ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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似たもの同士

 時計の針が正午を指した。
「よし!」
 大正桜子は小さく呟くと、ウキウキしながらお弁当の入った保温機能付きのランチバッグを掴んで、デスクから立ち上がる。それを合図にしたかのように、周囲の人々も仕事の手を止めて伸びをしたり、書類を片づけたりしている。
 今日も朝から頑張って業務をこなし、ようやく待ち遠しかったランチタイムである。
 鼻歌まで歌いながら、桜子は休憩室と化している会議室へと足を向けた。
(今日のお弁当は何かなぁ?)
 彼女のお弁当は、最愛の恋人である桃山柳吾のお手製だ。お弁当のみならず、朝、夕のご飯からおやつに至るまで、彼の手作りだったりする。少々度を越した過保護っぷりだが、本人たちが幸せであるため、問題はないようである。
 パイプ椅子に座り、いそいそと長机の上にお弁当を広げると、桜子は歓声を上げた。
「わぁああ! 鶏ごぼうご飯のおむすびだぁ!」
 朱塗りのお弁当箱には、きれいな俵形に握られ、胴体に海苔の巻かれたおむすびが三つ並んでいる。おかずはエビシュウマイと卵焼き、鮭とキノコのミニグラタンだ。彩りにブロッコリーとミニトマトも入っている。毎回どうやったらこんなに美しいお弁当ができるのかと感心してしまう。
「はぁん……。柳吾さんってば、やっぱり天才……!」
 パシャパシャとスマホのカメラにその美しさを収めつつ、自分の恋人を称賛する桜子は、周囲から『リア充爆発しろ』という目で見られていることに気づいていない。
 その時、給湯室に寄ってきたらしい所長が、お茶の入ったマグカップを手に休憩室に入ってきた。
「大正ちゃんのお弁当、今日も豪華だなぁ」
 背後から覗き込むようにして桜子の弁当を確認し、のんびりとした口調で言った。
 桜子はすかさずお弁当を両腕の中に隠して、じとりと所長を見上げる。
「あげませんよ!」
「とらんわ!」
 所長が渋い顔で否定するが、桜子は胡散臭そうに鼻を鳴らし、所長のカーネル・サン〇ースのようなお腹を睨んだ。
「どうだか! 私は藤平の家にお呼ばれした時、パエリアのおっきいエビを所長に奪われたの、今でも根に持ってますからね!」
「こっわ! 去年の話だろう、それ! っていうか大正ちゃん、食い物への執着強すぎて引くわ……」
 所長は「怖い怖い」と首を横に振りながら、桜子の向かいの席に腰を下ろす。
 テーブルの上に置かれたの所長のお昼ごはんは、奥様お手製のお弁当に加え、カップラーメンもある。
「お弁当の上にカップラーメンって……。所長、食べ過ぎじゃないですか?」
 これが二十代の男子であるならば、よく食べるねぇ、くらいの反応でいいのだが、所長は今年五十二歳――中年のおっさんである。しかも四月の健康診断で肥満の指数値といわれるトリグリセリドとHLDコレステロールの値が基準値をオーバーしていて、「奥さんに怒られる~!」と嘆いていたはずだ。
 桜子の指摘に、所長が肩をすくめた。
「だって奥さんの弁当、ボリュームなくて物足りないんだもん」
「それは奥様が所長の身体のために、低カロリーのメニューにしてくださってるからじゃないですか……」
 奥様の努力は、カップラーメンで台無しである。
 他人事ながらガックリとしてしまった桜子を他所に、所長はカップラーメンの蓋をあけてご満悦である。
「やっぱシーフード味が最高~」
「せめて奥様のお弁当を先に食べてあげてくださいよ!」
「え~、麺伸びちゃうじゃん」
「所長は離婚されてしまえばいいと思います」
 真顔で言った桜子に、所長は「ひっど! ひっど!」と喚いていたが、周囲の人たちは桜子に「うんうん」と頷いて見せている。当然である。
 こんな小学生男子みたいなおっさんだが、仕事は鬼のようにできるので世の中とは不思議なものだ。
「あ~、それにしても、成海ちゃんのパエリアは美味かったなぁ……!」
 カップラーメンのスープを啜りながら、所長がうっとりと呟いた。先ほどの桜子の発言から思い出したのだろう。
「藤平のお料理美味しいですもんねぇ」
 藤平成海は桜子の唯一の同期にして、この会計事務所のホープといわれている若手税理士である。イケメン、長身、高学歴の上、誰にでも優しく紳士であることから、とにかく女性からモテまくって困るため、わざとオネエ口調を使うことで、それを緩和しているのだとか。初めて聞いた時、「何言ってんだコイツ、叩きたい……」という乱暴な感想を抱いたのだが、そう思ったのはきっと自分だけではないだろう。
「あれっ、そう言えば、今日、成海ちゃんは?」
「三輪物産様のところに伺ってますよ。今日は直帰だそうです」
「あ、そうなの? よく働くねぇ。いい部下だよ。男前で紳士で料理も上手いとか、なんなのアイツ。男の敵なの? 俺の敵なの?」
「所長の敵でしょうね。他の人間には味方ですけど」
「え? なんなのその四面楚歌な感じ? 俺項羽なの? 男前項羽なの?」
「黙れ猪八戒」
 鶏ごぼうおむすびを頬張りつつ入れたツッコミに、その場にいた人たち全員が噴き出した。
 だが桜子の毒舌に慣れている所長は、気にした素振りも見せない。カップラーメンを食べ終わって、今度はお弁当に取り掛かっている。
「成海ちゃんのパエリアまた食いたいなぁ。っていうか成海ちゃん、最近おうちご飯会してくれないよね? 最後に呼んでくれたの、春? 冬か? もう半年以上前だろう? 珍しいな、あのおもてなし好きが」
 桜子はモグモグと口を動かしながら目を閉じる。
 鶏肉とごぼうはどうしてこんなに合うのだろうか。しかも柳吾はうるち米に少しもち米を足しているので、もちもちねっとりとしていて、この風味に実によく合う。刻んだ舞茸の歯ごたえも加わって、実に美味しい。神の食べ物だ。
「ちょっとぉ、大正ちゃん! 寝てないで上司の世間話に付き合えよ~」
「……藤平は多分、もうおうちご飯会しないと思いますよ」
 桜子は目を閉じたまま答える。
「えっ? なんで? 俺、成海ちゃんとなら結婚してもいいって思ってたのに~!」
「それ、竹内先輩も言ってましたよ……」
 付け足すなら、竹内は男性だ。異性だけでなく、同性からも好かれる男、藤平である。
「藤平、恋人と同棲始めたみたいなんで」
 眼裏に浮かぶのは、親友の池松縄文乃のきれいな笑顔だ。
 数か月前、藤平と文乃は運命の出会いをした。お互い以外目に入らないといった様子で見つめ合う二人は、たまたまその場に立ち会った桜子から見ても、「あー、こりゃお互いに一目惚れってやつだわ、びっくりー」と思うほど、互いの好意が明白だった。
 文乃は見た目だけなら、これまでに多くの男を虜にしては捨ててきた百戦錬磨の美女に見えるが、実際は『理想の人』を追い求め、男女交際歴ゼロという拗らせ女子だったのだ。
 自分の人生には、たった一人の男性のみでいいという彼女の信念には敬服したし、他の男にはまったく目もくれない潔さには、驚きを通り越して感嘆したものだ。
 桜子はそんな文乃が好きだったし、幸せになってほしいと心から願っていた。
 だから、同じように、異様にモテるにもかかわらず『運命の女神』を探して独り身を貫く藤平と文乃が恋に落ちた時、桜子は本当に嬉しかった。
 文乃は大切な親友だし、藤平は頼りになる同期で戦友だ。
 その二人が結ばれるなら、これ以上の僥倖はない。
(でも……なぁ……)
 桜子は小さく嘆息する。
 そのため息を別の理由からだと勘違いしたのか、所長が声を張った。
「大正ちゃんってば、同期に恋人ができちゃって寂しいんだろー?」
「寂しいっていうか……心配です」
 つい心の声が漏れてしまってハッとする。
「ええ? 成海ちゃんが女に騙されないかってこと? アイツはそんなタマじゃないだろう!」
「そんなこと心配してませんよ。だいたい、藤平の彼女は私の親友ですもん!」
 藤平は親切で紳士だが、女性には一歩距離を置いた姿勢を崩さない。それは文乃と付き合うようになる前から変わらない。
「じゃあ何が心配なんだ?」
「藤平、彼女にめちゃくちゃ過保護なんですよ。毎日三食手料理を食べさせて、くしゃみをすれば部屋の空調の温度を上げるし、微熱でも出そうものなら家から出さないくらいなんです。なんだか彼女が窮屈なんじゃないかって、ちょっと心配になっちゃって……」
 無論、桜子とて親友が恋人から過保護なほどに大切にされていると、言葉だけを聞けば、いいことじゃないかと微笑ましく聞き流していただろう。
 だが、桜子はこの間聞いてしまったのだ。止めるのも聞かず、文乃が仕事へ行ってしまった時、心配する藤平が「あー……監禁してしまいたい……」と密かに呟いていたのを……!
 監禁、なんて言葉を、リアルで口にする人間がいるとは……!
(なんか、藤平、もしかしたら愛が度を越しちゃう系の人なんじゃ……?)
 そうだとしたら、文乃が大変なのではないだろうか。
 そんな心配が頭をもたげるのは当然のことだ。
 一人、悶々と考え続けていた桜子は、ふと周囲からの視線が自分に集まっていることに気がついた。
「……え? なんですか?」
 周囲は薄ら笑い……というか、なんだか生暖かい眼差しでこちらを見ている。
「いや……、お前さん、自分で気づいてないの?」
 所長が呆れた顔で言ってきたので、桜子はムッと唇を尖らせる。よりによって所長に呆れられるなんて心外だ。
「何をですか?」
「だってお前が今言った成海ちゃんの過保護な例、全部お前の彼氏にも当てはまるじゃん……」
「えっ」
 桜子は絶句してしまった。
 そんなばかな。
 だが周囲も「うんうん」と所長の言葉に同意を示している。
「お前だって彼氏に三食作ってもらってるし、この間は風邪気味だからと彼氏が会社まで送り迎えしていただろうが」
「うっ……! そ、それは……!」
 確かにそんなことがあったと唸り声をあげていると、所長が追い打ちをかけてくる。
「俺、お前が終わるの待ってる彼氏に『大変ですねぇ』と声をかけたことがあるんだけど、あの男前、『ええ、どうにも心配で、つい。本当なら家に閉じ込めておきたいくらいなんですが……』とはにかんでたぞ」
「……ははは……」
 乾いた笑いしか出てこない。
(え、私も文乃ちゃんとおんなじ環境下なの? あれ? あれれ?)
 まったく違和感なくぬくぬくと過ごしていた桜子は、己に危機感を抱いてしまった。
 柳吾にべたべたに甘やかされている自覚はあったが、窮屈だとか違和感だとかは全く抱いていない自分は、常識の範囲から逸脱してしまっているのだろうか。
「まあ、だからさ。他人がどうこう言ったって、そんなもんは関係ないってことよ。当人たちには当人たちの幸せの基準があるんだからさ」
 グルグルと考え込んでしまいそうだった桜子は、所長の言葉でパッと顔を上げた。
 大きな目を見開いて所長をじっと凝視すると、所長が顎を引く。
「な、なんだよ……」
「いや……今初めて、所長が年長者らしく良いことを言ったのを見たと思って……」
「失礼だな、おい!」
 周囲からドッと笑いが起こった。
 桜子の勤める会計事務所は、今日も平和である。

* ・ * ・ * 

 ただいま、という声が聞こえて、文乃は読んでいた本から顔を上げた。
 パッと時計を見ると、まだ十九時を回ったところだ。
 ――あれ? 成海君、今日遅くなるって言ってなかったっけ?
 文乃は首を捻りながら記憶を探る。
 確かに今朝、遅くなるかもしれないから、ご飯は先に食べていていいと言っていたはずだ。何しろ、夕飯に食べるようにと、いくつかの料理を作り置きしてくれていたのだ。冷蔵庫を開けてそれらを説明してくれたのだから、今朝の記憶で間違いない。
 おかしいな、と首を捻りつつも、出迎えようと立ち上がったところで、藤平がリビングに入ってきた。
 藤平は文乃の顔を見るなり、端整な美貌をふにゃりと崩して笑顔になる。
「ただいま、文乃」
 言いながら長い腕を伸ばして文乃の身体を浚い、ぎゅうっと抱き締めてきた。
 大好きな藤平の匂いが鼻腔をくすぐって、文乃はホッと目を閉じる。この世で一番安心できる匂いだ。
「おかえりなさい、成海くん……」
「ああ……文乃の匂いだ~……はー、癒されるわぁ……」
 愛する人との触れ合いを堪能する暇もなく、藤平が頭に自分の頬をスリスリとこすりつけつつ、文乃の匂いをすんすんと嗅ぎ始めてしまった。羞恥心に耐えられなくなった文乃が彼の腕の中でもがいてようやく解放される。
「に、匂いを嗅ぐの、禁止!」
「文乃だって僕の匂い嗅いでたくせに」
 ビシッと指を立てて宣言したのに、アッサリと反撃されて文乃は顔を真っ赤にした。
「ど、どうして……」
 バレていたとは……! と顔に書いてある表情に、藤平がプッと噴き出す。
「そりゃ分かるわよ。嗅がれてるかどうかくらい。まあ、僕は文乃に嗅がれるなら大歓迎だけどね」
 クスクスと笑いながら肩を竦める藤平は、百八十センチの長身、柔和な顔立ちの美青年である。一見細身に見えるが毎週ジムで鍛えた身体は筋肉質で、脱ぐと印象はずいぶんと変わる。
 と、見た目だけでもわりと驚きの多い男性なのだが、口を開くとオネエ口調、ついでに眼鏡男子、という、実に驚きのビックリ箱のような――情報過多な男なのである。
「だ、だって、安心する匂いなんだもん!」
 焦るあまりそんな本音を叫んでしまう文乃は、見た目が派手めの美人であるくせに、二十六歳でこの情報過多な男と出会うまで、一度も男性と付き合ったことがなかったという、かなりの拗らせ女子である。
 赤面して本音を暴露する恋人に、藤平はクッと眉間に皺を寄せた。
「……今日も彼女が可愛すぎて辛い……」
 呻くように何かを呟いているが、小さすぎてよく聞き取れない。
「え? 何か言った?」
「ううん。何でもないわ。それよりも、僕の匂いって、安心するだけ……?」
 恋人の声音に艶っぽさを感じ、文乃はドキリとして視線を上げた。
 すると案の定、藤平が片手でネクタイを外しながら、誘うような眼差しでこちらを見下ろしていた。
「あ、安心する、だけって……?」
 訊ねる声がうわずる。
 普段柔和でオネエ口調、できるだけ異性を感じさせないような物腰を、と気をつけている藤平が、文乃にだけ見せる雄の表情だ。
 ゴクリ、と思わず唾を呑んでしまった。
 そのことに敏い藤平が気づかないわけがない。くつりと喉を鳴らし、長い指で文乃の顎をついと持ち上げる。
「安心してくれるもの嬉しいけど、もっと男としても意識してほしいわね」
「し、してるわ!」
 男として見ていないなどと誤解されていたら困る! と慌てて口を挟むと、藤平はうっそりと笑った。
「もちろん、知ってるわよ。でも、僕はもっともっと、意識してほしいの。ねえ、文乃。僕の匂いで――興奮したりしない?」
「こっ、こ、興奮っ?」
 素っ頓狂な声が出た。
 何を言い出してくれているんだ、この男! と半分泣きながらも、惚れた弱みか、無視すればいいものを、ご丁寧にブンブンと首を横に振って答えてしまう。
「そ、そんなの変態みたいじゃないっ……!」
「変態なんかじゃないわ。好きな人の匂いを嗅いで興奮するのは、とっても自然なことじゃない。だって実際、僕は君の匂いで興奮してるもの」
「へっ?」
 唐突な暴露に、変な声が喉から漏れる。
 リンゴみたいに真っ赤な顔で、大きな目をまんまるに見開いている文乃を、藤平が妖しい眼差しで見た。
 す、と手を取られ、藤平がその手の甲にちゅ、とキスを落とす。
 それをぼんやりと見つめていたら、藤平の美しい瞳がチラリとこちらに向けられた。
「確かめてみる?」
「え……」
 何を? と首を傾げる文乃の手を、藤平がゆっくりと下におろしていく。その行く先は――と気づいた文乃は、身体中の血が沸騰するかと思った。
「ダ、ダメダメダメッ! 確かめなくていいですっ!」
 大きな声で叫ぶと、掴まれていた手を勢い良く振りほどく。
 拒絶された藤平は、両手を上げて「残念」と口を尖らせている。
 ――あ、危ない……! また流されてエッチに持ち込まれるところだった……!
 数歩後ずさって藤平と距離を置きつつ、文乃は胸元のシャツを掴む。
 藤平はこんな見た目でかなりの肉食獣である。隙あらばベッドになだれ込もうとするので、帰宅早々貪られてしまうこともしばしばだ。そうなると藤平ほど体力のない文乃は、クタクタになってしまって、晩御飯も食べずに眠ってしまうのだ。その日の夜にやるべきことをすべてぶん投げて享楽に耽ってしまった自分を、翌朝後悔することにはなりたくない。
 一度回避できたものの、藤平がまったく諦めていないのは、顔を見ればわかる。完全に戦闘モード、あの手この手で文乃をベッドに引きずり込もうとしてくるのは目に見えている。
 ――こんな時は……!
 文乃はズイ、藤平に掌を見せるように突き出した。心の中で、「ステイ!」と叫んでいるのは内緒である。
「成海くん! 私はお腹が空きました!」
 この言葉で、藤平のスイッチが雄からおかんに切り替わるのが分かった。
 面倒見がよく、人の世話をするのが大好きな藤平は、文乃のご飯を用意することに使命感を抱いているのだ。
「まだ食べてなかったの? 冷蔵庫に入ってるの、あっためてって言ってあったのに」
「成海くんを待ってたの。もっと遅くなるかと覚悟してたのに、思ったより早くて、うれしい。もう、お腹ぺこぺこだったから……」
 はにかんでそう答えれば、藤平がキリッと表情を改めて、シャキシャキと動き出した。
「今すぐ準備するからちょっと待ってて! まず、着替えてくるわ!」
 言いながら、藤平は寝室へと入っていった。
 その後ろ姿を見送りながら、やれやれと文乃は溜息をつく。
 ――私も、ちょっとは抵抗できるようになってるのかな?
 ふふふ、とひっそりと含み笑いをしながら、親友との会話を思い出していた。
 この間桜子と会った時、藤平に振り回されがちなことを相談してみたのだ。
 すると桜子が自慢げにニヤリと口の端を上げて、あることをアドバイスしてくれた。

『あのね、柳吾さんもそうなんだけど、料理をする男の人って、お腹が空いてる人を無下にできない性質があると思うんだ! だから言いくるめられそうになったり、流されそうになった時には、“お腹空いた!”って叫べば、全てを中断してご飯を作ってくれるよ! 藤平にも試してみなよ!』

 なんとお料理男子にはそんな性質が! と驚きつつ、さっそく試してみたところ、これが実に効果てきめんだったのだ。
 以来、文乃は、自分が藤平に流されそうな時、この呪文を使うようにしている。
 まるで恋人を犬のように扱っているような気がして少々心が痛むものの、藤平だっていつも口八丁手八丁で自分を好きなようにしているのだからおあいこだろう。
 それこそ恋愛初心者で、藤平の掌で転がされるままだった付き合いたての頃を思うと、ずいぶんな進歩ではあるまいか。
 そんな自分を褒めてやりたい気分で、文乃は機嫌良く自らも夕食の準備を手伝おうとキッチンへ向かった。

 彼女たちは気づいていない。
 無意識のうちに、恋人の欲求に応える身体になってしまっていることに。
 恋人に食べ物を与えるという行為がそもそも、彼女たちの恋人にとっては求愛行為なのである。愛の重すぎる恋人を上手くコントロールしているのだと思わせておいて、その実、彼女たちは彼らの欲求を満たしているのだ。
 この事実に彼女たちが気づく日が来るかどうかは、神のみぞ知るところなのである。

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