ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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春の訪れ

 久しぶりの晴れ間に、ニーナはレイナたち侍女を連れて、庭に散歩に出ていた。このところ雪が降り続き、表に出ることができなかったので、実に十日ぶりの散歩だった。
「ニーナ様、足下にお気をつけください。そこ滑りそうです」
 心配そうに注意を促すレイナの言葉に、ニーナは苦笑をする。
「大丈夫よ、転んだりしないわ。レイナったら心配性ね」
「心配するのは当然です。ニーナ様はもうおひとりだけの身体じゃないんですから」
 周囲の侍女や警護の兵士たちがレイナの言葉に同意するように頷く。
「もちろん、分かっているわ」
 無意識のうちにニーナは自分のお腹にそっと両手を当てた。毛皮のファーがついた分厚いコートに覆われているその部分はまだ真っ平らでほっそりしている。けれど、つい先日、新しい命が――エリアスの子どもが宿っていると確認されたばかりだった。
 この知らせは瞬く間に城中に広がり、人々は喜びに沸いた。エリアスとニーナはまだ結婚していなかったが、それはささいなことだ。一ヵ月後、春の訪れを待って二人は正式に結婚することがすでに決まっていたからだ。
「エリアスにも、くれぐれも体調に注意をするように言われているもの」
 妊娠が発覚してから、もともと過保護ぎみだったエリアスはますます庇護意識に拍車がかかったようだ。毎日のように医者が体調の確認にやってくるようになったし、警護や侍女の数も増やされた。
 今だってニーナが歩きやすいように庭の通路に降り積もった雪はあらかじめ除去されている。きっと兵士を動員して除雪させたのだろう。庭の散策をしたいとニーナが言ったから。
 ――もう、エリアスったら、心配性ね。つわりもないし、体調もとてもいいと分かっているでしょうに。
「エリアス様はニーナ様が心配なのです。お母君のリーナ様がニーナ様を産む時にとても難産だったという話ですし……」
「ええ、知ってるわ。お母様が話をしてくれたから」
 ニーナもそうだが、母親もとても華奢な体格だった。そのせいか、妊娠中も、出産の時もかなり大変だったらしい。
 それを聞き及んでいるエリアスは心配なのだろう。ニーナも同じように大変な思いをするのではないかと。そのため、妊娠発覚直後から、エリアスは万全の態勢をとるようにと方々に命令し、ニーナはそれこそ真綿でくるまれるような扱いを受けている。
 ――私はお母様よりも健康だからそんなに気にしなくてもいいと思うのだけれど。
 苦笑しつつも、ニーナはエリアスの過保護ぶりを素直に受け入れていた。多少窮屈ではあるが、それでエリアスが安心するのであれば我慢できる。
 もっとも、不満がないわけではない。
 日中、執務室に呼ばれることがなくなり、夜も体調を気にしてか一回の交わりだけで終わってしまう。
 ――とても優しくしてくれて、それはそれですごく気持ちいいんだけれど……。
 母親に似て被虐の気があるニーナにはほんの少し物足りなく感じられてしまうのだ。もっと激しくされたい、求められたいと思ってしまう。
「……はぁ……」
 悩ましげにため息をつくと、レイナをはじめとした侍女や警護の兵たちに緊張が走った。
「ニーナ様? どこか具合が? 体調がすぐれないのであれば、すぐに部屋に戻りましょう」
 どうやらレイナたちはニーナの欲求不満のため息を具合が悪くなったと誤解したらしい。ニーナは慌てて手を横に振った。
「まぁ、違うわ。体調はものすごくいいの。さ、散歩を続けましょう。せっかくの青空なんですもの」
 ニーナはそう言って再び歩きだす。
「あ、ニーナ様、そんなに急いでは駄目です」
「そうですよ、ニナリーナ様。もっとゆっくり歩いてくださいませ!」
 周囲の者たちはハラハラしながらニーナの後にぞろぞろと続く。
 偶然窓の外にその光景を見かけた者たちは、微笑ましげに口元をゆるませるのだった。
 
 ***
 
「ヴェルネリ領は変わりなかったよ。この先もしばらく忙しくて領地になかなか帰れないだろうけど、先代からの使用人たちがしっかりしているから、心配はなさそうだ。そうそう、あの人の部屋を整理していたら、面白いものが見つかったから持ち帰ったんだけど――って、陛下、聞いてる?」
 ヴェルネリ公爵であり、ヒルシュの宰相をしているイーヴォは、窓の外に視線を向けたままのエリアスに胡乱な目を向けた。
 ヴェルネリ公爵領から戻り、挨拶と報告を兼ねてエリアスの執務室にやってきたものの、先ほどから当の従弟は窓の前に立ったまま、こちらを振り向こうともしない。
「政務が滞ったら困ると思って雪の中を戻ってきた僕にその態度はないんじゃないかなー。一体、窓の外に何があるっていうんだい?」
 ぼやきながらも近づいてエリアスの横からひょいっと外を覗きこんだイーヴォは、そこに何人もの人を引きつれて庭を散策するニーナの姿に気づいた。
「なるほど、姫の姿に見とれていたわけだね」
「見とれていたわけじゃない。雪で足を滑らせやしないかと心配で見ていただけだ」
 ニーナから視線を外さずにエリアは淡々と答える。思わずイーヴォはため息をついた。
「……はぁ、そんなに心配なら、散歩に付き合えばいいじゃないか。君がぴったり傍にいて姫が転ばないように見張っていればいい」
「行こうと思ったらお前が来たんだ」
 お前のせいだと暗に告げたエリアスはようやくイーヴォに視線を向けた。
「それで? 面白いものとはなんだ?」
 どうやら人の話は聞いていたらしい。そっとため息を漏らしつつ、イーヴォは手にしていた小さな手帳を差し出した。
「机の奥底に隠されていたあの人の日記が見つかったんだ。さっさと燃やそうと思ったけれど、君にも見せてからにしようと思って持参したんだよ」
 イーヴォの言う「あの人」とは父親の前ヴェルネリ公爵のことだ。彼はめったにヴェルネリ公爵のことを父とは呼ばない。いつも「あの人」と呼んでいた。
 エリアスは眉をあげる。
「あの御仁の日記か。あまり興味ないな」
 そう言いつつエリアスは手帳を受け取り、パラパラとめくる。
「領地にある屋敷に蟄居して、自害するまでの間に遺書代わりに書いたものらしい」
「自害だったのか……。てっきりお前が殺したのかと思っていた」
「まさか。そう簡単に殺しちゃったらつまらないだろう? 幽閉して、僕がレイナを手に入れるところを見せつけるまで生かしておこうかと思ってたのに、その前にさっさと自分で自分の命に終止符を打ってしまったんだ」
 残念そうにイーヴォが答えると、エリアスは小さくため息をついた。
「執念深いな……。息子のお前にそこまで言われるとは、さすがの僕も気の毒になる」
 だが日記を読み進めていくうちに、エリアスの眉間の皺がどんどん深くなる。
「……なんだこれは。遺書なのかと思えば、書いてあるのはおじい様への恨みとおばあ様のことだけ」
「笑っちゃうだろう? 名宰相とまで言われた人が死の間際に残しておくのがこんな感傷的な詩みたいな文章だなんてね」
 前ヴェルネリ公爵の日記は父のように慕ったエーリク王への愛憎のまじった複雑な気持ちと、母親への思慕と恨みが延々と綴られていた。息子(イーヴォ)やエリアスへの言及は一切なかった。
「ニーナ姫やレイナ、それに僕の母親やレイナの母親への言葉もない。本当にあの人の中にはエーリク王とおばあ様のことだけしかなかったんだなって改めて思ったよ」
 イーヴォの口元が皮肉気に歪む。
「何人もの人生を捻じ曲げたくせに、罪悪感もないし、その自覚もなかった。……まさしく王家の歪みを体現したような人だよね」
 エリアスは何も答えず手帳を閉じると、イーヴォに手渡す。イーヴォは手帳を受け取ると、暖炉の前まで行き、燃え盛る炎の中に躊躇なく投げ入れた。
 パチパチと音を立てて手帳が燃えていく。一際明るく激しくなった炎を見つめながらイーヴォは呟いた。
「僕は『王家の呪縛』なんて信じていない。けれど、王家の血を持つ者には共通の性質があることは認めているよ。僕ら王族は執着する相手以外は本当はどうでもいいと思っているんだ。だから他者を簡単に切り捨ててしまえる」
 皮肉なことにその性質を持つ者は統治者として優秀だった。権力に固執せず、他者はどうでもいいと持っているからこそ公正明大で、情に流されることがない。
 エーリク王やエリアスが王として優れているのは当然だと言える。
「僕やエリアスなんてまさしくその典型だし、あの人だっておばあ様とエーリク王以外は何とも思っていなかった。そして、それは姫も同じ」
 優しく慈悲深いニーナ。その身には誰よりも濃い王家の血が流れている。
 真逆のように見えて、彼女も本質はエリアスやイーヴォと同じだ。大切なものと秤にかければ容易に他者を切り捨ててしまえる非情さを持っている。
 彼女の心には実はほんの一握りの人間しか住んでいない。彼女の心を揺さぶるのはそのほんの一握りの人間だけ。他は等しく同じだ。だからこそ誰にも優しく慈悲深い。
 ニーナにとって一番大切なのはエリアスだ。次点でレイナやイーヴォ。その次に他の親類たちが並ぶ。
 六年前の時点では前ヴェルネリ公爵はニーナの中で大切な伯父という位置にいた。
 ――でも姫はレイナと僕のためにあなたを切り捨てた。不要のものとした。
 レイナの出生の秘密をニーナに明かしたあの時、彼女が心の中で前ヴェルネリ公爵を自分たちと秤にかけて心の中で切り捨てたのがイーヴォには分かった。
 そのためにイーヴォはわざわざレイナのことをニーナに打ち明けたのだ。彼女に選択をさせるために。
 ――ねぇ、父上。姫に切り捨てられた気持ちはどうですか?
 暖炉の炎に向かってイーヴォは父親に嘲笑めいた質問を投げかける。
 もちろん、答えはない。もし答えがあったとしても意味のないものだ。
 ――だってあなたは最初から僕やレイナや姫のことなど本当は眼中になかったのだから。
 父親が見ていたのはエーリク王とマチルダだけ。
 そんな父親の妄執にこれ以上振り回されるのはごめんだと思った。だからこそ父親を捨ててイーヴォはエリアスの側についたのだ。
 イーヴォは灰になっていく父親の手帳をじっと見つめた。
 ――そして、僕ももうこれ以上あなたにこだわるのを終わりにします。エーリク王に愛憎を注ぎ続けたあなたと同じ轍を踏まないために。
「気が済んだか?」
 静かな口調でエリアスが尋ねてくる。イーヴォは暖炉から顔をあげて頷いた。
「ああ」
「そうか。では細かい報告はまた後で聞こう。僕はニーナの所へ行ってくるから留守は頼んだぞ」
 エリアスはぞんざいな口調で言うと、さっさと扉に向かった。けれど、ふと足を止めて振り返る。
「……ああ、そうだ。しばらくレイナを解放してやるから、二人でゆっくり過ごすといい」
 感情のこもらない声で言い捨てると、エリアスはイーヴォが返事をする間もなく執務室を出ていってしまった。
 あっけにとられたままイーヴォはエリアスの消えた扉を見つめたまま何度も瞬きをする。
「……君に気を使われるなんてね」
 呟くイーヴォの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
 暖炉に残っていた過去の残骸を穏やかな気持ちで火かき棒でならすと、イーヴォは先ほどまでエリアスがいた窓辺に立ち、外を覗きこむ。すると、ちょうど庭に出たエリアスがニーナを抱きしめたところだった。
 ――あの様子ではしばらく帰ってはこないだろうな。
 やれやれと思っていると、エリアスに何か言われたのだろう、レイナが振り返ってイーヴォのいる執務室の窓を見上げた。
 イーヴォは窓越しに手を振りながら目を細める。
 花壇に降り積もった雪に日の光が反射してきらきらと輝いていた。
「……ああ、もうすぐ春だね」

 ――長い冬が終わりを告げ、ヒルシュに春が訪れようとしている、そんなひと時の午後のこと。

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