきった頭で知覚できたのは、小さな獣の存在だった。
 敵意はない。殺意も。オーウェンでなければ、部屋に入ってきたことも気づかなかっただろう。
 ――それとも子ねずみが、天井裏から迷い降りてきたのか。いや、露台に続く窓を開けて寝ていたから、そこから小鳥でも入ってきたのかな。
 そこまで考えたとき、小さな獣の気配も消えた。たぶん巣へ逃げ帰ったのだろう。
 再び寝息を立て始めたオーウェンは、しかし、数秒後ずしんという衝撃に目を見開いた。
 ――なんだと……?
「おとうしゃま!」
 オーウェンの胸に乗り、顔を覗き込んでいるのは、三つになったばかりの愛娘、エマだった。
 フワフワの金の髪に真っ青な目。どこもかしこも母フェリシア譲りの容姿をした、天使のように愛らしい女の子。オーウェンにとって何にも代えがたい宝だ。
 ピンクのドレスを着せられたエマは、時折銀色に翳る青の目で、オーウェンの顔を真剣に覗き込んでくる。
「おはよう……ごじゃいます、おきて、おとうしゃま」
 獣の目をした幼い娘が、ポケットから何かを取り出した。クッキーだ。バターでギトギトの菓子を何故そこに入れた……と顔を覆いたくなる。
 エマはオーウェンの胸に座り込んだまま、ニコニコと口にクッキーをねじ込んできた。
「あーん。はい、どうじょ」
「おはよう、エマ。どこから入ってきたんだ?」
 とうとう我が子は『完全に気配を断つ術』を会得したようだ。
 三歳にして、教えずともここまで出来るのかと感慨にふけりつつ、オーウェンは小さな手をそっと押しのけた。
「ありがとう、だけど、今はいらないよ」
 疲れている父に美味しいお菓子を持ってきてくれたのだろう。だが、寝起きに大きなクッキーは食べられない。
「どうじょ!」
 クッキーを食べろと譲らない愛娘に、オーウェンはもう一度尋ねた。
「エマ、どこから入ってきたんだ?」
「あそこ」
 ぷくぷくした手で指したのは、バルコニーに続く窓だった。かなり高い位置にあるのだが、エマはあそこまで這い上がって、入ってきたらしい。
 ――何てことだ。体勢を崩したら、手すりの外に落ちかねない場所だ。ここは四階なのに……。
 オーウェンは表情を変えないまま、ぶるりと身を震わせる。
 一家が暮らす王宮内の一区画は、寝室が二つと居間、それに水回りが整えられており、二つの寝室は大きなバルコニーを共有している。
 現在は主寝室をフェリシアと三歳の長女エマ、そして赤ん坊の長男フェリクスが、小さな寝室をオーウェンが使っているのだ。
 歴史あるオルストレム王宮は、広大かつ複雑な作りになっている。設備が古くて危険な箇所も多い。
 ゆえにフェリシアや侍女たちは、エマが勝手に出て行かないよう注意深く気を配っている。
 もちろん、多忙で過労気味のオーウェンが眠っている寝室に悪戯しに行くのも禁止だ。
 しかしエマは父に会いたかったのだろう。
 だから授乳中の母や、朝の支度中の侍女たちの目を盗んで、バルコニーを経由して父の部屋に忍んできたのに違いない。
 バルコニーに出ないよう戸を施錠しても、エマはもう自分で鍵を開けられるのだ、親にとっては恐ろしいことに……。
 胸の上にちんまりと陣取っているエマに、オーウェンは言った。
「バルコニーに一人で出ては駄目だ。はい、もう一度お父様と一緒にお約束しよう。『バルコニーに一人で出ません』」
「バルコニー、ひとりで、でましぇんっ!」
 元気いっぱい復唱されて、納得した。三歳児には全く父の危機感が伝わっていない。それが現実だ。
「本当に分かったのか?」
「ハイ。これあげましゅ、から、ね……?」
 エマが湿気り始めたクッキーをもう一度口元に押し付けてくる。
 美味しいものでうるさい父を黙らせようという発想は、とてもいい。エマは賢い。オーウェンは親馬鹿なので、そう思う。
 だが悲しいかな、賢くて可愛い最愛の娘は、オーウェンの獣の血をそっくり受け継いでしまったのだ。運動神経も勘の鋭さも、並大抵のものではない。
 先月など、エマは、オーウェンが黙って出張に行く予定なのを察知し、準備済みの旅行鞄の中身を全て出して、自分が中に入って寝ていたそうだ。
 オーウェンがまだ仕事から戻らない真夜中、フェリシアが目覚めると、添い寝していたはずのエマの姿が消えていたらしい。半狂乱になった彼女は衣装部屋を覗き、散らばる夫の着替えと、鞄からはみ出た金の髪を目にして絶句したと言っていた。
 最近知恵がついたエマは、『出張』という言葉で『いっしょにいく』と大泣きするようになった。だから、エマの前では『出張の予定』を決して話題に出さないように気をつけていた。旅行鞄も衣装部屋に隠していたというのに。
 ――予想外のことをするからな。俺もそうだったが。
 オーウェンも三歳の頃は、窓枠につま先を掛けて上までよじ登ることが出来た。カーテンでも同じことが出来た気がする。孤児院の職員の目を盗んで、何かを伝い登って天井に触ることが日々の楽しみだったのだ。
 だが身体能力が常人と違う部分が、まさか可愛い可愛い娘に遺伝するとは思わなかった。遺伝するにしても、男児にだろうと思い込んでいたのに……。
 ――しかし、先ほどの気配の殺しぶりは見事だったな。この俺まで欺くとは。
 変な感動を覚えつつ、オーウェンはエマに改めて釘を刺す。
「もう一つお約束しよう。窓によじ登らないって」
「イヤ! だって、おとうしゃま、エマといっしょに、ねんねしない! ナンデ……かしら? どうして……いっしょに、ねんね、しませんか?」
 オーウェンの口にクッキーをねじ込もうとしながら、エマが怒りの声を上げる。
 ――エマ……。
 不覚にも胸が締め付けられた。
 ここ数日、『お父様』一人が別室で休むようになって、エマは怒っているのだ。
 部屋を分けたのは、オーウェンの過労の度が過ぎることを案じたフェリシアからの『せめて朝まで子供たちに邪魔されずに休んで』という気遣いなのだが。
「ナンデ……ナンデ……いっしょがいい……」
 確かに多忙すぎて、最近は家族のもとに帰れない日すらある。エマが絵本を持ってずっと待っていたと聞くと、心の中の獣が『仕事など今すぐにやめろ! エマにご本を読んでやれ!』と悲しみの遠吠えをするほどだ。
 相変わらず自分のしたいことしかしないこの獣にとって、今は可愛い子供たちと遊ぶことだけが優先事項らしい。
 しかし、国王の筆頭書記官であり、来年には特別昇進で宰相位への就任が決まっている身としては、責務は疎かに出来ない。睡眠も重要な生命線だ。
「ごめん、エマ。お父様はお仕事が忙しいから、いい子にして聞き分けてくれ」
「イヤ!」
 エマが譲るまいとばかりにひしとオーウェンに抱きつく。その表情が駄々をこねていた幼い頃の妻に生き写しで、オーウェンの胸はなんとも言えない懐かしさに満たされた。
 ――フェリシアが心配しているだろうな。エマがまた勝手にいなくなったと。
 オーウェンは起き上がり、エマを抱いたまま歩き出す。
 案の定、居間ではフェリシアが杖を片手にエマを捜し回っていた。お腹がいっぱいになったらしい息子のフェリクスは、床を這い回って遊んでいる。
 彼女は常駐の乳母を雇わず、王妹としての仕事がないときは侍女たちの手を借りて育児をしている。そのために、子供好きで育児の経験がある侍女を、新たに何人か雇い入れた。
 もちろん、仕事で子供たちの側を空けるときは、別に雇用している日勤の乳母を呼び、子供たちを預けて行く。
 幼児の福祉に昔から強い関心があるフェリシアは、自分の手で子供を育てて、もっと子供のことを知りたかったのだという。
『子供って、本当にとても尊いものなのね。今更分かった気がするわ。本当に、尊いものよ……だから孤児院の子も、母子家庭で困窮している家の子も、親が病気で大変な子も……辛い思いをしている子供たちは皆、私たちの手で大切に守らなくては』
 慣れない手つきで生まれたばかりのエマを抱いて、フェリシアはそう微笑んでいたものだ。
 フェリシアの気高い決意に改めて敬意を覚えつつ、オーウェンはエマを抱いたまま、彼女に声を掛けた。
「フェリシア、おはようございます。やんちゃ娘は捕まえましたよ」
 机の下を覗き込んだフェリシアが顔を上げ、オーウェンの姿に気づいて顔をほころばせた。
「あら! エマったら、どうしてお父様と一緒にいるのかしら?」
 床をハイハイしているフェリクスを見守りつつ、オーウェンは手短にエマの大冒険を説明する。フェリシアはみるみる優しげな瞳を曇らせた。
「まあ……上の窓から忍び込んできたの……?」
「ええ。バルコニーの扉の鍵も、自分で開けられるようになったのでしょう。もう危なくて目が離せないですね」
 フェリシアがしずしずと近寄ってきて、崩壊したクッキーをエマの手から取り上げ、卓上の小皿の上に置いた。
「ねえ、エマ、ひとりでバルコニーに出てはダメよ。お約束でしょう? 扉の鍵を開けられても、出てはダメ。お母様の話を聞いていて?」
 エマは、オーウェンにしがみついたままぷいと顔を背ける。
「こら、エマ! 聞いているの?」
 母に叱られ、エマが抗議の声を上げる。
「だって! エマ、おとうしゃまに、だっこしていただき、たく……だっこ、いただきたくぅ……。エッ……エッ、エッ……おとうしゃま、ずっといない。どうしてかしら……なんでかしら……エッ、エッ……」
 オーウェンに抱っこされたまま、エマが泣き出す。オーウェンの中の獣も、娘につられて心の中で咽び泣いた。
 ――宰相就任が決まって以降、忙しすぎるからな。まともに遊んですらやれていない。
 泣きじゃくる娘と、もらい泣きする心の獣をなだめていると、床をハイハイしていたフェリクスがオーウェンの足元に寄ってきて、寝間着の裾を掴んだ。
「ん……ぱ……ぅ」
 エマとフェリクスはとても良く似た姉と弟だ。フェリシアに生き写しの愛らしい顔で笑いかけられ、オーウェンはたまらず相好を崩す。
「おはようフェリクス、今日もご機嫌だな」
 オーウェンは屈みこんで、もう片方の腕にフェリクスも抱き上げた。ミルクの匂いがする頬に頬ずりすると、きゃっきゃと笑いながら頭突きを返してくる。そして、小さな手で姉のフワフワの髪をわしづかみにした。
「たべちゃだめ!」
 エマは泣き止んで、弟の小さな手から髪の毛を取り返そうとし始める。
 何が何でも姉の髪をしゃぶりたいフェリクスと、髪の毛を取り返したいエマとの無邪気な攻防がオーウェンの腕の中で始まった。
 ――フェリクスは動きが速いな……。この子も、獣の血を引いているのかもしれないな。まあいいか、健康ならそれでいい。
 オーウェンは笑顔で、愛する子供たちを見守った。
 二人とも、言葉に尽くせぬほど可愛い。
 そして、これほどに愛おしいのに、あと二十年もしたら、二人ともオーウェンとフェリシアのもとから去ってしまうのだ。それぞれが、自分の愛する相手を腕に抱きしめるために……。
 ――あっという間に過ぎるのだろうな。こんな幸せな時間も。
 そう思うと、しばらくの睡眠不足くらい仕方ないかとも思えた。
 ――子供たちが夜中起きてしまっても、今まで通り、なんとか寝かしつければいいんだ。
 腕に抱いた子供たちの甘い匂いにうっとりしつつ、オーウェンはフェリシアに言った。
「フェリシア、やはり四人で一緒に寝ましょうか。エマを泣かせたかった訳ではないですから」
 オーウェンの提案に、フェリシアが嬉しそうに頷く。
「貴方が大丈夫なら……嬉しいわ。実は私も寂しかったの。貴方にゆっくり休んでもらいたくて自分で言い出したことなのに」
「フェリシア……」
 胸が一杯になり、オーウェンは思わずフェリシアを抱きしめようとした。だが、両腕は我が子で塞がっている。贅沢な悩みだと思いながら、オーウェンはフェリシアの額に口づけをした。
「おりましゅ!」
 父の微妙な葛藤を悟ったのか、エマが厳かな口調で宣言した。
 オーウェンは笑って、エマとフェリクスをそっと床に下ろす。そしてフェリシアを抱擁して、改めて朝の挨拶をした。
「おはようございます、フェリシア」
「おはよう。貴方、昨夜はゆっくり眠れた? 少しは疲れが取れたかしら?」
「おかげさまで、ありがとう」
 最愛の妻の尊い温もりを感じながら、オーウェンは、エマがフェリシアの腹にやってきたばかりの頃を思いだした。
 あの頃のオーウェンは、我が子を幸せにすれば、自分も幸せになれると考えていたのだ。
 けれど現実はオーウェンの拙い想像よりもはるかに、偉大だった。
 子供たちに愛され、幸せにしてもらったのは、オーウェンのほうだったのだから。
 生まれたばかりのエマが、赤子の扱いに右往左往する新米父親に笑みを見せてくれた時、絶望的な雨漏りが、オーウェンの世界から消えた。
 オーウェンは、赤ちゃんのエマをうまく寝かしつけられなくて、大泣きばかりさせた。面倒を見ていたつもりで何度も風邪を引かせてしまった。悪戯したことを叱りすぎたこともあった。
 それなのに、エマはただひたすらにオーウェンを愛してくれる。
 フェリクスも同じだ。オーウェンに小さな身体を預けてぐっすりと眠り、オーウェンの持つ哺乳瓶から乳を飲んで、膝の上で機嫌良く遊んでくれる。オーウェンを疑うことなどない。全幅の信頼だけを寄せてくれるのだ。 
 ――我が子を愛して幸せにするなどと、おこがましい考えだったな。愛を与えられているのは、俺のほうだ。
 そう思い、オーウェンはしみじみと口にする。
「貴女のお陰です。二人も子供が生まれて、本当に嬉しい」
「どうしたの、突然」
 フェリシアに目を丸くされ、オーウェンはかすかに頬を染めた。確かに、唐突すぎたかもしれない。
「いえ、なんでしょう。なんとなく……ですね」
「まあ、ふふっ」
 フェリシアは笑いながら、オーウェンの寝癖の付いた髪をそっと直してくれた。
 獣の血を引く子供たちは、毎日幸せそうだ。父母や周囲の人たちに愛され、好きなだけ絵本を読んでもらえる。お腹いっぱい食べ、暖かい部屋で無邪気な笑い声を立てている。
 だからもう、オーウェンの世界の屋根からは、雨水は漏れ落ちてこないのだ。

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