ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

アイブリンガー家の指南書

 秋晴れの中、アイブリンガー家の前庭で結婚披露宴が行われた。

 前庭にはいくつものテーブルが並び、オードブルが所狭しと置かれてある。
 招待客たちに飲み物や食べ物を勝手に取って食べてもらい、それぞれ勝手に寛いでもらう、という披露宴と呼ぶには簡易的な立食パーティだった。
 しかし、騎士団員の結婚式は、この形が一般的らしい。
 そもそも、平民の結婚と貴族の結婚はまったく、何もかもが違う。
 まさかグレイに、こちらに合わせろということもできず、エリーは流されるがまま、騎士の結婚式というものに自分が組み込まれていくのを見ていただけだった。
 だが戸惑いはしたものの、嫌だったわけではない。
 それまでずっと心配していたグレイの家族と対面した時、見下されたり忌避されることが一切なく、とても穏やかだった。彼らが、特にグレイが喜ぶのなら、どんな結婚式でも良かったのも事実だ。
 エリーが家族のように思っているパン屋の夫婦やその娘のオリー。それに孤児院を管理しているシスターまで呼んでもらい、彼らも楽しく過ごせるのなら、こんなパーティの方が良かったのだと思える。
 エリーには、繊細な刺繍の施されたとても美しいドレスまで贈って貰えた。
 グレイの家族たちは、想像していた貴族とは本当に違って、安心したのと同時にどこか落ち着かなくなった。
 何しろ、グレイと結婚してくれてありがとう、と全力で喜ばれたからだ。
 その勢いに、結婚して大丈夫かな、と一瞬不安に思ったが今更やめるのも無理だし、嫌だった。
 義姉になるふたりもとても気さくで好い人たちだった。
 長兄の妻、フィーネは、なんと平民出身なのだと言う。
 ただ、エリーのようにスラムの孤児ではなく、学院にも通っていた平民で、そこで長兄と出会ったらしい。
 今日は黒くまっすぐな髪を右肩に集めて纏め、細い肩を露わにしている。白い肌と慈愛溢れる笑みはなんともはかなくて、突いただけで倒れてしまいそうな可憐さがあった。
 次兄の妻、ヴィクトーリアは貴族令嬢で、実家は資産家なのだとか。
 真っ赤な巻き毛と濃い翠の瞳が印象的で、右目の下にある泣き黒子が彼女の色気を強調している。一見、気が強そうに見えるので、初対面の相手は構えてしまいがちだが、一度笑うとぱあっと花が咲くような印象で、同性でありながら見入ってしまう。
 初めて引き合わせてもらってから、彼女たちにはとても仲良くしてもらっている。
 エリーの出自などまったく気にしない彼女たちは、同じ騎士の妻という立場から、エリーの愚痴をよく聞いてくれる。
 もちろん、グレイに不満があるというわけではない。彼女たちだって、夫婦仲は円満で、夫をとても尊敬しているのがよく伝わってくる。
 しかし、夜だけは別だ、と意見が一致した。
 騎士の妻に求められるのは、まず体力。
 体力に自信があったエリーですら音を上げてしまうのだから、触れれば折れてしまいそうなフィーネや貴族の令嬢だったヴィクトーリアはもっと大変なはずだ。
 そんな彼女たちだが、今日はいつもより肌を見せた薄紅色のドレスに身を包んでいた。
 意匠は少しずつ違うが、フィーネは肩や背中、ヴィクトーリアは両腕と、いつもは見えなかった部分が晒されている。
 真っ白な花嫁衣裳姿のエリーの側にいるのに相応しい、派手過ぎないドレスではあるが、首も腕も、厚いレース生地で覆われたエリーと比べると大胆にも思える。
 そして彼女たちの肌には、例の赤い痕がひとつもない。エリーの隠れている肌には、今日も嫌というほどついているのに。
 驚いて目を瞬かせると、エリーの心を読んだかのように義姉たちは笑った。
「夫に言って聞かせたのよ」
「このドレスを着たいから絶対に痕を付けないでって、もうずいぶん前から言っておいたの」
 なるほど、と納得した。
 納得はしたが、それを受け入れてもらえるのか、とまた驚いた。
 グレイにそう言ったところで聞いてもらえる気がしなかったからだ。
「あら、少し落ち着けば、グレイだってわかるわよ」
「そうね、グレイはちょっとアレだから――」
「うぅん、そうねぇ、ちょっと大変かもしれないけど――まぁ調教とか……」
「躾とか……まぁやってみることは大事ね」
 義姉たちの中でグレイはいったいどんな扱いなのか。
 まるでペットを相手にするかのようだ、と思ったが、そうしなくてはならない理由があるのだと、エリーもそろそろわかってしまっていた。
 グレイはとても格好いい、優秀な騎士だ。
 とてもエリーと釣り合うような人ではないのだが、グレイの想いはエリーだけに向けられているし、その言動は危ういくらい強い。
 何が強いかと言われても、一言では言い表せないが、エリーに対するすべてが普通のレベルより強く、その目に見つめられると、監禁されてしまうのでは、と思ってしまうほどに想いが溢れている気がするのだ。
 とはいえ、グレイがそんなことをするはずはない。エリーは馬鹿なことを考えた自分を笑った。
 無事、結婚式を迎えて、誰よりも嬉しそうなグレイを見ると、やっぱり杞憂だったとほっと息を吐いた。
 結婚式は、アイブリンガー家の礼拝堂で挙げた。
 礼拝堂が家にあること自体がエリーには驚きだったが、これくらいの大きさのものなら貴族の屋敷としては普通なのだとか。
 改めて、平民と貴族の違いに驚いたが、披露宴という名の立食パーティの前に、ふたり揃って出席者に挨拶をした後、義姉たちに屋敷の控室へと連れて来られた。
 人目がなくなって、エリーはほっとした。
 グレイの同僚たちとは、顔見知りであったが、礼装した彼らを前にして緊張するなと言う方が無理だ。
 彼らはエリーの出自を知っているという。
 けれど誰一人としてエリーを差別したりしない。そのことに安心はするが、グレイの隣に並ぶ以上、少しでも彼と釣り合いがとれる自分でいたいと思うので、どうしても気を張ってしまっていた。
「疲れたでしょう?」
 それを見て、フィーネが笑った。
「今くらい、気を抜くといいわ。常に気を張っていると、倒れてしまうわよ」
 控室に用意されていたお茶のセットで、ヴィクトーリアが温かな紅茶を入れてくれる。
 蜂蜜もミルクもたっぷり入れてくれたそれを、エリーは申し訳ないと思いつつ、ありがたく頂いた。
「――おいしい……」
 一口飲んで、ため息とは違う吐息が零れた。
 今朝からずっと、緊張していた。付き合いで何かを飲んだ気もするが、今ようやくお腹に何かが入った気がして安心できた。
 心地よい風が通るように、フィーネは部屋の窓を開けてくれた。二階の部屋だからか、前庭で行われている披露宴会場の声も遠く、気にならないわけではないが少し落ち着いた。
 ヴィクトーリアがフィーネと自分にもお茶を入れて、エリーの側に座る。
「一息つかないと、夜まで持たないわ」
「そうね、しばらくはグレイが頑張ってくれるから、引きこもっていても大丈夫よ」
「――そうなんですか?」
「そうよ」
「そういうものよ」
「私の夫や他の騎士たちも、今頑張ってグレイに飲ませている頃だから」
「そうね、できるだけ多く飲ませておいてほしいわ」
「…………?」
 義姉たちがどこか遠くを見るような目で語り合っていたが、その内容はエリーにはわからなかった。
「飲ませるっていうのは……?」
「グレイを酔いつぶしてもらうのよ」
「アイブリンガー家の男はお酒に強いから、なかなか難しいけれど」
「――どうしてですか?」
 何気ない質問だったが、義姉ふたりがどこか昏く笑うのが怖かった。
「――初夜が待っているからよ」
「彼らは、『初夜』という響きに異様に興奮するのよ。精力剤のようなものなのよ」
「………………」
 エリーは引きつった顔をすることしかできなかった。
 今更だとは思うし、エリーとグレイがすでに親密な関係であることは義姉たちも知っているのだろう。
 笑っているのに不安を煽られるような彼女たちの言葉には、エリーも肩を震わせてしまう。
「それは……」
 避けられないことなのか。
 エリーとしては、初夜だなんて今更すぎるし、これまでの夜と変わらないだろうと思っていたのに、さらには変な体力まで付けさせられて、ますますグレイの相手をする時間が長くなってしまっているのに、これ以上に――と思うと震えるしかない。
「避けられないわ……」
 エリーの言葉にならない願いに対し、フィーネは無念そうに目をつむった。
 さっとヴィクトーリアを見ても、目を逸らされた。
「そんな……」
「だ、大丈夫よ、きっと」
「そう、他の騎士たちもここぞとばかりにグレイにお酒を飲ませているし!」
「夫にも、義父にもしつこくお願いしておいたわ!」
 愕然として固まるエリーを、義姉たちも必死で宥めようとしてくれる。
 そんな心遣いはありがたいが、どこか同病相哀れむ的な必死さも感じられてエリーは反対に心が凪いだ。
 ――あまり、深く考えないでいよう……
「……ごめんなさい」
「何もできない私たちを許して……」
 エリーの気持ちをくみ取った彼女たちの気遣いも、エリーはすでに理解した。
 義姉たちだって、この日を乗り越えてきたのだ。
 だからこその助言――休憩をしっかりとるようにとのことだったのだろう。
 もう結婚してしまったのだし、数時間後には不安しかない初夜があるのは事実で、もう今から慌てても仕方がない、という結論になり、三人で気持ちを落ち着かせるようにお茶で口を湿らせると、外から、窓の下にいるらしい者たちの会話が聞こえてきた。
「――しかし、さすがアイブリンガー一族というべきか……」
「――なぁ?」
「本気で信じていたわけでもないが、こうなるとなぁ……」
 数人の騎士の声だった。
 会話の内容的にエリーたちは思わず聞き耳を立てる。
「信じられないだろう」
「そうだよな、許せんくらいだ」
「清純、妖艶、純粋と揃っているんだぞ?」
「いくら貴族で、騎士だとしても、揃いすぎだろアイブリンガー一族……」
「純粋に、羨ましいと言ったらどうだ」
「言ったところで俺にいいことがあるわけでもないだろう」
「いったい、どうしてアイブリンガー一族だけが……!」
「それはやっぱり……」
「……ああ、指南書か」
「指南書――のおかげ、なんだろうな」
「なんでも、三冊あるらしいぞ」
「何!?」
「初級中級上級と」
「なんだと、そんなにか!?」
「やっぱり効果があるということか」
「あんなことをしているのにか!?」
「人前でするのはどうかと思うが……効果があるから結果が出ているんだろう」
「だよな……グレイルなのにな……」
「俺も、まさかグレイルが結婚するとは思っていなかった……」
「それは全独身騎士が思っていた」
「まさかグレイルが……」
「あのグレイルが……」
「……指南書か」
 しばらく間をおいて、誰かがぽつりと言った。
「……借りてみるか?」
 その問いに答えはなかった。
 彼らはすぐに行動に移したのか、窓の下から去っていったからだ。
「…………」
「…………」
「…………あの?」
 会話を聞いた義姉たちの顔色がどことなく悪い。
 エリーは首を傾げた。
 エリーには会話の意味があまり理解できなかったからだ。
 アイブリンガー一族の話をしていたのはわかった。そして彼らを羨ましがっていることも。
 それに何か問題があるのだろうか。
 白い顔をさらに白くしたフィーネが顔を上げた。
「……エリー、あなた指南書は……」
 顔色がはっきりと青くなったヴィクトーリアが震える声で言った。
「指南書なんて、見たことないわよね……?」
 ないと言ってほしい、という願いが溢れた声だったので、エリーは素直に頷いた。
「な、ないです……指南書って、なんですか?」
 エリーの答えに少し安心したようなふたりだったが、今度は何かを決意したように昏い笑みを浮かべている。
「ふふふ。いいの、知らないなら知らないままでいてちょうだい……」
「そうね、一生知らなくてもいいことだもの……」
「…………」
 そう言われても、不穏な空気を醸し出すふたりを見る限り安心できる要素がどこにもない。
「まさか夫がグレイに指南書を渡したなんてことは……」
「ちょっと私も確認したくなってきたわ……」
 義姉たちは、不穏な空気を背負ったまま立ち上がった。
「エリーはまだ休んでいてちょうだい」
「いっそのこと、もう夜までこの部屋を出ないほうがいいかもしれないわ」
「え……っと」
「私たちは、ちょっと夫に用があるから」
「少し席を外すわ」
「…………はい」
 どこが怒っているようにも見える義姉たちをエリーが引き留めることなどできるはずがなかった。
 ――えっと……結局指南書って、何?
 ひとりになったエリーは疑問だけが残り困惑していたが、結局その指南書とやらの意味を知ったのは、義姉たちの願いもむなしく、その日のうちのことだった。
「樽一杯分は飲ませたんだが……」
「無念だ……」
 グレイの同僚たちの申し訳なさそうな顔に見送られ、いつものようにご機嫌なグレイと迎えた『初夜』。
「エリー! 今日から本当の夫婦になった! 僕もようやく中級レベルに進むことができる……これもエリーがいるからこそ――エリーを想うからこそだ。これからも精進したいと思う。君のために!」
「……えっ」
 努力を惜しまないすばらしい騎士が全力の笑顔でエリーの前に立ちふさがるが、言葉の内容が不穏すぎる。
「ま……待って……!」
「エリー! 大好きだ!」
「あ、あたしもだけどでもちょっとま――!」
 エリーの制止の声はグレイの口の中に消えていった。

 そして迎えた翌朝――というには遅い昼前。
 ようやく目を覚ましたエリーは義姉たちの顔色の悪さと不穏な空気の意味を知ることになった。
 ――こ、こんなの無理! だめ! これを毎日なんて……っ
 少しは体力がついた、と思っていた自分が甘かったと落ち込むほど、ひとりでは立てないほど力の入らない四肢をベッドに投げ出し、枕に顔を埋めた。
 一晩中、グレイの言う「中級レベル」の愛撫に翻弄され続け、最中に顔を赤らめるどころか、全身真っ赤にして耐えきったものの、今は恥ずかしくて死にそうだった。
 そしてふと、今になってグレイの言葉を理解したように青ざめる。
 ――てゆうかそういえば、中級って言ったあの人! 中級って――!
 初級中級上級。
 その意味を、この先身をもって知っていくことになるだろうエリーは、初めて騎士との結婚に後悔という言葉が浮かんだのだった。

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