ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

二人の住処

 雪哉と婚約してから一か月。二人の日常は劇的に変わったわけではなく、平日は妃奈子が一人暮らしをしているマンションに帰り、金曜日から日曜日のみ御影の屋敷に滞在するという生活に落ち着いた。
 マンションの契約をしたばかりで解約すると違約金も発生してしまうし、妃奈子ももうしばらく自立した生活を送りたい。入籍後の生活は、今後ゆっくり話し合っていけばいいと思っているのだが……、そんなのんびりとしたプランを雪哉は少々不満に思っているらしい。 
 彼は平日の夜も妃奈子と一緒にいたいと、隙あらば訴えてくる。
「この部屋を今すぐ引き上げようとは言っていません。もちろん、そうしたい気持ちはありますし、なにより隣の部屋にもいい印象がないでしょう。ですから、平日は二人きりで過ごせる部屋を別に借りたらいいのではないかと」
「御影のお屋敷があるのに、わざわざまた違うマンションの部屋を借りるなんてもったいないわ。私がお屋敷に戻ったら家事も料理も全部甘えることになってしまうから、しばらくこのまま修業するべきだと思うの」
「なるほど、それは僕のお嫁さんになるための花嫁修業ですか?」
「……いいえ、今は一人前の大人としての修業が先だと思うわ」
 せめて半年、いや一年は、普通の社会人としての生活を送りたい。雪哉の妻として必要な教育はマンションを解約後、御影邸に戻ってからでも遅くない。花嫁修業といっても、特に難しいレッスンがあるわけではないが。
 妃奈子のマンションの部屋にて、雪哉が微笑みながらその表情に不満の色をのせてくる。相変わらず器用だなと感心しつつも、妃奈子は内心たじろいだ。
 ――ちょっと言い過ぎたかもしれない……。
 雪哉と過ごせなくて寂しい気持ちは妃奈子にだってもちろんある。できれば毎日ずっと一緒にいたい。だけど、同棲していない恋人同士は週末にしか会えないのが普通だ。会いたくなればいつでも会いに行ける自分たちは恵まれていると思う。
「ほら、いつも一緒にいるよりも、付き合いたてのカップルみたいに会えない時間に愛を育むのも、きっと恋愛の醍醐味……」
「僕はさんざん会えない時間を味わって耐えてきましたよ。そう言うのなら、今すぐ入籍しましょうか」
「え……っ」
 雪哉の鞄から婚姻届が出てきた。しかも片方はすでに記入済みだ。妃奈子がサインをすればいつでも出せるようになっている。
 準備の良さに、妃奈子の頬は引きつりそうになった。
 ――このくらい予想がついてたけど……実物を見せられると、びっくりするわ。
 少々驚いてしまったが、妃奈子としても今すぐ婚姻届を出すのは構わない。それで雪哉が安心するなら、式を待たずに入籍だけしてしまってもいいのではないかと思うのだ。
 だが、自分はよくても、雪哉は御影の跡取り息子だ。妃奈子にはわからない家のしがらみなどもあるだろう。
 婚姻届を受け取り、妃奈子は自分の記入欄にサインをした。この場で書くとは思わなかったのか、雪哉が静かに驚いている。
 折り目通りにたたみ、妃奈子はそれを雪哉に返した。
「私だって、雪哉さんと早く一緒になりたいわ。だけど、これを役所に出すまでちゃんと順序を踏んだ方がいいと思う。それに、せっかくの記念日になるんですもの、二人で慎重に決めましょう?」
「ひなちゃん……」
 妃奈子は雪哉の胸に抱き着いた。すぐに逞しい腕が背中に回り、ギュッと抱きしめ返してくれる。
 彼はきっと不安なのだ。妃奈子と結ばれて心が通じあっても、まだ二人を繋ぐものに公的な証明がないことが。
 ――私はとっくに、あなたのものなのに。
 妃奈子の指には、婚約指輪とは違うカジュアルなリングがつけられている。あまりにも婚約指輪が豪華だったため、それはきちんと保管しているのだ。代わりに普段使いができる指輪を贈られた。妃奈子の誕生石であるタンザナイトのリングは、青色に黄緑色がまじりあった不思議な色合いでとても気に入っている。
 自分も雪哉が好きだから、安心してほしいという気持ちを込めて、背伸びをして彼の唇にキスをした。柔らかい感触を味わう前にすぐに離れる。
「……そんな可愛らしいキスだけでは、僕は満足できませんよ。でもこの部屋でひなちゃんを可愛がるのは、防音性が低そうですから我慢します。あなたの声を他の誰にも聞かせたくないので」
 雪哉は妃奈子のシングルベッドにちらりと視線を移し、そんなことを述べた。部屋の防音性に気を使っているところは、理性的だと感心すればいいのだろうか。少しわからない。でも、妃奈子の気持ちが間違いなく雪哉に向いていることは示せたのだろう。彼の纏う雰囲気が柔らかくなった。
 彼は妃奈子の頬に手を添えて優しく微笑んだ。
「近日中に、二人で過ごせる部屋を探しておきます。セキュリティや防音性に問題なく、通勤にも便利な場所を」
「えっ」
 ――もったいないって言ったはずだけど、これはもうNOって言えない……。
 結局妃奈子が折れて、雪哉の希望に添うことになった。

 翌週、雪哉は宣言通り、二人で過ごせるマンションを見繕ってきた。会社まで電車で二十分、乗り換えなしの都内のマンションだ。雪哉のことだから、広さは最低2LDK、もしくは3LDKを探してくるのかと思いきや、意外なことに案内されたのは1LDKのタワーマンションだった。
 角部屋の南東向きで日当たりは良好、しかも築浅の分譲物件だ。さらに、楽器OKの貴重なマンションは、防音性に優れているらしい。駅から徒歩五分という近さもうれしい。
「思った以上に広くない……」
「ええ、だって部屋が広かったらひなちゃんとくっつけないでしょう?」
 リビングダイニングは小型のダイニングテーブルと椅子、二人掛けのソファを置いたらいっぱいの広さだ。隣の寝室への扉がスライド式なので、広めのリビングとしても使える。そこにはクイーンサイズのベッドがすでに用意されていた。まさに同棲カップルの住処と呼ぶにふさわしい。
 ――このくらいなら、家賃もまだ手頃かも。
 もちろん、妃奈子の収入ではこのような条件の部屋の家賃は手が出せないが、雪哉が支払う分にはまったく痛くないだろう。
「はい、ひなちゃんの鍵を渡しておきますね」
「ありがとう。なんかすごく贅沢な暮らしね。帰る家が三つもあるなんて」
「ひなちゃんのマンションは希望通りしばらくキープしておけばいいと思いますが、平日はここがあなたの帰る家になったらうれしいです」
 カーテンや食器、ソファなどは妃奈子の好きに選んでいいと言われ、ワクワクしてくる。妃奈子のマンションは、とりあえずで揃えたものばかりだったから今度はじっくり好みのものを選べると思うと、くすぐったい気持ちになる。
「私物はそんなに多く持ってこなくてもいいわよね。長期旅行と同じくらいの衣類があれば十分かも」
「そうですね、荷物が増えると少々手狭になりますし。なによりあなたと寛ぎにくくなりそうです」
 部屋で唯一の家具であるベッドに誘導される。腰をかけた雪哉の膝の上に座らされ、妃奈子は熱い口づけを受け入れていた。
「ン……待って、カーテン……」
「目の前に建物はないですから、カーテンがなくても僕たちの姿は見られませんよ」
 夜になれば都会の夜景が綺麗に見えることだろう。このマンションの近くには、同じような高層ビルがないため妃奈子たちの部屋が覗かれることはない。
 声が漏れても隣人には聞こえず、外からも見られない二人だけの住処。誰にも咎められず快適に過ごせる場所を用意され、早くも新婚の気分を味わう。
 ――私の部屋は……とりあえず一年住んで、解約したらいいか。
 一年後にはこの部屋と御影邸が妃奈子の家になる。素肌を滑る雪哉の手に身を委ねながら、妃奈子は雪哉の頬にキスをした。

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